6
――ヴォラキア帝国のシノビであるハマヤル・ウエズミが命じられたのは、ルグニカ王国の王選候補者であるプリシラ・バーリエルの暗殺任務。
その暗殺の狙いや目的をハマヤルは知らず、また問い質そうとも思わない。
そういう教育を受けたハマヤルは、齢四十を過ぎた今も自由意思を持たない傀儡として完成されており、この任においても不要な疑問を一切抱かなかった。
ただ、事前に共有された情報には注意すべき点が多く、標的であるプリシラ・バーリエルの能力の高さや、先んじて任務に失敗したヤエ・テンゼンの情報――特に後者は、同じシノビである以上、無関心ではいられない事実だった。
「オルバルト翁の秘蔵っ子が」
帝国に名高い『九神将』の一人であり、『悪辣翁』の名をほしいままにするオルバルト・ダンクルケン。ヴォラキアのシノビの頂点であるオルバルトがその才能を認め、天才と評したシノビの申し子がヤエ・テンゼンという娘だった。
それが任務の前任者であり、失敗した彼女の後任がハマヤルと、同じ任務に投入された九人のシノビたち――失敗の許されない、シノビの決死隊だ。
他国での活動である以上、支援や協力者は潤沢と言えない環境だったが、ちょうど標的の屋敷で夜会――それも、顔を隠したものが集う仮面舞踏会なる催しが開かれたのは、ハマヤルたちにとって時が味方した千載一遇の好機であった。
前任者の失敗を受け、限られた時間の中で最大限の用意を進め、開いた可能性――バーリエル邸の地下、そこに存在する隠し通路からの侵入策だ。
プリシラ・バーリエルの亡夫、ライプ・バーリエルは狡猾で慎重かつ、病的に他人を信じない人間だったらしく、屋敷には彼以外の知らない隠し通路が存在していた。設計者と施工者をも口封じし、自分以外に知るもののいない状況を生み出したライプ、彼の死で地下道は永遠に閉ざされたままになるところを、ハマヤルたちは消された設計者が残していた図面を入手することで、地下道に日の目を見る最後の機会を与えた。
ヤエ・テンゼンさえ返り討ちにしたプリシラ・バーリエルの守護者、その意識を己以外の九人のシノビによる陽動で抑え、ハマヤルが本命の矢として放たれる。
まさしく、万全の策だった。――否、策のはずだった。
「――星が悪かったんだよ」
そう言って、自分以外の足音がするはずのない地下道に、ハマヤルは奇矯な格好をした男の姿が浮かび上がるのを目にした。
漆黒の鉄兜で頭部を覆い、夜会に合わせた礼服の左の袖を結んだ隻腕の男。プリシラ・バーリエルについて情報を収集すれば、自然と意識に入り込む人物――プリシラの一の騎士とされる、アルという正体不明の男だった。
「何故……」
「作戦がバレたかって? 心配しねぇでも、お仲間が喋ったわけじゃねぇよ。とにかく、片っ端から壊したり、傷付けたり……まぁ、色々試してみて、あんたがどっから飛び出してくるかの条件を絞ってった結果、ここに辿り着いたってだけ」
「――――」
「意味わかんねぇよな? 悪ぃな、そういうバグでよ」
まともに受け答えする気がない、というよりは、自分の理解できない異なる常識の持ち主である、とハマヤルはアルのことを結論付けた。ともすれば、奇矯な見た目も悪ふざけの産物ではなく、アルの中では筋の通った理屈があるのかもしれない。
だが、いずれであれ――、
「邪魔立てするのならば、容赦はしない」
どのみち、ハマヤルに退路はないのだ。
九人のシノビが命を散らした。ならばハマヤルも、それらの死と釣り合う死を。
「言っとくが、容赦しねぇのはこっちも――」
身構えるハマヤルに踏み出し、アルが何事か口走ろうと――だが、それを言わせるよりも、地下道の暗闇から飛び出した影が彼に喰らいつく方が早い。
「な」とアルの喉が驚きと恐怖に震え、その叫び声さえも真っ黒な闇に呑み込まれる。
それは文字通り、影そのものが抜け出し、漆黒の獣となって襲いかかった惨劇――ハマヤルの、『幻狼』という影の獣を操る術技だ。
幼い頃より、ハマヤルは影を喰らう獣に己の影を食わせ、共に育った。
