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――神聖ヴォラキア帝国、帝都ルプガナの水晶宮。
ヴォラキア皇帝の居城であり、帝国の繁栄と強大さの象徴たる美しき宮殿。その城の上層階に部屋を用意されるものは帝国の要職に限られ、その部屋もまた例外ではない。
帝国『九神将』の一人にして、『肆』の立場をいただくチシャ・ゴールドの執務室も。
「それにしても相変わらず過労死しかねない勢いの仕事量ですね! よくもまあチシャは何時間も何日も何年も飽きずに書類とにらめっこし続けられるものです」
「生憎と、当方もそこまで非人間的な仕事量に追われているつもりもありませんなぁ。そもそも、当方の仕事は書類仕事だけに留まらない次第」
「それってつまりチシャの仕事量はこんなもんじゃないぜってことですよね? これは僕が思うに閣下もチシャも死因は過労死ですよ間違いない!」
高い声で憚りなく、不敬罪に問われて当然の発言をするのはキモノ姿の青年だ。
実際、この青年の地位と肩書きを思えば、そのような発言は不敬罪どころか謀反の企てと思われて不思議はないのだが、窓すら全開で好き放題に放たれる暴言を、誰かが聞き咎める気配もない。まさに、いつものことという扱いだ。
「おやおや、こんなことでしかめっ面だなんて本当に疲れが溜まってるんじゃありませんか? いつもの調子ならこんなの舞台前の挨拶か前口上ってところでしょうにこれでうんざりとされてたら僕とチシャの長い付き合いが陰ります!」
「陰って大いに結構。それで当方でなく、アラキアあたりの負担が増えるようになるのなら、むしろ帝国のためには良しとすべき筋書きとすら思いますなぁ」
「ははは、何を言ってるんですか。僕がアーニャで遊ぶ機会がこれ以上増えたら帝国が壊れる方が時間の問題ですよ。壊したらさすがに閣下もお怒りでしょうしね」
「そのための犠牲が当方、という次第ですか。まったく」
けらけらと笑いながらの青年に、チシャはゆるゆると首を横に振った。
青年は執務室の応接用の椅子ではなく、わざわざ執務机の端に座り、仕事に追われるこちらの手を止めようと、あれこれ話しかけては嫌がらせをしてくる。
確かに疲労感を覚えているが、ここで休憩しても青年の思惑通りで癪だし、休みを取らずに過労死しても青年の言う通りになる。どちらもチシャの望む流れではない。
「ならば当方、仕事の手を止めぬ方を選ぶ次第ですなぁ」
「退屈で気紛れな僕に構うのもチシャの大事な仕事の一個だと思いますけどねえ」
と、どちらでも手が止まるなら、少しでも仕事の消化を進めようと、そうチシャが青年の頬を不満で膨らませかけたところだ。
「チシャ様、封書が届いております」
そう、兵が手紙を届けてくれたため、結局作業が中断する。手紙を机に置かせ、兵に退室を促したあと、チシャはその封書の刻印を見て、目を細めた。
秘密裏に進めていた計画、その成否を知らせるための封書だ。
「なんか悪い顔ですよ、チシャ」
表情など変えていないだろうに、人聞きの悪い指摘をしてくる青年。
その眼力の確かさを無視し、チシャは封書を破ると、計画の成否を確かめるために便箋を開こうとした。――瞬間だ。
「――ッッ」
突然の咆哮と共に、封書に綴じられていた黒い獣――幻狼がチシャに襲いかかる。
影を糧に喰らい、影と同化する恐るべき獣は、その巨体を如何なる方法でか封書に閉じ込めて、手紙の受取人の喉笛を喰らうべく牙を剥いた。
その漆黒の牙が、対照的に真っ白いチシャの喉に猛然と喰らいつき――、
「残念ですがチシャは過労死だと今僕が予言したばかりでして」
つまらない冗句には、雷速で抜き放たれた刃が鞘に納まる納刀の音が重なっていた。
まさしく、稲光のような刹那の剣閃、それはチシャを引き裂くはずだった幻狼を真っ二つに斬り、凶獣と語り継がれる怪物を瞬きの一瞬で討伐した。
「――――」
