9
暗く深い奈落の底で、アルは汚水に塗れた我が身を儚んでいた。
「マジかよ、これ……よく生き残ったな、オイ」
ぐずぐずとした足場、手を突いた地面の生温い感触に顔をしかめ、アルは汚れた手をズボンで拭うと、兜の隙間に入った泥を指で掻き出した。
その間、周囲に目をやるアルは何も見えない無灯の暗闇に舌打ちする。そして、兜の泥抜きを中断し、いそいそと腹の備えから白い石を取り出した。
――ラグマイト鉱石と呼ばれる、衝撃を受けると発光する特殊な石だ。
魔鉱石とはまた性質の異なる石で、火がなくても光を得られるために重宝する。それを自分の兜にぶつけ、白いぼんやりとした光で辺りを照らし出す。
そして、最初に目についたものを見て、アルは「うげ」と声を漏らした。
「死なずに済んでラッキーなんて、単純に思ってたわけじゃねぇが……」
レイファスト邸の応接間、その床が開いた奈落の罠の穴底だ。敵の狙いは当然、罠にかかった相手の転落死だったのだろうが、その最悪の結果は免れた。
とはいえ、格好よく颯爽と罠を掻い潜り、危難を脱したなんてわけではなく、たまたまアルが落ちた先にクッションがあり、転落の衝撃が緩和されただけの話。
ただし、そのクッションとは――、
「……ぐずぐずの死体の山、か。ひでぇ臭いだな」
鉄兜の隙間、金具に詰まったものが『泥』であるといいなと思いながら、アルは自分を受け止めたクッション的な状態の人間の末路に顔をしかめる。
その死体の数、十や二十では足りないほどだ。
おそらく、エッダの仕切っている材木業者の従業員、その一部ではなかろうか。どの死体も着衣はそのまま、装飾品も奪われていないため、金目当ての殺しではない。死体の処理は雑だが、死体が死体になった理由は単純な線ではないだろう。
「つまり、屍人は長持ちしねぇのが難点ってわけだ。この分だと、屍人ビジネスは大成しねぇだろうな。ハイソな上流階級には嫌がられそうな要素満載だし」
ああして仕掛けてきた以上、エッダ・レイファストが屍人と関係があるのは確実だ。その影響力と財力を思えば、彼女こそが黒幕の可能性も十分にある。
そうなると、上に取り残されたプリシラの安否が危ぶまれるが――、
「ヤエの奴、オレを蹴倒してまで残りやがったんだから、ちゃんと仕事してんだろな。助けなんかいなくても、姫さんなら何とかしちまいそうだが……ぁ?」
そうして、ラグマイト鉱石の光を頼りに辺りを観察していると、ふと死体の山の方から妙な気配を感じ取った。そちらへ顔を向け、アルは光を傾ける。
――瞬間、空洞となった眼窩と目が合い、アルは思わず後ろへ下がった。
「うお!?」
「あ、ぁぁぁあぁぁ!」
おぞましい亡者の呻き声を上げ、ほとんど原形を留めていない死体が蠢く。それは骨が剥き出しになった腕を伸ばし、アルを地獄へ引きずり込もうと襲いかかってきた。
一瞬、反応が遅れてアルは息を呑む。間に合わず、相手の指がアルを抉ろうと――、
「――ぶ」
「へ?」
直後、その亡者の腐った頭部を、上から落ちてきたクナイが無惨にぶち抜いた。
――それが、応接間のヤエが奈落の深さを測るために落としたクナイであるなどと、このときのアルには理解しようがない。
ただ、理解し難い幸運に救われ、アルはかろうじて命を拾うことに成功する。
亡者にも質があるのか、頭部を砕かれた死体が活動を止める。腐った腕を落とし、呻くことさえなく頽れて完全に亡者は沈黙した。
しかし、それはあくまで最初の一体、その窮地を逃れただけに過ぎない。
「……嘘だろ」
そう呟く眼前、死体の山が蠢いて、腐肉と腐汁がぬかるんだ地面を浸していくのがわかる。このぬかるみの正体が何なのか、溢れる腐臭に鼻腔を侵されながら、アルはじりじりと背後へ後ずさる。可能な限り、目の前の『それ』の注意を引かぬように。
だが、そんなアルの決死の試みは、思わぬ形で現れる闖入者に妨害される。
「どわぁっ!?」
刺激しないように、というアルの配慮が馬鹿らしくなるぐらい、それは勢いよく死体の山の上に転落し、盛大に腐肉を周囲へぶちまける。白い光に映ったのは、またしても上から落ちてきた異物、ただし今度は二人の人間だ。
ちらりと見えた姿が確かなら、少なくとも一人の額にはクナイが刺さっていた。
つまり、下手人はヤエ。彼女が上で奮戦している証だが、タイミングが悪い。
「う、おおおお――っ!」
転落物の衝撃を受け、弱々しく蠢くだけだった死体の山に大きな動きが生まれる。それは正しく大きな動きで、死体の山そのものが動き出したような光景だった。
――十や二十では足りぬ腐った人体の塊、それらが絡み合いもつれ合い、もはや人ではないグロテスクな一個体として成立、屍人の塊が転がってくる。
「じ、冗談じゃねぇ――っ!!」
猛然と転がってくる屍塊に背を向け、アルは全力で走り出した。
足場と視界の悪さはアルの人生経験でも最悪の部類だ。これほど必死に命懸けで走るのは、剣奴孤島のコロシアムから脱走した夜以来――ただ、あのときに追ってきたのはどれだけ恐ろしくても人間だったが、今回は恐怖の性質が違う。
「下水? 排水処理場!? 出口あんのか、ここ!?」
ゾーリと汚水の相性は悪いが、かろうじて転ばずに走り続ける。道幅の広い通路が真っ直ぐ続くため、横道に逸れて屍塊をやり過ごす作戦が取れない。
地図もなく、出口の当てもない状態で走り続けるのは現実的ではないだろう。
追いかけてくる屍塊が息切れしてくれるなら逃げる価値もあるが、すでに生命活動の終わった死体とスタミナ対決しても勝ち目は薄い。
おまけに――、
「ぐっ、マジかよ!」
必死に走る正面、うっすらと視界に映り込むいくつもの人影。両手を突き出し、ゆらゆらふらつく姿はオーソドックスなゾンビスタイルだ。カッフルトンで見かけた喋れるタイプは希少品だったのか、知性のないゾンビのエントリーにアルは歯噛みする。
無論、おびただしい水音と腐臭をばらまいて迫るアルと屍塊に、通路に立ちはだかるゾンビたちが気付かないはずもない。前門のゾンビ、後門の屍塊。
ゾンビに掴まれても命の危機、それ以前に背後の屍塊に押し潰されても命の危機――ここには、アルのピンチを救ってくれる頼れる味方は一人もいない。
自分の命を救うには自分の力を尽くすしかない。――持てる、全てを使って。
「クソ、広さと尺がわからねぇ! 分が悪ぃが、くるめるか……!?」
迫ってくる屍塊と、目前に近付いてくるゾンビとのエンカウント。アルは必死に周囲の地形に目をやりながら、兜の奥で唇を噛み切った。
そして、覚悟と共に吠える。
「――クソったれ! 領域、展開!!」
叫んだ瞬間、刹那だけアルの周囲の空間が捻じ切られるように歪み、たわむ。
まるで、常外の存在の干渉を受けたような、水面に浮かんだ泡越しに世界を見たときのような不均衡な、そうした異様な情景がどす黒い腐臭に満ちた空間を浸した。
そして、
そして、そして、
そして――。
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