目や鼻、生き物が愛嬌を感じさせる部位を一切持たない幻狼は、ハマヤルの成長に合わせてすくすくと大きくなり、いつしか巨大な四足獣を模した姿へ変じていた。まさしく、狼の影絵と表現するのが最もしっくりくる見た目、それが幻狼だ。
普段から、ハマヤルの影に折り畳まれ、あらゆる隙間に忍び込める幻狼は、暗殺という任務を負わされるシノビとして突出した戦果をハマヤルにもたらした。その結実が、此度のプリシラ・バーリエルの暗殺という、最後の任務。
四十路を過ぎたハマヤルに、もはやこれ以上の大役は回ってこない。故に、シノビとして生きた自らの足跡の最後を、ハマヤルは己の半身と共に飾りにきた。
それを――、
「貴様のような偏物に、この任を邪魔されてなるものか」
猛然と尾を、尻を振るい、幻狼が地下道に押し倒したアルの命を蹂躙する。
この荒々しい幻狼と連携し、敵に一切の抵抗を許さずに仕留めるのがハマヤルの基本戦術にして、応用する必要のない揺るがぬ勝利の方程式だ。
「――ッッ」
唸り声を上げる幻狼が相手の手足を貪り、獲物が抵抗力を失う瞬間を待ちわびる。それを近付けるのが、ハマヤルの幻狼の飼い主ではなく、共存者としての役回り。
しかし、このときハマヤルは幻狼の加勢に動けなかった。
何故なら――、
「――鋼糸、だと?」
ポタポタと、差し出した左腕から血を流し、飛びずさったハマヤルが歯軋りする。
流血する左腕は、とっさに首を守った代償に指先から裁断され、肘までを無数に分割される憂き目に遭った。その喪失感を意識の端から排除し、筋肉を締めて止血、そこまでをシノビの技術として反射的にこなし、ハマヤルの心は怒りに満ちる。
理由は明白、ハマヤルの腕を刻んだ鋼糸とは、シノビの術技の秘奥の一つ――現代ではたった一人、『紅桜』と称されたヤエ・テンゼンにしか使いこなせない技なのだ。
「『紅桜』ぁぁぁぁ――!!」
「あ~、もう、そんな大声で呼ばれなくともですってば」
地下道に怒声を響かせるハマヤル、その暗がりの視界に不意に赤毛の女が浮き上がる。
細くしなやかな、それこそ鋼糸のように鍛え上げられた肢体を有し、その体にシノビの培った技術の粋を詰め込まれた女、ヤエ・テンゼン。
王国に送り込まれ、任務に失敗して命を落としたと報告された女が、そこにいた。ドレス姿で、猫の仮面で顔を隠しているが、間違いない。見間違いようもない。
生きて、のうのうと王国で匿われていた。その事実に、ハマヤルは激昂する。
「任務をしくじったシノビが、何ゆえにまだ血を通わせている」
「やめましょ~よ、そういうの。知ってる顔が生きてたんですから、お互いに久しぶりですね~って笑顔で手を打ち合ってもいいじゃないです? まぁ、ハマヤルさんの左手は私が散らばらせちゃいましたけど」
「『紅桜』ぁ……!」
「やっぱり無理ですかね? 私、昔から嫌われてたみたいですし」
自分の周囲に鋼糸を舞わせながら、ヤエは拗ねたように唇を尖らせる。その仕草に、態度に、言動に、ハマヤルは神経を逆撫でされるようでならない。
彼女の言う通り、ハマヤルはヤエを里で修行中の頃から知っている。歳が倍ほども違うのだ。ヤエが修行を始めた幼子の時点で、ハマヤルはすでにシノビとしての任務に従事していたが、里での話題に彼女は事欠かなかった。
一桁の年齢の時点で、マナを用いた身体操作技法である『流法』を習得し、シノビの多くが数年をかけて一つを覚える術技を一年足らずで十数個も身につける。極めつけは、百年単位で取得者の現れなかった『鋼糸術』さえ修めたことだ。
まさしく、神童の名を、天才の評価を、ほしいままにしたシノビの中のシノビ――それが想像を絶する天分を与えられた、ヤエ・テンゼンだった。
それなのに――、
「それだけシノビとしての才に溢れていながら、貴様にはシノビの志がない。へらへらと笑い、何事にもまともに向き合わず、真剣味が欠片もない……」
「ハマヤルさんや里の皆さんに、シノビの理想像があるのはわかりますよ? でも、自分がなり切れないそれに、私がなれるって期待されるのは困ります。大体、私は私のできることをしてるだけで、できない人の方が悪くないです?」
