第一章『悪魔ISマイぶれいん』
■1
「そこは文芸部の部室ですよ」
扉を開こうとした瞬間に声をかけられた。開く扉を間違えたのだと、凛とした声に諭される。
銀色のショートヘアーと、紺色の瞳が特徴的な少女が、怪訝そうにこちらを見ていた。
世の中にはときどき、実在を疑うレベルの美少女というものが現れる。彼女はまさにそれで、その顔だけで一生分のお金を稼いでしまいそうな雰囲気の少女だった。見覚えがある。クラスメイトだ。一度聞いたら、忘れられない名前をしていた。
「孤紺糖財……さん」
「普通フルネームで人のことを呼びますかね。浅葱虎徹くん?」
「……あぁ、悪い。一度は口に出したい名前だったんだよ」
「まぁ、奇跡的な語感であることは認めます」
そう言って、彼女は肩を竦めた。
「それで。何故私の部室に入ろうと?」
僕はそこでクラス札を見る。そこには『文芸部』との表記があった。
「いや……場所を間違えたな。勘違いだ、悪い」
僕が居たのは三階。普段あまり足を踏み入れることのない、見慣れないフロアだった。古びた廊下はどこまでも静まり返り、窓の外からは中庭の喧騒が嘘のように遠く聞こえる。
そういえば、階段をかなり上ったような気がしたが、三階まで来ていたのか。僕が行きたかったのは二階だ。素直に頭を下げると、彼女も了承したように頷く。
それから、僕が手に提げるレジ袋を見た。
中身はカロリーメイトと栄養ゼリー。僕の一般的な食事である。
「……なるほど。人気が少ない旧校舎で昼食に洒落こもうという訳ですか。確かに人目を忍ぶには格好のスポットですね。それで……例の胡桃沢さんと昼食と言う訳ですか」
「そうなるな」
「そうですか。それにしても、あなたも中々隅に置けませんね」
彼女はにやりと笑った。
「入学して一週間だって言うのに、もう噂になってますよ。『一年一組に、ありえないくらいの美人が居る』。しかもその子は――」
「『誰とも馴れ合おうとしない。たった一人を除いて』?」
続く言葉を先取りすれば、彼女は更に笑みを深める。
「それで、どうなんですか? 付き合ってるんでしょうか、お二人は」
「断じて違う」
「ふぅん」
彼女は、つまらなそうな声を上げた。
「傍から見てるだけで分かりますけど、あなた、惚れられてますよ?」
「そうだな」
僕は淡々と言った。傍から見たらそう見えるのかと、内心で嘲笑いながら、とりあえずこの場を誤魔化すために。
「淡泊ですね。もっと舞い上がってもいいのでは?」
胡桃沢は僕を利用しようとしているだけだぜ、ココンさん。
まぁそんなことを言っても伝わる訳がない。
「もういいか?」
そう言って、僕はその場を去ろうとした。
「興味のない異性から向けられる好意なんて、気持ち悪いだけじゃないですか」
背中から問いかけられる。
「……辛いんじゃ、ないですか? 噂されて、無理やり付き合わされて、それで――」
「あぁ、もちろん」
彼女の問いかけに、僕は深く頷く。
「周囲の好奇の視線が、気持ち悪くて仕方ないね」
「……そうですか。相談事があるなら聞いてあげますよ?」
「いいや、特にないな」
「そうですか」
そこで、彼女は僕に興味を失ったようだった。
それから僕が開かなかった文芸部の扉を開いた。
「じゃあ、頑張ってくださいね。アサギくん」
彼女は、冷笑と共に扉を閉めた。
それから胡桃沢と共に昼食を取って、午後のくだらない授業を受けて――
放課後になった。
教室を真っ先に抜け出して、駐輪場にて胡桃沢と合流。
そして、僕たちはいつものように帰路を辿った。
ギィ、とペダルが軋んだ。
制服の背中越しに、微かに胡桃沢の体温が感じられる。
リアキャリアに腰を下ろす彼女が、僕の腰に腕を回していた。そうなると当然彼女の豊満な胸が僕の背中に押し当てられる構図になるのだが、煩悩は脇に追いやって。
夕風と真っ向勝負。
忙しなくペダルを漕ぐ僕を、胡桃沢は後部座席から「がんばれー」と無邪気に応援している。
僕と彼女を乗せた自転車は、舗装されたアスファルトの上を駆けていく。
あの卒業旅行から、一ヶ月が経った。
胡桃沢と僕は、まだ友達のままでいられている。……今のところは。
「ねぇ、これ……ほんとは犯罪なんだよ?」
蠱惑的に耳元で囁かれる。それだけで逸りそうになる鼓動を押さえつけながら、僕はいたって冷静に返す。
「どうせ降りろって言っても降りないんだろ」
「降りない」
「……それに、周りからは見えてないんだろ、お前のこと。じゃあ問題ない」
「ふふっ。みんなに見られてたら困るよね。こんなにかわいい女の子を後部座席に乗せてさ。付き合ってるのかって勘繰られちゃうかも」
背後で、彼女がいたずらっぽく笑う気配がした。
相変わらずの可愛さだ。心臓が止まらないように用心しなければいけない。
努めて冷静に、僕は応じる。
「既に噂にはなってるぞ」
「えー?」
彼女は嬉しそうな声を出す。
それから、僕の背中に頭を押し付けて、甘ったるく囁いた。
「じゃあ、隠すこともないかもね。正々堂々二人乗りしちゃおっか?」
「わざわざ補導されたいのか?」
「やだ」
「だろ。大人しく隠れとけ」
「つれないんだから、もう」
胡桃沢は、からかうように僕の頬を人差し指で突いて――
どこまでも楽しそうに、笑った。
風の中を突き抜けていく僕たちの姿は、傍から見れば一人に見えるそうだ。
魔女は、『呪い』と引き換えに魔術を得る。
魔術とは、魔女の願いのカタチ。
――胡桃沢加恋は、世界を意のままに操りたいと望んだ。
彼女が手に入れたのは、『催眠』の魔術。
なんでも悪い事やりたい放題の、チート能力だ。
例えば、今、コンビニに居る訳だが──
魔術を用いれば、店員を操ってこっそり廃棄弁当を貰うことだってできるだろう(どうせ僕の想像力が乏しいだけで、もっとひどいことが出来るに違いない)。
迷わず菓子コーナーに突入した胡桃沢は、陳列棚から手当たり次第に菓子類をカゴに入れていく。
お菓子がたくさん入ったカゴを店員の前に置くと、彼女は財布から黒色のカードを取り出した。彼女の支払いは決まって限度額のないクレジットカード。
彼女はいわゆる社長令嬢と言う奴だった。
自転車のカゴに菓子でパンパンに膨らんだ袋を入れる。
「これ、一人で食うんだよな?」
「うん。太らないからね、私。好きなものを好きなだけ食べるのが私の流儀なの」
「つくづくとんでもねぇな」
呆れながら、サドルに跨り出発する。
すれ違う小学生の大きな挨拶に会釈だけ返したり、犬を同時に五匹も散歩させているご老人の手腕に驚いたりしながら、ぐんぐんと速度を上げていく。
風の中を突き抜けていく。
漕ぐ、
漕ぐ、
漕ぐ。
風が僕たちの身体を撫でる。
それが心地いい。
空はすっかりと、キャンプファイヤーのように燃え盛っている。
夕方だ。なのに、辺りには人がいない。
人が行き交う都心部を抜け、今は川沿いに延びる土手の道だからだ。
胡桃沢の家に向かう道中は、割と田舎じみている。都会の喧騒と程遠いのは良いが、学校からの距離が遠いのが難点だ。胡桃沢は朝はバスで学校にやってきて、帰りは僕の自転車に相乗りして帰る。僕がいない時はバスで帰るらしいので、それならわざわざ僕に手間をかけさせるなよと言いたいのだが――
「アサギと一緒に帰りたいの。ねぇ、わたし、ちゃんとお礼もするから。ワガママ、聞いてくれない? ……ダメかな?」
そう上目遣いで頼まれて四の五の言う男など存在しない。
そもそも僕だって、お前と一緒に帰りたい。
確かに僕はお前を殺したくないし、この愛は絶対にバレてはいけないと思うけれど。
一緒に帰る、この贅沢くらいは許してほしい。
毎日辛くてたまらないけれど、この時間くらいは、安らかに――
――ミシッ、ミシッ。
安らかな時間な割には、タイヤが軋む音がうるさかった。
「なぁ、僕の自転車くんが悲鳴を上げてるんだが」
「大変だね。……寿命?」
「重量超過だ。お前が重いんだよ」
「尻軽じゃなくて良かったじゃん。浮気しないってことだよ、私」
胡桃沢は笑って、抱き着く力を強くする。
看過できないくらいに柔らかい胸の感触がする。
「おまっ、……胸っ…………」
「当ててるんだよ? ふふっ、前向いて運転してください。事故っちゃうかもでしょ?」
「ぐぅっ……!」
実際事故ったら目も当てられない。僕は胡桃沢を睨むのをやめて、大人しく運転に集中する。僕の肩から顔を出す彼女は、可愛らしく囁く。
「Fカップの感触はどう?」
「……」
どう答えても変態になる。僕は黙秘権を行使した。
「……ねぇ、これが送ってくれるお礼のつもりなんだけど。どう?」
「どうって?」
「ちゃんとアサギの働きに見合ってるかなって。もしかして足りない? ……私のパンツとか、渡した方がいい?」
「なんかズレてんなお前はッ!」
それはとんでもないご褒美に違いはないけど。
好きな子のパンツなんて、全男子が求めてやまないものではあるのだろうけど。
「僕は、そんな下品な欲望で、お前に付き合ってるわけじゃないよ」
「ブラジャーの方がよかった?」
「そういう問題じゃないッ! ……そもそも、僕とお前は、友達だから」
