第二章『ギブアンドテイク』
■1
文芸部が始動した週の土曜日。彼女とは喫茶店で待ち合わせだった。
彼女から指定されたのは、訪れたこともないのに懐かしさを感じさせる、独特の雰囲気を持つアンティークな喫茶店だった。繁華街から少し離れた立地のせいか、静かで。きっと、常連さんが多い店なんだな、と思った。
僕が扉を開くと同時に、ドアベルがチリン、と鳴る。
風鈴みたいに冴えた音だ。
入店早々爽快な心持ちにさせてくれる。
匂いもいい。
引き立てのコーヒー豆とバターの焼ける臭い。
これは喫茶店ポイントが高い。
〈なにそれ〉
ふっ、素人め。
〈……ご主人様よりは色々知ってると思うんだけどなー〉
――まぁ心の中で喚き立てる悪魔は一旦思考の隅に追いやるとして、
(花梨はとりつくことで僕の視覚や思考を共有できる。心の中にささやきかけるテレパシー的な事も可能な高性能な使い魔なのだ)
待ち合わせなんですが、と店員さんに声をかけたのになぜか無視されて心を痛めたりしながら、あいつの姿を探した。
照明は少し落とし気味で、店内は割と暗い。
唯一明るいと言えるのは、窓際の席だ。
そこには柔らかな自然光が差し込んでいる。
光が似合う女だから、なんとなく、そこにいる気がしていた。
「よぉ」
その席に近づいて、見慣れた銀髪の少女に声をかける。
ショートデニムに紺のパーカー、足元はスニーカー。
髪型はポニーテール。少し伸びてきた髪を無造作に結んでいる。
普段の上品な雰囲気を捨て去った、素朴な感じのココンがそこに居た。彼女の手元には文庫本があったが、僕が対面に腰を下ろすと、丁寧に栞を挟んだ後で、本を閉じた。
「おはようございますアサギくん。よくも女の子を待たせましたね」
「待ってくれ。これでも集合の五分前だ」
「気遣い上手ですねと褒めてあげましょうか? ……私は三十分前にはいましたが」
「……楽しみで寝れなかったりしたか?」
「面白い冗談ですね。私が睡眠を怠るとでも?」
「その切り口は新鮮だな。結局早く来た理由は?」
「優雅にモーニングセットを頼むためですが?」
「もう食べたのか?」
「いえ。よく考えたらアサギくんも後から来ますし、一緒にご飯を食べようかなと。それに思い至ったのは三十分前に喫茶店に着いてからですが何か文句ありますか?」
「特に文句はない。というか――僕と一緒に食べようって?」
ココンは頷いた。
「朝ごはん食べました?」
「いいや、まだだな」
「私もまだなんですよ」
「そりゃそうだ」
「アサギくんが来るのが遅かったせいで、ちょっぴりお腹が空いています」
「じゃあ僕が奢ってやろうか?」
彼女はぷくっと頬を膨らませた。
「違いますアサギくん。私が期待しているのは奇想天外な返しであって都合のいい貢ぎ男の戯言じゃありません」
「み、貢ぎ男だと……?」
確かに奢ってやってもいいかなと気軽に思ったけれど!
その評価はあんまりではないだろうか。僕だって頑張って生きているのに……。
「捨てられた子犬のように健気な表情ですね。ふふっ」
彼女は面白い見世物を見たように笑って、それから、彼女はモーニングセットを二つ分注文した。メニューを見るに、パンに目玉焼きとベーコンが乗ってる感じのやつだ。
注文を聞き届けた店員は、優しい声色で「ごゆっくり」と言った。
「あ、ちなみに私の奢りですからね」
「後が怖いんだが」
「私が何かする女に見えます?」
「日頃の言動を見返してくれ」
「えー? 心当たりがないですねぇ」
彼女は愉しそうににやにや笑っていた。
「まぁ、副部長の勤めと言うものでは? 私の破天荒に付き合うのも」
「認めたな。お前さりげなく認めたな!」
「えぇ。さすがに犬の芸を仕込んでおいて何もしてないと言うのは良心が痛みました」
「それは仕込まれてねぇよ!?」
「あら、そうでしたっけ」
彼女は目尻の涙を拭いながら言った。
今週の月曜日。
文芸部は、あっけなく成立していた。
集合写真も撮った。ただし活動内容は未定。『文芸部』と言うのだから、文芸っぽい何かをするべきなのだろうが……。
「別に本は読みますし気が向いたら詩を作ったりするかもしれませんが……。それだけじゃつまらないですよね」
部員が三人になり、さすがにある程度の方針は決めざるを得ない。この文芸部で何をしたいのか。ココン曰く、
「私は青春をしたいです」
彼女が言う青春に、難しい定義はない。ただ、若い高校生のうちに楽しいことを魅力的な仲間としたいということだ。
「ここはただの文芸部じゃありません。……名付けて、『青春文芸部』! 私たちが送ってきた青春を日記につけて次代へと託していくんです! 面白そうでしょう!?」
彼女はカバンの中から、無記名のノートを取り出して笑みを見せる。
青春文芸部……ちょっとダサすぎないか。
そう思ったんだが、キラキラした瞳のココンを見ていると、僕は何も言えなかった。
「ちょっとダサくない?」
口を出したのは胡桃沢だった。
ココンは笑みを凍り付かせる。
そんな言葉はまるで想像していなかったらしい。