「命惜しさに敵に降るものが、自らの在り方を正当化か!?」
取り繕いにしか聞こえないヤエの抗弁に、ハマヤルは尽きぬどころかあとからあとから湧いて出る怒りを薪に燃え上がる。
何故、どうしてと、嘆きは尽きない。何ゆえ、天はヤエを選んだのか。――ヤエ・テンゼンのような、シノビらしさの欠片もない女に、シノビの神髄を授けたのか。
その、嫉妬とも口惜しさともつかない激情に震えるハマヤルに、鋼糸を操る左右の五指を弄んでいたヤエが、「ん~」と猫のように唸った。
唸って、それから、
「実際に降ってますので、それについては言い訳困難かな~と思いつつ、そこだけは間違われたくないので訂正させてくださいな」
「今さら何を……」
「――私が降ったのは命惜しさじゃありません。命さえ、捨てさせてもらえなかった。ハマヤルさん、私は『死』ではなく、『恐怖』に屈したんです」
ゾッと、底冷えするようなヤエの言葉に、ハマヤルはその先の怒りを封じられた。
不真面目であろうと、シノビとしての感情制御の訓練を受け、いかなる拷問にも口を割らない精神を身につけたヤエの、偽りとは思えない鬼気迫る発言。
それは真っ直ぐに、ハマヤルの心を穿つもので――、
「――ほら、起き上がりますよ。私の『恐怖』の担い手が」
そう、ヤエが芝居がかった物言いをした直後だ。
「――――」
不意に、それまで延々と地下道の冷たい空気を震わせていた音が消える。それは、幻狼が喰らいついた獲物の命を貪り、力任せに食い荒らす息遣い。
いつの間にか、それがやんだ。だが、本来なら幻狼は獲物を殺したあと、すぐにハマヤルの影に戻るのに、それがない。
その理由は――、
「やれやれ……ようやっと、オレの言うことを聞くようになったぜ」
言いながら、すっくと影の中、倒れていた男がその場に立ち上がる。男の傍らには、地下道の闇と同化する幻狼が跪き、大人しく頭を垂れていた。
それはまるで、男――アルへの服従を示す、獣の敗北宣言のようで。
「どうやって……」
「さあ? アル様のすることですから」
絶句したハマヤルの問いに、当人ではなく、ヤエの方がそう答える。そのヤエの声に隠し切れぬ喜悦を感じ取って、ハマヤルは新たな怒りの火種に腹の底を燃やす。そのままヤエを振り返り、声を上げようとして――、
「――――」
静かに、闇の中の男を見るヤエの眼差しの熱に、ハマヤルは理解した。
ヤエ・テンゼンは、壊れていた。里にいた頃からの変わらぬ不真面目と、ハマヤルは彼女の態度をそう評したが、それは誤りだった。
自己申告の通り、ヤエは『恐怖』に屈し、その心を、在り方を、壊されていたのだ。
そして、その原因となったのが――、
「ヤエ、手出しすんな。そいつには、やってもらうことがある」
「――お望みのままに」
恭しく一礼し、ヤエが張り巡らせていた鋼糸を引っ込め、一歩下がった。アルに命じられた通り、この戦いに干渉するつもりはないようだ。
それは勝機だった。どうやってか幻狼を押さえられた今、左腕をなくしたハマヤルにヤエと戦って勝ち目はなかったが、相手が彼女を引かせたなら話は別だ。
別のはずだ。別である。そう、別であった。別なのに。別の。
「う、おおおお!!」
頭の中、使命感を掻き消すほどの不安に支配されながら、ハマヤルは吠えた。
吠えて、シノビとしての己の持てる技の全部を注ぎ込まんと、アルへ飛びかかる。そのハマヤルを正面に、礼服の首元を緩めながら、アルは言った。
「――星が悪かったのさ」
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そしてアルがヴォラキアのシノビであるヤエ・テンゼンと共に暗躍する『紅炎の守護者』――。
「ヤエ、手出しすんな。そいつには、やってもらうことがある」「――お望みのままに」
全編Web未掲載の過去を綴る物語。――歩んだ道が誇りとなり、誇りが志を支える剣となる。発売日: 2025/04/25MF文庫J