そう関係を定義する。定義し続けて、固定する。僕たちは友達である。死がふたりを分かつまで一緒に入れるのだから、愛など遠ざけて、否定してしまった方がいい。
「パンツもブラジャーもいらない。僕はさ、お前を大切にしたいんだよ」
言っていて思ったが、なんだか変態みたいだ。
パンツとブラジャーが出てくる決意の言葉なんてあってたまるか。
そう思ったけれど。
だけど、真実だった。
彼女を大切にしたい気持ちに、嘘偽りはなかった。
「大切にしたいなら付き合ってよ」
「だから……、僕とお前は友達だって言ってるだろ」
「ふーん。まぁいいや。今は、ね」
彼女は、僕の頬を人差し指で突いて、笑って見せた。
「それで、日曜日のデートの件だけど――」
こんな曖昧な関係の僕たちだけど、一つの決まりがある。
それは、毎週日曜日に『デート』を行うということだった。
■2
映画館のスクリーンでは、主人公とヒロインが運命の出会いを果たしていた。
映画館のカップルシートである。胡桃沢は僕に身体を密着させながら、恋愛ドラマに観入っていた。大人気ヒット中のドラマ。今は序章で、二人の出会いが描かれている。
このシアターには、異常な点があった。
僕たち以外に人がいないのだ。時間にも内容にも問題はない。
今は午前十時で演目は大人気ドラマだ。じゃあ二人きりの原因は何かと言うと、胡桃沢の持つ『催眠』パワーであった。彼女が持つ力は大概チートで万能だ。
今日のこの回だけは二人きりになれるように催眠でアレコレやったらしい。
そこまでするならタダで入場してしまえばいいものの――律儀にチケットを買う姿は、まるでデートに沸き立つ普通の女の子みたいだった。
これが、日曜日恒例の『デート』だった。
『催眠』を用いて、普通ではできない特別な経験をする――それが、胡桃沢が僕をオトすために実行している策略であった。
デートは、卒業旅行から電車で帰る最中のお願いだった。
「毎週日曜日に、私が決めたデートに付き合ってほしいの。そこで、私を好きにさせて見せるから」
「僕が付き合うメリットは?」
「期限を決める」
彼女は人差し指を立てて言った。
「一年。一年間、あなたが私のことを好きにならなかったら。その時は、潔く死ぬのを諦めるよ」
そうして、不利でたまらない僕の唯一の勝利条件が制定されたのだった。
胡桃沢の家、商店街、映画館と来て――これが都合三回目のデートである。
胡桃沢はデートの度に、煽情的な服装で僕を誘惑してくる。
今日の服装は、どこぞの令嬢が着ていそうな、白のレースのあしらわれた、明らかに高級感漂う純白のワンピース。その服装は、変に胸元が開いていて、僕としては目のやり場に困る。
彼女の胸元には自称Fカップの大きな谷間があるのだ。そこに目をやれば――
『揉みたいの? ほら、揉ませてあげようか? アサギの大好きなおっぱい』
と、からかわれるのは一回目のデートにて学習済み(結局揉んでいない)なので、今日は頑張って見ないフリをしていのが。
「また見てるね、おっぱい」
努力は功を奏さなかった。きっと、男は女の胸に視線が吸い付くようにできている生き物なのだ。好きな女の子がこんな格好をしていれば、尚更だろう。
これはもう、重力だとか、そんな自然現象に等しい。
性欲には抗いがたい。
少なくとも僕には無理だった。僕は純情な童貞そのものだった。
胡桃沢は、僕の視線にくすりと笑って、
「もっと見せてあげる」
僕にだけ見えるように手で胸元を更に開いた。
純白の印象とは相反する、黒い下着が目に入った。
「まじまじと見てるね。もしかして私のこと好き?」
「ぐっ、……性欲と恋愛は別だろ」
こればかりは男としてどうしようもなかった。
「ふーん……」
彼女はどこか納得したようにつぶやいて、スクリーンの様子をちらと見た。
僕もスクリーンを窺うと、何やら、ベッドシーンが始まるらしい。ヒロインがベッドに押し倒されていた。
「ふふっ。私たちもおっぱじめちゃう?」
「……何をだよ?」
「もちろんセックスだよ。あ、今日はしっかり勝負下着だよ? ちゃんと準備はできてるし、初体験には悪くないと思うけど」
彼女は、傍らに置いてあった可愛らしいポーチから、金色の蝶があしらわれた桃色の箱を取り出した。
「……なんだそれは」
尋ねると、にやりと笑った。
「コンドーム」
誘惑するような顔で、僕のことを見ていた。
「……待て。ここは映画館だ」
「じゃあラブホテルならいいの? また私の力で貸し切ろうか?」
「そういう問題じゃねぇ……!」
「じゃあどういう問題なの」
彼女はあからさまに頬を膨らませた。彼女はこちらに上体を倒して、挑発的な谷間を見せつけてから言う。
それは、重力に従って地面へと垂れる立派な乳だった。
「また見てるでしょ」
「男は……そういう生き物なんだよ」
「ふぅん。私のおっぱいは好きなくせに、私のことは好きじゃないんだ?」
彼女は、笑みを深くして言った。
「ねぇ、試しにセックスしてみようよ」
「どういう思考の飛躍だ?」
「アサギは私のこと、友達だと思ってるんだよね」
頷く。
「私は考えたの。アサギは恋人になるのが嫌なんでしょ? でも私は友達以上の関係になりたい。その為には、まず、身体の繋がりかなって。世の中には、セックスする友達もいるよね? 私ね、アサギのセフレになりたい。友達だけど、友達より進んだ関係でしょ、これって。……ねぇ、ダメかな? セックスしようよ。きっと、気持ちいいよ?」
自分の中のオスとしての欲望が首をもたげるのが分かる。
隣には、魔性の笑みを浮かべる胡桃沢がいる。
彼女の吐息が耳にかかる。
「ねぇ、どうするの……?」
僕は思考を落ち着けるために、深く息を吐き出してから額に手を当てる。
「……僕が恋人になるのが嫌なんて言ったか」
「えっ……」
彼女は記憶を手繰るように沈黙して、それから恨めしそうに呟いた。
「言ったじゃん……」
「それはお前が死ぬっていうからだろ」
「!」
彼女は何かに気づいたかのように、表情を真剣なものにした。
「じゃあ、もし、仮に――私が死なないって言ったら。こっ、恋人にしてくれる? お嫁さんにしてくれるの?」
「それだけで『じゃあ、死ぬのやめる』ってなるならな」
彼女は、何かを思案するように目を伏せた。
「…………わたしのこと、好きってわけじゃ、ないんだよね?」
その確認に、頷く。
「友達として、好きなんだよ、胡桃沢。だから、お前が死ぬのを止めたいんだ」
あくまで彼女がしているのは仮の話。
ここで僕が安易に愛を告げれば、全てがおじゃんだ。これは、彼女の狡猾な罠。
「……お前は、死にたいんだろ?」
彼女は、逡巡の後に、やはりと言うべきか、頷いた。
「どっちにせよ、僕の気持ちを考えてみろよ。初めて付き合ったり、セックスをした女の子が、そのうち死ぬんだぜ。他でもない――僕の手で」
手段の話は、初めに伝えられていた。胡桃沢は、僕が『真実の愛』を抱いたと判断したタイミングで――僕の意思とは関係なく『催眠』で僕の身体を操り――自殺を試みる。
死んだら、私は灰になるから安心して。
なんて、馬鹿げてるだろう。
殺人の証拠が残らないからなんだ。
僕が犯罪者にならないから、何だというんだ。
「お前を殺した記憶は、絶対に、僕の中に残るんだよ。セックスしたら情が移るってのはきっと与太話じゃない。お前が本当に死にたいのなら、僕の傷が深まるようなことを、しないでくれよ。お前が死にたいって言う限り、僕の気持ちは変わらない」
「ふーん……」
彼女は、じっと僕の瞳を見つめて、
「難しいな」と、呟いた。
■3
あまりにも胡桃沢が可愛すぎる。並大抵の男なら手を出してもおかしくない。
純白のワンピースを着た彼女は、デート全編通して小悪魔だった。映画館以降――昼食に立ち寄った中華料理店や、カップル割を使った喫茶店、休憩がてら立ち寄った自然公園でも彼女の誘惑は続いた。
別れ際にも、
「本当に私の家までついてこなくて、いいの?」
なんて尋ねてくる始末だ。
僕はとにかく理性を総動員してあらゆる誘惑をはねのけた。
断った僕はよくやった。とにかくよくやった。
本当に可愛すぎて頭がどうにかなるところだった。
好きな子とデートをして、嬉しくない男なんてどこにもいない。
それなのに……恋心を隠すことを強いられる現状は何なのか。
罰ゲーム以外の何者でもない。
僕だって胡桃沢と……。
彼女に見せられたコンドームの箱が、やけに脳裏にちらついた。
「はぁ」
と、ため息を吐く。最近はため息の数が増えた。それもそのはずで、僕はありとあらゆる我慢を強いられているのだ。胡桃沢と恋人になってはいけないし、性的に見ることも出来る限り避けたい。誉め言葉さえも口に出すことが憚れる。言いたいこと、やりたいこと、何一つできない、この現状。
「……うんざりだ」
なんて、呟いてみても、誰も相槌なんて打ってくれない。
閉塞感のある現実に嫌気が差す。彼女を死なせたくないのに――誘惑に負けてしまいそうな自分の心にも、心底、嫌気が差す。
鋼の心が欲しい。
悩むのも迷うのも悔やむのも、全て心が弱いせいだから。
強靭な意思を持って、何かをやり遂げる力が欲しい。
……欲しい欲しいとないものねだり。心中の発言は何だ? まさか神にでも祈っているつもりなのか?