その名前に相応しく、幻のような散り様を晒した幻狼。その姿が黒い煤のように散り散りになるのを見届け、チシャは牙の届きかけた己の首を撫でる。
「恨まれてますねえ。まぁ恨まれて当然の仕事ぶりですから日頃の行いでしょうか!」
「あなたに言われるとは、当方も嘆きたくなる次第」
刹那の攻防でチシャを救い、しかし青年は恩着せがましくすることもなく、何事もなかったかのようにお茶の湯飲みに口を付けている。
その青年の余計な一言に、相変わらず芯を食ったことを言うとチシャは苦笑した。
「よもや、当方に幻狼の牙が向くとまでは思いませんでしたなぁ」
今しがた討滅された幻狼は、チシャが暗殺を命じ、王国へ送り込んだ刺客の得物――それがチシャに差し向けられた理由は明白、相手からの示威行為だ。
特別な育成法でしか育たず、影主以外に従えられない幻狼がチシャを狙ったのは、幻狼を操れる影主がそう命じたからに他ならない。――すなわち、シノビの裏切りだ。
使命に殉じ、どんな命令も忠実に命懸けでこなすはずのシノビ、それを裏切らせた。
「その上で当方を狙わせたのは、報復ではなく、脅迫目的と見る次第」
おそらく、相手も幻狼がチシャを殺せる期待はしていなかっただろう。
文官肌を自負するチシャではあるが、これでも『九神将』に名を連ねる一人だ。青年の雷速の手助けがなくとも、幻狼ぐらい退けられた。
「もっとも、無傷でとはいかなかったと思う次第ですが」
「お? お? お? もしかして僕に感謝する場面が到来しました?」
「当方の説教はしてやっているのであって、させていただいているわけではなかったと認識しておりますなぁ」
遠回しに黙れと伝え、チシャは幻狼を綴じていた白紙の封書を握り潰した。
要求が書かれているわけではないそれは、これ以上の情報をこちらにもたらさない。そこに断固たる交渉の拒否を感じ、同時に相手の異常な傲慢さをも受け取った。
たとえ相手がチシャ・ゴールドであろうと、負けるつもりはさらさらない。その上で、これ以上はお互いに死に絶えるまでやることになるという、宣戦布告と降伏勧告。
それが幻狼を綴じた、この白紙の封書の意思表示だとチシャは受け止める。
そして憎らしいことに、この場はこの協定に乗らざるを得ない。
「ここより先は、当方の私兵を動かすことになる。そうなれば閣下に伏せておくことは叶わぬと見る次第。さすがは妹君……あるいは、その守護者の仕業ですかなぁ」
皇帝であるヴィンセント・ヴォラキアの弱味であり、七十七代皇帝の瑕疵になり得る存在。そして遠からず来たる『大災』に向けた不安要素と、あらゆる観点から、プリシラ・バーリエルを盤面から取り除いておきたかった。
だが、それが困難であることも、チシャは何となく予想していた。
ならば、あとは、せめてなけなしの最善と、なけなしの最良を。刻々と迫りつつある、最悪の時を万全で迎えるべく、『白蜘蛛』は手を休めない。
「――神聖ヴォラキア帝国の剣狼を、決して殺させぬために」
――あの紅炎を守る守護者がいるように、『白蜘蛛』もまた、守護者であるのだから。
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Re:ゼロから始める異世界生活短編集 12短編集第十二弾に描かれるは、過去を物語る三つの断片。
青き日のユリウス・ユークリウスが、初任務で出会った赤毛の少女と事件の解決に挑む『First Mission』。
若かりしロズワール・L・メイザースが共犯者たちと共に、王国と帝国を揺るがす『人狼』を取り巻く陰謀に立ち向かう『Once Upon a Time in LUGUNICA II』。
そしてアルがヴォラキアのシノビであるヤエ・テンゼンと共に暗躍する『紅炎の守護者』――。
「ヤエ、手出しすんな。そいつには、やってもらうことがある」「――お望みのままに」
全編Web未掲載の過去を綴る物語。――歩んだ道が誇りとなり、誇りが志を支える剣となる。発売日: 2025/04/25MF文庫J