神様なんていない。人間が作り出した、都合のいい偶像に過ぎない。
ああ、でも、やっぱり辛いな。
神様が存在する理由も、分からないとは言わないよ。
何か縋りつくものがないと、やってられないんだよな。
空を照り付ける夕日は、ただひたすらに綺麗で。
この世に信仰が存在する理由が、少し分かった気がした。
胡桃沢の家は、僕の家とは真逆の方向。だから別々に帰る。
胡桃沢がいないと、僕は本当に一人だ。
こういう時に決まって考えるのは、なんで彼女は死にたがっているのか。
そのことについて。一年間のデートを乗り越えたら彼女は死ぬのを諦めるなんて言うけど、僕は身が持ちそうにない。だから、考えるのだ。
どうすれば僕は、彼女を救える?
決まってまともな案は出ない。そんなことよりも、死にたい理由も打ち明けてくれないような、自分の頼りなさを直視することに思考を奪われて、吐き気がする。
僕はそんなに、頼りないかな。
お前と一緒に悩みたいし、立ち向かいたいんだ。
僕じゃダメなのか?
それは何故だ?
僕が弱いからだ。
肉体的にも精神的にも経済的にも社会的にも優れた何かが僕にはないからか?
改善する努力はしてる。
でも、彼女が求めるような水準には、きっと行きつかないんだろう。
強くなりたい。
演じるんじゃなく、誤魔化すんじゃなく、
本当に、強く、なりたい。
ずっと強く大きくなれたら、君が生きる理由になれる、そんな気がするから――。
「にゃあ」
猫が鳴いた。
僕の家の玄関に、一匹の黒猫が佇んでいた。特徴的な紅玉色の瞳。一目で僕は、その猫の名前が分かった。
「……リン?」
胡桃沢の父親の友人に引き取られた、件の元野良猫。
「にゃあ」
再び鳴くと、僕の脇を通り抜けていった。思わず目で追う。尻尾が、誘うように揺れていた。にゃあ、と三度目。猫がこちらを見ている。
『ついてこい』と言われているように感じた。
幻聴だ。分かっている。この猫についていった先で、きっと何もないことも。
だが、このまま家に帰れば、どうせ何も変わらない日々が待っている。
自分の惨めさに打ちひしがれるだけの、情けない日々が。
そして時々、あの猫についていけばどうなったのか、なんてありもしないIFを想像する。
『このままでいいの?』
誘われた気がした。
僕はぎゅっと拳を握り締めて、猫の揺れる尻尾を見つめた。
「……わかったよ」
なんて、猫が人語を解する訳もないのに告げて。
僕はそいつについていくことに決めた。
それから十分は歩いたと思う。
草木がざわめき、虫の声が小さく聞こえる細道を抜けると、やがて古びた石造りの建物が姿を現した。それは、ひっそりと佇む寂れた教会だった。蔦が絡まり、所々崩れかけた壁が、長い年月を感じさせる。
悠然と前を歩いていた猫は、案内は終えたと言わんばかりに入り口の脇に座った。
正面、重い木製の扉は閉じられていた。
開けろってことなのか。
ほとんど何も考えずに、僕は教会の扉を開けた。
ギギギ……と、扉が軋む音がして、ゆっくりと開け放たれていく。
虹色のステンドグラスに夕日が差し込んで、室内は夕焼け色に染まっている。
真正面。祭壇には、信仰を踏みつけにするかのように、一人の少女が腰かけていた。
「やぁ」
彼岸花のように紅い瞳をした少女だった。
髪型はハーフツインテール。
基本は黒髪だが、毛先に行くにつれて赤色になる、都会染みた髪色。
黒いセーラー服を身にまとっている。
その他にも、黒いニーソックスに、黒いローファーに、黒いチョーカー。
瞳と髪を結ぶ赤いリボン以外の全ては、黒黒黒。黒い少女。
問題は雰囲気と顔立ちにあった。
雰囲気は――。例えるなら、常人とは違う視点で世界を捉えている芸術家のようであり、しかし万人の胸を焦がすアイドルのようであり、おまけに、人をごまんと殺していそうな殺人鬼のようでもあった。胡桃沢と同じだった。胡桃沢から感じる全ての気配をそいつに感じた。顔立ちも同様。そっくりさんでは済まされない。同じ、だった。
色と髪型が違うだけで。それは、胡桃沢加恋そのものだった。
「ここまでよくついてきたね」
そいつは、胡桃沢が絶対にしないであろう、凶悪な笑みを浮かべた。
「私の名前は、胡桃沢花梨。君のように欲深い人間を『魔女』に変えてしまう、悪魔だよ」
「悪魔……」
「おや、聞いたことある口ぶりだね。大抵の人間は一言じゃ信じてくれないから『証拠』を見せる必要があるんだけど……君には必要ないかな?」
彼女は首を傾げた後で、「でも一応」と笑った。
祭壇から飛び降りた。僕に向かって歩き出した。
「ちょっと私の身体を受け止めてくれる?」
そして、彼女は僕に向かって倒れた。
とっさに受け止める。
「おい……?」
受け止めた身体。どういう意図が尋ねる。返答はない。僕はどうすればいいか分からず当惑する。一秒、二秒、三秒が経った。そこでようやく、少女の身体が、氷のように冷え切っていることに気づいた。寒気がして、とっさに少女の首を触った。脈くらいなら僕にも測れる。……ない。脈がない。首元から伝わる温度は冷え切っている。僕はそして、それが死体が持つ独特の冷たさであることに気が付いた。
「――ッ!?」
とっさに、突き飛ばした。
死体はそのまま地面に倒れる。
どさり、と倒れ伏したのに。
「おいおい、冷たいじゃないか」
死体の閉じられていた目が、開く。紅玉色の瞳には、こちらの反応を愉しむような、嗜虐的な光が宿っていた。彼女は、平然とした表情で立ち上がる。
「ちょっと幽体離脱してただけだよ? 魂だけの状態で君の傍にいたのにさ、気づいてくれないなんてひどいよね。ああ、君は死冷って知ってる? 普通、人が死んだら体温はゆっくり時間をかけて下がるんだけどさ、今みたいに、『魂を引っこ抜いて死ぬと、熱が魂の方に持ってかれて肉体は冷える』んだ。だから――本物の死体の温度がしたでしょ?」
「でも、蘇った……」
「そりゃ、魂が再び宿ったからね。知ってるかな。生物の根源的な生命力は、魂に宿ってるんだ。それが無くなったら死ぬし、戻ってきたら蘇る。それだけのことだよ」
彼女は、再び祭壇に腰かけて、僕を値踏みするように見た。
「さて。悪魔の証明はできた所で……アサギくん。浅葱虎徹くん。君は、『魔女の力』に興味はあるかな?」
悪魔の姓は胡桃沢。
僕は知っていた。
胡桃沢に、双子の姉がいることを。
そして、そいつこそが、胡桃沢に『呪い』をもたらし、催眠と言う魔術を与えた悪魔であることも。説明されるまでもなく、知っていた。
『私は、お姉ちゃんの力で魔女になったの』
あの卒業旅行の帰り道。胡桃沢は、特に隠さなかったから。
魔女になるために、力を貰った存在について。
悪魔に『呪い』をかけられることによって、人は魔女になる。
彼女を呪った悪魔は、実の双子の姉。
起源は不明。実態は未詳。
ただ、人を呪う理由だけは明確。
彼らは、『神の呪い』から逃れるために、人に呪いを分け与える。
彼女は笑っていて、僕は思わず拳を握り締める。
「お前が……胡桃沢を呪ったんだな」
「確かに呪ったよ? でも待って。何か誤解されてる気がするな。しっかり対価は渡したし、……そもそも、妹に対する情がないって訳でもないんだよ?」
得意げに微笑む悪魔。限界まできつく拳を握っても、頭の熱は冷めない。
ある意味でこいつは、全ての元凶だ。
「むかつくな。お前、今、自分の妹がどうなってると――」
「どうなってるの?」
平然とした顔で、尋ねてきた。
「……死にたがってる」
絞り出すようにそう言うと、悪魔は「ふふっ」と、優雅に笑った。
「あら、それはかわいそうじゃないか」
「どの口が言うんだよ」
「怒りで現状が進展するのかい? 合理的に行こうよ。君は死にたがってる妹ちゃんを救いたいんだろう? だったら私との邂逅は千載一遇の大チャンスだよ。妹に『催眠』の魔術を授けたように、君にも魔術を贈呈してあげるよ」
真意を読み取れない笑顔で、悪魔は告げる。
「力が欲しくないの? 妹ちゃんを救うための力が」
欲しいに決まってる。その力を授けるのが、胡桃沢の現状の元凶でさえなければ、僕は即座に首を振っただろうに。ただ、癪に障る。こんなのは感情論だ……そんなことも分かっていた。
「お前は僕に魔術をくれるってのか? ……呪いと引き換えに」
「うん、そうだよ。ま、どんな力が目覚めるかは私にもわからないんだけどさ。『呪い』を引き受けたごほうびに、天から授けてもらうものだから」
「……呪われておいて、運任せってことかよ」
「んー。君には見込みがあると思うんだけどな。欲の深さは大事だよ。ここに来たのを偶然だと思ってる?」
悪魔に聞かれて、改めて考えてみる。
僕の家で律儀に待っていた黒猫。ついていった先にいたのは悪魔。まるで、僕を待っていたかのように、祭壇の上に座っていた。しかも、胡桃沢の双子の姉と来た。
「いいや」と僕は首を横に振る。
「うん。察しがいいね。私の瞳は特別製でね。『魔法』がかかってるのさ。『審美眼』って言うんだけど。この両目はね、自分が見たいと思う過去や未来の映像を見ることが出来るのさ。過去に関してはあますことなく、未来に関しては実現可能な範囲まで見える。そしてこれは副次的効果なんだけど――自分にとって価値があるものが、『目に留まる』ようになってるんだ。私の目に留まった君が、ずいぶんと呪われるのに向いているようだったから。君と会うこの運命を手繰り寄せたのさ」
悪魔は目の下に指をあてて笑った。
「……呪われるのに向いてるって?」
「人によって呪いを受け入れられる『許容量』が違うんだよ。君レベルはあまり類を見ない。誇っていいよ」
僕はかぶりを振る。
「誇れることじゃないだろ。……ところで、その瞳は、『魔術』と何か違うのか?」
「似て非なるもの、かな。単に、『魔術の上位概念』と考えてもらえればいいよ。今はね」
「あの猫はなんだ?」
「あれは私の『使い魔』。悪魔は自分より『下位の悪魔』を使役することが出来るの。私を大悪魔とするなら、あの子は小悪魔。君たちでいう犬猫とそう変わりはないけれど、私の言うことは聞くんだ」
悪魔が手を叩くと、それに呼応するように「にゃー」と外から鳴き声が聞こえた。
「視界を共有したり、命令を直接頭に飛ばしたりできるんだ、便利でしょ? あの子を経由して君を見つけて……機が熟したから連れてきてもらった。これで、事情に関しては飲み込んでもらえたかな?」
「……とりあえず、お前は僕を呪いたいんだよな?」
「うん。私も寿命は長い方がいいから。対価のおまじないも、悪い話じゃないでしょ? 君はもしかしたら、妹ちゃんに対抗できる力を手に入れるかもしれないんだから。契約したときに与えられる呪いが強ければ強いほど、発現する『魔術』も強くなるんだからさぁ、呪いのキャパが大きい君にぴったりの話だと思わない?」
「お前には、全部お見通しだったってことか? ここまで全部、お前の予定調和か?」
悪魔は、意外にも首を横に振る。
「いいや? ゲームをしているときに、攻略サイトを見ながらプレイすると思う? 私がこの瞳で『攻略』を見るのは、行き詰った時だけ。ここに居るのは、正真正銘初見の花梨さんだよ。ほら、ゲームってさぁ、初見の時が一番面白いじゃない?」
「全面的に同意だが、僕は運ゲーが嫌いなんだよ」
「ソシャゲでガチャとかしないの?」
「課金沼にはまったら地獄だぞ」
「経験者の言葉だ」
悪魔は面白そうに笑った。
「……で、運ゲーが嫌ならどうするの?」
「人生ってクソゲーの攻略本が欲しい」
僕は、悪魔を。正確には、過去と未来を見通すとかいうその眼を指差した。
「どうしようもない現実に、僕は息が詰まりそうなんだ」
「行き詰ってるんだ。ふうん、それで?」
「なんだか得体のしれない『おまじない』はいい。僕の目的ってのは、お前を『使い魔』にすれば解決するようなものなんだよ。お前、過去と未来を見通せるんだって?」
悪魔は、意表を突かれたように口をぽかんと開けた。
不意を突けたみたいで、少し気味が良かった。
「……私を使い魔にしたいの?」
「僕は胡桃沢を助けたい。その為に、確実な手段を選びたいんだよ」
悪魔は開いた口を塞ぐように手を当てた。それから、顎に手を当てて、数秒。
沈黙と思案の時間が流れる。
「そう」
初め、悪魔はただ頷くだけだった。
ただ、そこから――。
「ぷっ、あははははははははは――!」
異様に。
けたたましいくらいに。
目を細めて、笑った。
大爆笑。目尻の涙を拭いながら、彼女は続けた。
「……ああ、なるほど、そうくるのか。やっぱり、視なくて正解だった。興覚めだもんね、知ってたら。この瞳はフラグを立てるくらいの使い方でちょうどいい」
再び、悪魔は祭壇の上から降りた。
「知らなかったから嬉しいよ」
そして、僕の元に近づいてくる。
「面白い人間だね、君は。決めた。私が持てる全身全霊を以て、君を呪う」
気味の悪い笑みを携えたまま、
コツ、
コツ、
コツ。
足音を立てて僕に近づいてくる。
そして止まる。
僕の前に立った。
「一応の最終確認。本当にいいんだね?」
彼女の左手は、怪しげな紫色の瘴気を纏い始めた。
直感。おそらく、頷いたら、僕はきっと元の日常には戻れない。
元の日常。
胡桃沢を満足に救えない現状が、本当に大切か?
否。
「呪えよ、悪魔」
悪魔はにいっと、三日月のような笑みを見せた。
「もちろん呪うよ、我が主。君に最大の敬意と忠誠を」
仰々しく一礼をした後、
彼女の掌が視界に迫る。
頭蓋を掴まれ、
「×××」
何か、人間のものではない囁きが聞こえたような
■4
パッ!
目覚めたら知らない天井だった、とかいうベタな展開もなく、見知った自分の部屋の天井が視界に写った。カーテンから差し込む陽光が眩しかったから、朝なんだろう。
「あ、起きた。ふふっ、お姫様抱っこでここまで運んであげたよ。感謝してほしいな」
すぐ傍には、見知ったようで見知らぬ顔の悪魔がいる。
「その悪魔って呼ぶのやめようか。可愛くないよね、響きが。あまりときめかないからさ、花梨って呼んでみて?」
……。
声に出してないと思うんだが。
僕は寝かされていたベッドから飛び降りて、悪魔――「な・ま・え」
……花梨のことを見た。
「そろそろ心が読めるからくりについて説明をしてくれ」
「『説明をしろ』でいいんだよ、ご主人様? 自分の立場は分かってる?」
「僕が上で……お前が下?」
「ハイ正解。と言う訳で私はご主人様に逆らえないのでーす。SMプレイみたいで面白いよねー、あは」
花梨は愉し気に笑う。
「さて、ご主人様? 使い魔に初めての命令をしてみようか?」
たぶん、やらないと話が進まないんだろうな。
「……説明しろ」
「はいっ、ご主人様っ♡」
なんなんだこいつは……。
花梨は人差し指を立てて、流暢に説明を始める。
「ほら、私とご主人様は『主従契約』をしたでしょ? まぁ『仮契約』なんだけど、それは置いておいて。契約している者同士はね、お互いの頭の中が読めるの」
「お互いの頭って言うと……。どの範囲まで?」
「過去の記憶とかー、心で思っていることが分かる感じだよ。私には、契約者のパーソナリティを把握する趣味があってさぁ、君の人生もあらかた覗かせてもらったよ。君が寝ている間の良い退屈しのぎになったから、お礼を言っておくね」
「閲覧料を払え」
「それはこれから払うんだろ」
花梨は髪をかき上げて、優雅に笑った。
「さぁ、ご主人様。朝の身支度をさっさと済ませてさぁ、大冒険に出かけようよ。不死の魔女を救済せんと戦う王子様の物語。私は胸が躍ってたまらないな!」
役者染みた振る舞いと声の迫力に、僕は少し気圧される。
「朝から元気だな」
「そりゃあ、ねぇ。大商談が成立した直後なんだ。気分が高揚しない訳がないじゃない?」
「大商談……?」
花梨を使い魔にするための条件。
それは、彼女に見合った『呪い』をかけられること。
「まぁ、そのあたりも今から話すよ。身支度しながら聞いてね」
〇curse.1【不遇】の呪い
・効果Ⅰ:周囲から正当な【評価】を受けにくくなる。
・効果Ⅱ:時折、人々から【存在】を忘れられることがある。
・効果Ⅲ:あらゆる場面で【悪役】として扱われやすくなる。
今更ながら、顔を洗いながら聞く話ではなかった。
顔を上げれば、鏡越しの自分と目が合って、『マジかよ』と少し落ち込んでいた。
まだ半信半疑だから、少し、で済んでいるのかもしれない。
『あなたは呪われました! 呪いの内容はこうです!』なんて説明されても、そりゃあ、現実味がない。
「手っ取り早く呪われたことを理解する方法があるけど、試す?」
「どうやるんだ?」
「血を見るんだよ」
呪われたことを確認したいなら、皮膚を浅く切ること。
僕は嫌々ながら(それでも確認しなければいけないので)、カッターナイフで手首を切った。キッチンのシンクに、鮮血が滴り落ちていく。だがそれは見慣れた赤ではない。
青い。海辺で見た胡桃沢と同じものだと直感する。
「悪魔に呪われた人間は、血が青く変色するんだよ。人体と呪いの化学反応でね」
自分に流れる血は、既に青い。
「ちなみに悪魔に呪われた女のことを『魔女』、男のことを『魔人』って言うんだ。一般的には呪いが、魔女と魔人を象徴する名称になる」
だから、君は、
不遇の魔人だね。
――と言う訳で、僕は『不遇』に呪われた。
今後の人生のことを思えば、かなり嫌な部類の呪いだろう。
だからこそ、僕はその対価に得た『使い魔』を、有効に活用しなければいけない。でなければ、呪われ損と言うやつだ。
「そういや、さっきは『仮契約』がどうこう言ってたな」
鞄の中に入っているものを確認しながら、優雅にソファーに座っている花梨に尋ねる。
「うん。正確には、主従契約。一般的に悪魔が扱う契約とは完全に別物だね。この主従契約は二段階のフェーズに分けられるんだ。まずは試用期間の『仮契約』、本番の『本契約』――って具合に」
仮契約の期間は六十六日。
その期間は双方の任意のタイミングで契約の破棄が可能で、『本契約』は、お互いの合意が取れた場合のみ成立するらしい。
「『本契約』はね、生涯で一度しかできないんだ。別に、私は主従契約が初めてって訳じゃない。『仮契約』を何度も何度も繰り返して――最高に面白いご主人様を探してる最中なの。人間側から提案されたのは……ふふ、これが初めてだけどさ」
彼女は愉し気な笑みを浮かべて僕を見つめる。
「……何のために主人を探してるんだ?」
「そりゃ、面白いものを見るためさ。悪魔は享楽至上主義! 最高に楽しいエンタメを追い求めて生きているのさ。私たちはね、魂が燃え盛るような感動を全身で浴びるために存在しているんだよ。『本契約』は、唯一の主人のために最後まで取っておくものなの。だから、変に期待はしないでね。……六十六日。これが、タイムリミットだと思って。妹ちゃんを助けたいんだよね。じゃあ、私の『瞳』を上手に使わないと」
彼女は、自身の紅玉色の瞳を指差してほくそ笑んだ。
「その瞳は、過去と未来が見えるんだったよな……?」
「うん。まぁ、最長で一か月ってところだけど」
「十分だ」
そんなやり取りをしているうちに、朝の支度はほとんど済んでしまった。
とっとと学校に行かなければいけないのだが、花梨と今後の話をしたくもある。
「それなら、学校に行きながら私と喋ればいいじゃない」
そして、彼女が目を閉じると同時、ソファーに力なく倒れた。
おそらくは、教会での幽体離脱と同じ要領なのだろう。
ただ違うのは、僕は花梨の本体を目撃できたってことだ。
花梨の身体から這い出たのは、紫色のもやだった。
霧状の、明確に人間ではない何か。
それはたちまち姿を変え、僕が知る胡桃沢花梨、そのものになった。
装いは少し今までと違う。僕たちが着る茶色の制服を着用していた。
「その恰好、少し羨ましくなってさ。あ、ご主人様的にはメイド服の方が良かった? どうせご主人様以外には見えないし、そうしてあげようか?」
そう言いながら、ふよふよと空中に浮遊して、僕の背中を追ってくる花梨。
こいつは本当に人間じゃなくて、その姿が見える僕自身もただの人間じゃない。
その事実に、何故か高揚してしまう僕がいた。
玄関で靴を履き替える途中で、気づく。
「あ、というか、あの身体って今は死体そのものなんだよな?」
「うん。幽体離脱しちゃったからね。今はあのまま寝かせておいてくれる? 置き場所もあまり思いつかないし、……どうせこの家には君一人だもんね?」
「……人生を覗いたって言ってたな」
「うん。天涯孤独の身の上なんだ。私一人が増えてちょうどいいくらいでしょ?」
やっぱり悪趣味だ。そう思ったけれど、同時に必要な事か、と冷静に割り切っている自分もいた。胡桃沢を助ける。
そのために、こいつの力は間違いなく有用で。
だから、心に土足で入り込まれてもかまわない。
その代わりに、力を使わせてくれるなら。
扉を開き、陽光を浴びる。
今日はいい天気だ。何かを始めるには、うってつけの日に違いない。
「……分かってるよ、ご主人様。もちろん私だって仕事をするさ」
花梨は微笑んだ。
「さて、どんなことを知りたいのかな?」
玄関先に立った彼女は、命令を待つように僕のことを見つめていた。
■5
僕が花梨に求めたのは、胡桃沢が生を望むようになった世界の話だ。
花梨に伝えられたのは、一か月後の最良の結末。
胡桃沢が幸せそうに笑っている未来について。
花梨曰く、胡桃沢が笑っている世界には、僕以外にも一人の少女がいるらしい。
その少女の名前は孤紺糖財。
彼女が胡桃沢の友人になる世界線が、僕の求めるべき未来だそうだ。
そのために受けた「不遇の呪い」だが──僕は少し、この呪いを舐めていたらしい。
チャイムが鳴り、授業の終わりを告げる。
その瞬間、張り詰めていた教室の空気は一斉に弛緩した。椅子を引く音、教科書を乱暴に閉じる音、そして堰を切ったような生徒たちの話し声が教室を満たしていく。
僕は喧騒の真っただ中にいた。
目の前を、クラスメイトたちが通り過ぎていく。彼らは、次の授業の準備をしたり、友達と週末の予定を語り合っていたりしていた。僕の机のすぐ隣では、昨日貸した漫画の感想を熱っぽく語り合う声がする。僕の机に、誰かの身体がドンとぶつかる。しかし、そいつは少し怪訝な顔をするだけで、ごめんの一言もなく、すぐに友達との会話に戻っていった。
誰も、僕を見ない。
それは、意図的な無視とは少し違う。
そこにいるのに、誰にも気づかれない。
目には見えない空気のような扱いだった。
誰も僕を認識できないのだ。――『不遇』の呪いによって。
声を出しても意味はない。
何を話しかけても、無視された。
肩を触ったら、強く跳ねのけられた。
授業をさぼっても、誰にも何も言われなかった。
胡桃沢にすら、認識してもらえなかった。
今は喉が鉛のように重い。
もし、この声が、一生、本当に誰にも届かなかったら?
その事実が、泣き出してしまいそうなくらいに、怖かった。
「後悔してきた?」
誰の目にも見えない花梨が、教室の窓辺に腰かけて笑う。
僕は黙ってピースをした。反骨精神だ。
「逆にやってやるぜって感じだよ。それにあれだろ。ひどいのは最初だけって話だろ」
「うん。呪いが君に定着するまでは、ちょっと強く影響が出ちゃうんだよね」
「じゃあ大丈夫だよ。うん……大丈夫」
別に自分に言い聞かせてる訳じゃない。
これからやるべきことが明確になったんだ、安いものさ。
「……」
陽光が窓から差し込み、空気中の埃をきらきらと照らし出す。
皮肉なことに、普段は決して目に見えないその小さな塵の方が、今の僕よりもよほど確かな存在感を持っているように思えた。
そんな孤独を体験したというのに、誰とも喋れない覚悟をしたというのに。
「それで、相談事というのは?」
彼女が僕の話に応じてくれたのは、望外の幸運だった。
旧校舎の三階、北向きの角部屋。
そこに、文芸部の部室はあった。
扉を開くと古いワックスの匂いと紙の乾いた匂いが鼻を突く。室内には、四人掛けの長机が一つと、読書用のひじ掛け椅子が二脚。ココンさんは椅子の一つに座ると、その対面に座るように促してきた。着席すると、彼女は怜悧な声色で問いかけてきた。
孤紺糖財。クラスの人気者。品行方正の清廉な雰囲気漂う美少女。
明るい口調、朗らかな笑み。しかも外国人とのハーフで趣味はピアノと読書とランニングだって? ……とことん僕とは交わりそうにない人種だな。
そんな超越的な人間である彼女に話しかけた上で無視をされたら、本当に誰も僕を見つけてくれない気がして、怖くって、わざと後回しにしていた。
しかし、彼女に話しかけた後で、僕は唖然とした。
「……どうしました? 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」
ココンさんは平然と、僕に応対してくれたのだ。
そして、長話になる予感がするからと『彼女の部室』に案内され、一通りの相談事を行、今に至る。
「……なるほど」
と、彼女は頷く。
「つまり、胡桃沢さんの将来を憂いている訳ですね?」
僕がした話はこうだ。
胡桃沢加恋の唯一の友人である僕は、あいつの将来を憂いている。性格的に孤立しがちなあいつは、中学に引き続き性懲りもなく高校でも同じことを繰り返している万年ぼっちだ。誰かがあいつに人間関係の尊さを教え込んでやって欲しい。そこで品行方正かつ人気者なココンさんに白羽の矢が立った。
(胡桃沢の生存ルートを開拓してくれという僕の薄汚い魂胆は秘密だ)
「……孤立していることを指摘しても彼女はそれを問題視していない。その現状を打破するためには、自分以外の友人関係を築くことによって、彼女の視野を広げてあげなければいけない。それで、とっとと私の力を借りて、胡桃沢さんに友達を作らせてあげようと」
実にその通りなので、頷く。
「何様だよって思うだろうが……。胡桃沢の友達になってやってほしいんだ。僕はお前なら間違いないと思う。信用できるんだよ、人として」
「信用」
彼女はやけにその四文字を強調した。
「……まぁ、そうですね。確かに相談に乗ると言ったのは私ですし。友達想いのアサギくんのために、一肌脱ぐというのもやぶさかではありませんが」
彼女は椅子から立ち上がると、部室の戸棚から二枚の紙片を取り出した。
やがて机の上に置かれたその上部には、『入部届』と記載されている。
「私が一方的に助けるのも、少しおかしな話です。ここは、ギブアンドテイクといきませんか?」
状況から察するに。
「友達になる交換条件に入部しろって? ……確か文芸部って」
「えぇ、私一人だけの部活です。ふふ、部員ゼロ人の部活を見つけた時点で、『乗っ取れそうだな』と思ったんですよね」
「……乗っ取ったところで何をするんだ」
「私がやりたいことをやりたいようにやります。一年生にして部長なのでやりたい放題です。部費なんかも、お菓子代や合宿費にあてられたら素敵ですよね」
「お前一人なのに合宿なんて考えるのか」
彼女はむっとした。
「だから、部員を集めている最中なんですよ」
「お前が適当に声をかければ人なんて集まるんじゃないのか? 何でまだ一人なんだよ」
「確かに私の人当たりの良さからすれば何人かは承諾してくれそうですね。ですが、私が求めているのは凡庸な人ではなく刺激的な人なんですよ。
退屈で平凡な人間には飽きているんです。私は愛想を振りまかずにはいられない性格なので、そういう勘違いする方たちが群がってくるんですよ。ええ、私に盲目的な方々が。
そんなの、つまらないじゃないですか。くだらないと付け足してもいい。思い通りになる存在なんて、人としての面白味がないんですよね」
クラスメイトが聞いたら、きっと度肝を抜かすに違いない。
人当たりのいい、まるで天使のような奴が、こんな腹黒いことを考えているだなんて。
「なんというか……キャラ変わったか?」
「これが素ですが」
「だとしても……、どうして僕に明かした?」
「これから一緒に部活をしようと言う相手に隠し事なんて気持ち悪いじゃないですか。上っ面の付き合いでもあるまいし」
意外と論理的だった。
「……まぁ、要するに、お前は面白い奴らと、楽しい部活動をしたいんだよな?」
「よく分かってるじゃないですか。ええ、私が求めているのは間に合わせの人間なんかじゃありません。真に友人に相応しい、刺激的な存在です」
彼女は笑みを深めて、入部届をすすすっと僕の方に差し出してきた。
「どうでしょうか、アサギくん。あと、ついでに胡桃沢さんも誘ってきてくれると嬉しいんですけど」
「胡桃沢はともかく、だ。僕は凡庸だと思うんだが」
「あの胡桃沢さんに好かれる男が凡庸なわけないでしょう。というか、あんな絶世の美少女からの好意を跳ね除けておいて、自分が凡庸だなんて言い張るつもりですか?」
「それを言われると弱いが」
そう答えると、彼女は愉し気に目を細めた。
「私は意外と、あなた個人を買っているんですよ。絶世の美少女に迫られても簡単には靡かないあなたに」
こちらに複雑な事情さえなければとっくに頷いているわけだが。
ココンさんはその事情を知らず、彼女にとって都合のいいようにとらえたらしい。
要は、簡単に美少女の誘惑に負けないおもしれー男、である。
ギャルゲーのヒロインにありがちな、「オレに惚れないなんて、ふっ、おもしれー女」の逆バージョンだろうか。現状、僕は『おもしれー男』認定をされているらしい。別に僕は全然美少女になびかないとそんなことはなくて、実にいたたまれない事情で胡桃沢からの好意(本当に好意かは謎)を断らざるをえないだけなのだが。……まぁ、好感度が高いというのならありがたい。ご厚意に甘えさせていただこう。
「と言うか、ここでは私がルールです。私がいいと言えばいいんですよ。アサギくんの入部を許可してあげましょう」
満面の笑みを浮かべるココンさん。まぁ、入部が助力を得る条件なのだ。逆らう理由がない。
僕はカバンの中からボールペンを取り出して、さっさと入部届に署名した。
「あとは、……胡桃沢か?」
「ええ。彼女と友達になるには、文芸部の活動を通して友誼を深めるのが自然でしょう?」
「おっしゃる通りで。……胡桃沢が簡単に頷くとは思えないが」
僕がいるとはいえ、自分以外に美少女がいる部活とくれば、尚更だろう。
「そこはアサギくんの腕の見せ所でしょう?」
「ああ。ちょっと頑張って勧誘してくる」
無記名の方の入部届を手にもって、僕は立ち上がった。
「じゃあ、今日中に胡桃沢さんを勧誘してきてください。私はここで待ってますので」
ひらひらと手を振るココンさんに見送られながら、やるしかないかと僕も意気込んだ。
まず、『不遇』な僕を胡桃沢が見つけてくれるかってことからだが。
花梨曰く「会える」とのことなのできっと大丈夫なのだろう。
それにしてもココンさんにはなんで僕が見えるんだろう……と歩きながら思ったが、まさか『不遇の呪い』が効いていないのか? もしかすると、『呪い』が効かない体質だったりするのかもしれない。
ココンさんに直接尋ねてもいいが――。
話の中で『呪い』とか言うワードを繰り出したらイタイ奴認定されるのでは?
別にココンさんが何の事情に精通していなかった場合……中二病認定は避けられない。
……僕の心の安全のために、後で花梨に聞いてみよう……!
あいつなら何でも知ってそうだし、瞳を使えば探れるだろうし。
それにしてもあいつ、僕よりも先に帰りやがって。
やることがあるから帰るって、何をやってるんだか。
■6
胡桃沢は、昇降口で僕のことを待っていた。てっきり自転車置き場に居るものだと思ったが、外の階段では、見慣れた茶髪が健気に僕のことを待っていたのである。
「胡桃沢」
背後から呼びかけてみる。もしかしたら返事がないかと思ったが、彼女はその言葉に人間離れした速度で振り返った。
「アサギ……?」
僕を視界にとらえるなり「アサギ……」と感極まった声で呟く。心底嬉しそう表情を浮かべ、すぐに立ち上がると、なれなれしくすり寄ってきた。
「もう、どこに行ってたの、アサギ」
当然の権利を行使するように、腕に身体を絡めてくる。
この程度のボディタッチに屈してはいけない。当たり前のように胸が当たっているが、それでも僕は落ち着かなければいけない。
「遅れてごめん。今日は、昼も会えてないよな。本当にごめん」
彼女は、思い出したかのように、むすっとした表情を作った。
「あ、そうだよね。私、ちょっと拗ねてるんだからね。アサギが来てくれなかったから」
「今日は遅れて学校に来たんだよ」
これは嘘じゃない。起きた時間が時間だったからな。(なお、学校に遅れても何も言われなかった)
「そうだったの?」
「あぁ、五時間目くらいからかな」
これは真っ赤な嘘だ。実際には三時間目くらいにはいた。
だが、この嘘は絶対に通ると知っている。
「確かに、教室にいなかったよね。私何度も何度も見に行ったのに、いないんだもん」
実際はいたわけだが。……『不遇』の呪いとは恐ろしいものだ。
ここで『腹を崩してた』とか半端な嘘を付いて後からバレるのが一番面倒くさい。胡桃沢が『嘘なんかつかないでほしかったな』と拗ねモードに入り、ボディタッチがより露骨なものへと変化する(経験済み)。僕の理性が試されるのだが、正直耐えきれる自信がないので絶対に止めてほしい。彼女に嘘を付くからには絶対にバレてはいけない。バレないからと言って嘘を付くのはどうなんだ、という話なのだが……不可抗力だろう、今回ばかりは。
「まぁ、お昼の話は分かったよ。ふふ、デートの後だもんね。疲れてた? 悶々してた? 私には言えないことをこっそりシてたから眠れなかったり? ……ふふっ、まぁ、分かったよ。分かりました。これでお昼の話はおしまいね。たまにはこういうこともあるよ」
彼女は小悪魔みたいに笑うと、
「でも、日直当番でもないのに、遅かったね?」
笑顔のまま、次の話を切り出した。
ここからだぞ。
言葉を間違えたら死ぬと思え。
「その、……ココンさんに部活に誘われてな?」
「ココン?」(あからさまに不機嫌になる)
おおっとアサギ選手、
胡桃沢が知らない女の名前をワンクッション置かずに出してしまった!
これは大きな減点ですねー、なんて言ってる場合じゃねぇ。
「ああ、あの銀髪の綺麗な子か」(無表情)
繰り返すが、無表情だ。これはやったか? 僕はなにか取り返しのつかないことをやっちまったのか? というか想像以上に胡桃沢が不機嫌になるのが早い。
いつもはもっと和やかなのに……。
まぁ、ここで喋るのをやめたらどっちにしろ負けだ。最後までやり切ってやる。
「彼女に誘われてな? 僕が文芸部に入部することになって……」
「……」
「その、まだ部員が二人ってのも寂しいし、何より、僕がお前と一緒に部活動をやりたいから、だな? ……一緒に部活やらないか、って誘いなんだが」
僕はカバンの中から、入部届を取り出した。
彼女は静かに目を細める。翡翠色の瞳が、眼光鋭く僕を見つめていた。
「一緒に部活、ってのは悪くないけど。他に女の子がいる、ってのはいただけないな」
「いや、まぁ、そう言われる気はしてた」
「……。…………。……何か言おうと思ったんだけど、何を言ってもめんどくさい女みたいになるなぁって、困ってる」
「今更遠慮することか?」
「アサギに嫌われるから言わない。ちょっと乱暴だし、軽率だった。口に出してないけど、勝手に反省してる」
「そうか」
「うん、勝手に不機嫌になったりして、ごめんね」
彼女が謝ると、僕はいつものように「気にするなよ」と言った。
「ありがと」
彼女は、天使のように微笑む。それから、彼女に手を引かれるがままに、昇降口の階段に、二人で並んで腰かける。
「別に、部活をするのが、嫌って訳じゃないんだよ。でもね、やっぱり、不安だな。アサギが、まだ私のことを好きじゃないのは知ってる。でも、いつか好きになる人は、やっぱり、私であってほしいの。他の女の子は目に入れてほしくないなんて。……わがままだよね?」
「いや」
と、僕はほとんど反射的に首を横に振ってしまった。
そうするべきではなかったかもしれないけど。変に気に病ませたくなかったから。
「わがままだなんて、思わないよ。別に、好きな人がいるなら、普通のことだと思う」
僕だって、逆の立場だったら。いつか絶対に胡桃沢には僕のことを好きになってもらいたいし、他の男なんて目に入れてほしくない。
「……そっか」
彼女は嬉しそうな笑みを浮かべる。
「ふふっ、でもね。私ね、不安なの。出来れば、安心したい。アサギがいつか絶対に私のことを好きになってくれる『証』みたいなものがあれば、私も安心して部活が出来る気がするんだ」
彼女は微笑みのまま、
左手の薬指を、僕に向かって差し出した。
「噛んで」
端的な要求。
「指を噛んで欲しいの。血が出ないくらいの弱さで。それでも、跡が残るくらいの強さで。強く、だけど、優しく噛んで欲しいの」
彼女は笑う。
「おかしいよね、私。でもね、どうしても欲しいの。ただ噛むだけ。アサギにとっても、悪い話じゃないでしょ?」
確かに悪い話じゃない。
でも、嫌なものが背筋を伝う。
これをしてしまえば、何か、決定的に取り返しがつかなくなるような。
過ちであるような、仄暗い予感が。
でも、僕は知っていた。
『妹ちゃんの要求は、受け入れてあげてね』
未来を視る悪魔に、これが正解であると、事前に教えられていたのだ。
だから、僕はこれをするしかなかった。
「本当にいいんだな」
そんな確認をして。
彼女は頷く。
そして、薬指を僕の口に近づける。
僕は、そして。
口を大きく開き、
彼女の指に、小さく忠誠を誓った。
「もっと、強く、噛んでいいよ。あと、もうちょっと、奥。第二関節と第三関節の間。そう。そんな感じ。……んっ、ん。っん、ふぁ……っ。んんっ、ふ、ふふっ。あぁ……」
そして、口内から、薬指が引き抜かれて。
傷跡が残った指を、彼女は恍惚とした表情で眺めた。
「……しあわせ」
それから、彼女はカバンの中から絆創膏を取り出した。
「巻いて」とのことだったので、僕は跡を覆い隠すように、彼女の薬指に絆創膏を巻いた。
その絆創膏を見て、彼女は呟いた。
「……指輪みたい」
静かに頬を染める姿は、本当に恋する乙女さながらだった。
もしかしたら。
彼女は自分のことを殺させたい作為ではなく、
本心から、僕のことを好いてくれているのではないか。
そう錯覚してしまうくらいに。
「……こんな安っぽい指輪があるかよ」
悪態をついて、どうにかとりなす。
「そうかな。でも私、これでいいな。綺麗な宝石なんかより、ずっと愛されてる気がする」
どこまでも幸せそうに笑う彼女は、入部届をもって立ち上がる。
「じゃあ、せっかくだし。出しに行こうか、入部届」
笑う彼女。入部届を持つその手には、指輪のような絆創膏が巻かれていて。
――その日以降も、彼女の左手の薬指には絆創膏が在り続けるのだった。
■7
いつも通り、胡桃沢を家に送り届けた後に帰宅。
自分の家の玄関。
なぜだろうか。
……開ける前から、なんとなく嫌な予感がしていた。
鍵を開けて、家に入ろうとする。
ドアノブを引こうとすると――ガシャン。
びくともしない。
「……」
つまり、逆に閉まったということだ。その音を聞きつけたのか、玄関の方から慌てる音がして、内側から鍵が開けれられ、同時に扉が開かれた。
「おかえりっ、ご主人様っ♡」
視界に飛び込んできたのは、黒髪の美少女だった。
そいつは、狙ったかのようにエプロン姿で、甘ったるい笑みを浮かべて僕を出迎えてきた。言うまでもないが、胡桃沢花梨だった。今は霊体の時のようにふよふよ浮くこともなく、しっかり地に足を付けて、自分自身の肉体に宿っていた。
「今日も一日お疲れ様。ご飯にする? お風呂にする? それとも………わ・た・し?」
ベタであるがそれゆえに王道である。そんな出迎えを美少女にされたなら心が揺らいでしかるべきなのだが、残念、本日の僕はとんでもなく疲れているのだった。
「……僕は今すぐ寝たい」
「そんなくたびれたサラリーマンみたいなこと言って」
花梨は僕を家に招き入れると、思い出したかのように扉を施錠、そのあとで、まじまじと僕の顔を見た。『私がいない間に何かあったのかな?』とでも問いたげな眼で。彼女は名案を思いついたかのように手を叩くと、少し背伸びをして、僕の額に人差し指を付き立てた。
「――。…………へぇ、なるほど」
神妙な顔で花梨は呟く。
「……記憶を読んだのか?」
「うん。これが出来るから私は先に帰ったわけだし。それにしても、……妹ちゃんが変態になってるなんて知らなかったなぁ」
「変態って」
「君自身も少しは思ったでしょ。『何言ってんだコイツ』って」
彼女は左手の薬指を立てて笑う。
僕の沈黙は肯定と同意義だった。
「まぁ、私のアドバイス通り動いたわけだし、今日の成果は十分ってところだね。よく頑張りました。褒めてあげる」
放課後、花梨は去り際にいくつかのアドバイスを残して帰っていった。
・文芸部には入部しろ
・妹ちゃんには放課後になるころには(呪いが少し収まって)会えるから安心しろ
・妹ちゃんの要求は拒むな
以上の三つ。それさえ守れば、今日は合格点であったらしい。
「僕は先行きが不安なんだが……?」
胡桃沢とココンが対面したときのあの緊張感は、二度と味わいたくない。
「それは君がこれから頑張るの。私の力に頼りきりってのもダメだからね。今回は初回特典ってことでサービスしてあげたけど、次はこうはいかないからね」
「早速聞きたいことがあるんだが」
「うーん、やだ♡ 今は質問に答える気分じゃないから」
呪いが効かないっぽいココンについて、悪魔からの知見を得たかったのだが……。
言うだけ言ってみるか。
「僕はご主人様だぞ?」
「だから何?」
花梨は冷ややかに笑った。
「私は面白いことにしか手を貸さない主義なの。全部教えちゃったら、せっかく面白い君の人生が台無しじゃない。私はね、作品の価値を貶めるようなことだけはしない。それが私の『美学』だから」
そう言うと、花梨は僕に背中を向けて、すたすたとリビングに歩いて行った。
平然と。当たり前のように。
「……いや待て」
「何かな。私はこの『美学』だけは譲らないけど?」
どこか値踏みするような目で、花梨は振り返って僕のことを見る。
いや、違う、そこじゃなくて。
「お前に譲れない部分があるのは分かった。……それはそれとして、だ」
「ん?」
「何故ここに居る?」
「……。…………。………………何故ここに居る、とは?」
心底不思議そうに花梨は首を傾げた。
「え、何。君、もしかして私が出ていくと思ったの? 仮にも『主従契約』の最中なのに?」
「先に帰ったってことは、出ていくんだって思ったんだが」
「えぇっ?」
「……少なくとも肉体の方はどっか行くと思ったんだよ。お前は、霊体みたいな状態で僕と喋ることができるだろ? だから……」
「住むけど」
「はい?」
「だから、住むって。私、この家に」
「は??????」
花梨は、「ああ」と手を叩いた。
「全然言ってなかったね。忘れてた。てへ」
舌を出して笑う花梨。
……いや、待て。待ってくれ。
「住むだと……?」
「何か不都合があるの? でも君の頭の中を見るに、私を飼うことへの懸念点あるようには見えないけど」
「『飼う』って……」
「え、何、ご主人様。もしかして私を飼う覚悟もないのに『使い魔』にしたの? 飼育環境も用意せずに動物を飼っちゃダメなんだよ?」
「そりゃそうだが……」
「ご主人様の『所有物』だって分かるようにチョーカーまで用意したのに、ひどいなぁ」
彼女は自身の顎をくいと上げると、首に装着した黒色のチョーカーを見せつけてくる。
「お前、やることって……」
「まぁ、これと……他にも諸々の生活用品とかを用意したりね?」
僕は思わず額を抑える。
いや待て屈するな浅葱虎徹。さすがに花梨を家に住ませるのはまずい……!
「何がまずいの?」
彼女は、僕の顔を覗き込むように、近づいてきた。
細められた魔性の瞳が――胡桃沢に、似てる。
「好きな女の子とうり二つの容姿の美少女を、『飼う』なんて名目で家に置いておいたら、何が起きるか分からない?」
全て図星だった。
僕だって男だ。思春期。十五歳。高校生。そんなやつと、好きな人と同じ容姿の美少女が共同生活をしてみろ。絶対にロクな目に合わない。要は、僕自身の理性の心配だ。
「でも髪色とリボンで私だって分かるでしょ?」
「そういう問題でもないんだよなぁ……」
僕はマンガやラノベでヒロインに囲まれている男主人公を見るたびに思う。ラブコメ主人公たちの性欲は一体どこに消えてしまったのだろう、と。あいつらは美少女と股間を押さえつけることもなく平然と話をして見せる。並大抵の精神力じゃない。もはや狂気の沙汰だ。
「まぁ確かに。普通の男子高校生ってお猿さんだもんね」
「僕もその例に漏れないお猿さんだ」
「別に私を性の捌け口にしてもいいけど?」
「馬鹿かお前は」
「いや、冗談じゃなくて」
「本気なら尚更馬鹿だろ」
彼女はきょとんとした顔で僕を見つめる。僕は少し頭痛がして額を抑える。
「ただ家に住む代価に、自分の身体を捧げるとかアホか……」
「あれ? 私を家に住まわせることには前向きなの?」
「だってお前、……他にアテはあるのか?」
「今はないね。家出少女みたいなものだと思ってもらえれば」
「お前も胡桃沢だろ。だったら自分の家に……」
「少し訳アリでね。今は帰れない。家庭の事情だから、追求しないでくれると助かるな」
……そんなことを言われて聞き出せるわけもないだろう。いや、聞き出すべきなのかもしれないけど、本当に深い家庭の事情だったらかわいそうだろ。
「私は悪魔だよ? そんなことを思わなくてもいいのに」
「ナチュラルに心を読むな。それに、家庭事情を引き合いに出してきたのはお前だろうが」
「そうだったね、あは」
楽しそうに笑う花梨。……家庭事情に関しては、僕も似たようなもので、追及されたくないし……同じ思いを誰かにさせたくない。住まわせることに問題はあると思うが!
こういうのは大体、親とかが出てきてややこしくなるんだ! 漫画とかでもよく見る!
「あ、そこら辺は大丈夫だよ。知ってると思うけど、胡桃沢家は放任主義だから」
「実の娘を他人の家に住まわせても何も言わないのか? マジで……?」
いや、放任主義らしいという話は知ってるんだが……。
「んー、私たちは厳密には実の娘じゃないしなぁ」
「またややこしそうな話が……!」
「これも本筋じゃないね、忘れていいよ」
「いや忘れられないけども」
「で、どうするの? 私を家に住まわせてくれるの?」
「……マジで親には何も言われないんだな?」
「うん、断言してあげる」
……それなら問題はない、のか?
親とかが首を突っ込んでこないなら、彼女を住まわせる問題は、僕がお猿さんだってことしかない。一種の精神修行だと思えばいけるか?
「我慢しなくてもいいのに」
花梨は強調するように腕を組んで大きな胸を強調した。
好きな奴の双子の姉に手を出したら人間として決定的に何か終わる!
落ち着け、浅葱虎徹。お前はクールガイだ。クールダウン、クールダウン……。
「……意図的にそういう誘惑をしないのであれば、家に置いてやってもいい」
「あら、性の方面で篭絡しようかと思ってたのに。……住んでいいの?」
僕は溜息を吐く。
「性の方面で篭絡ってなんだお前、……やった事あんのか」
「ないからやってみようかなって」
「なくてもやろうとすんな!」
「ごめんなさーい。……で、肝心の返事は?」
……手のひらを返してやっぱりやめにするならここが最後だ。
倫理的にはどう考えてもまずいだろう。
男女が二人きりで共同生活? 展開的にも、何も起きない方がどうかしている。
だが、胡桃沢を本当に救いたいというのなら。
こいつの力を使うのが最善で、そのためにも友好的な関係は維持しないといけない。
それに、僕は本当に胡桃沢のことを愛しているのだから、どうとでもなるはずだ……!
「好きにしろ……」
「やったー♡」
諸手を挙げて喜ぶ花梨。
……我ながらとんでもない決断だ。しかし、妥当で論理的で最適な判断なのだ!
だって胡桃沢を助けるためにはこいつの力は必要だし。機嫌を取って損はないし。そもそもこいつに家がないという話なのだし。仕方ない仕方ない。ああ、仕方ない。
「……ありがとうね、ご主人様」
小悪魔っぽく微笑む彼女に、何故僕はどきりとしてしまうのか。
ああ、クソ、この悪魔め。
今後の課題は山積み。先行きを考えるだけで頭が痛い。
だが、僕が僕自身の意志で、解決していくしかない。
Chapter 1: The End