「まぁ別に、なんでもいいんだけどさ」
結局、興味なさげな胡桃沢。そんな彼女に頬をピクつかせながらも、部長の強権を活用して僕たちは『青春文芸部』と相成った。ダサい気がするんだが……ずっとやりたかったんだもんな、うん。その横暴を許してやろうじゃないか。
「……私のワードセンスが前時代的とでも言いたげですよね胡桃沢さんは」
『ダサい』と言われたことはかなり気にしているらしく、裏ではココンに愚痴られる。
さすがに僕まで否定してやるのはかわいそうだ。
……僕だけはコイツの味方でいてやろう。言わぬが花ってやつさ。
と、言う訳で。持ち回りで今日あった『青春』のことを記録する。それがわれらの文芸部の活動内容になった。しかし、胡桃沢はまったくもって僕以外に興味を示さず、最悪な空気。そんな現状を打破するために、土曜日に親睦会を執り行うことになったのである。(僕が主導で開催を提案すると、胡桃沢は喜んで即座に参加を決めた)。
親睦会は今日の昼頃から開催が予定されているものの、今は朝。
この密会は、対胡桃沢作戦会議を行うために執り行われていた。
「それで、胡桃沢とはうまくやれそうか?」
彼女は、質問に答える前にコーヒーを啜ろうとして。明らかに苦い顔をした。
そのまま無言で、ガムシロップを入れた。彼女は気を取り直してコーヒーを啜る。
「………………まだちょっと苦いっ……!」
コーヒーを置いた彼女は、そこにガムシロップを追加していく。
ドボン、ドボン。
「甘党なのな、お前」
「何笑ってるんですかっ……! もぉっ……! 一思いにやっちゃいますよ?」
「おー怖い」
「チッ」
「舌打ちですかッ!?」
彼女は僕を無視して、ようやく飲めるようになったコーヒーに口を付ける。
ずずずっ、とすすってから一言。
「……難しいですね」
と、ココンは静かに目を伏せた。
「胡桃沢さんってば、私の話は流す癖にアサギくんの話は熱心に聞くじゃないですか。付き合ってきた年月の違いもあるとは思いますが。……私が仲良くしようとしても、華麗に流されるんですよね。アサギくんには甘々なのに」
ココンと胡桃沢の関係は、はっきり言って微妙だった。まだ文芸部が始動して一週間しかたっていないが、されど一週間。なんとなく分かることもある。現状の胡桃沢は、ココンに対して苦手意識があるようだ。
人慣れしていない猫を想像してみてほしい。ココンに対しては警戒マックスで接し、僕に対しては――。
「アサギ、アサギっ♡」「今日は何をするのかなっ」「ねーぇ、聞いてる?」
……等、思い出すだけで砂糖を吐きそうになるほどの、甘ったるい態度。
僕はまたたびか?
そう自認してしまいそうなくらいには、胡桃沢の態度の違いは明白だった。
「胡桃沢さんの態度の違いが明確過ぎて、……腹が立ちます」
「それはそうだなーー」「私の方が良い声してるのにっ」「論点はそこじゃないだろ!」
ココンは眉をひそめていた。
「私と仲良くする気ないじゃないですか、あの子。今は少し徒労に暮れてます。私がこんなに弱気なのは珍しいですよ。いつもは不敵な笑みを浮かべられるんですが、胡桃沢さんは」
彼女は「ふぅ」と、ため息を吐いた。
「私のような正統派美少女を拒むなんて、素敵ですよね。それでこそやりがいがあるってものです」
僕の目の前には好戦的な笑みを浮かべる少女がいて、さすが孤紺糖財だ、と感心した。
「まぁでも、時々ぶち殺したくなる瞬間がないと言えば嘘になりますが」
「……短気は損気って言うだろ?」
「説くまでもなく分かっていますよアサギくん。釈迦に説法って知ってますか?」
「お前が釈迦だと?」
「そう見えないならアサギくんの頭はお釈迦ですね」
「何がお前の自信になるんだ……!」
「私は評定で5以外取ったことのない天才なんですが? How about you?」
クソっ、無駄に流暢な英語で喋りやがって……!
言うまでもなく下過ぎて言いたくねぇ!
と言うわけで僕は沈黙を選んだ。
「……」
彼女は、「はっ」と笑った。
「口が利けないとは三歳児にも劣りますね。今時の三歳児は日本語を巧みに操ってSiriで電気の消灯をするんですよ?」
「どんな三歳児だそれはッ! 末恐ろしいわッ!」
「それが令和ベビーなんですよ」
「絶対違うと思う……」
「ふふふっ、そうですか。……あっ、ごめんなさい店員さん、待たせちゃいましたね?」
テーブルの傍らに立っていたのは、皿を回収しに来た店員さんだ。風貌からしてたぶん高校生なのに働いていて尊敬する。彼は微笑を湛え、皿を回収しながら小言を叩く。
「すげぇ仲良しっすね。ちなみに何年目っすか?」
「コンビを組んで一週間目ですね」
「あー、じゃあ才能有りますね。目指した方が良いっすよ、お笑い」
「ですって。エムワンでます? アサギくん」
「お笑い舐めてる?」
「大御所かよ」
そうツッコんだ後、店員さんは「ごゆっくりー」と言って去っていった。
「……というか、まだ一週間か」
「ん、そうですよね。……その割には息が合いますよね」
「不本意なことにな」
「は?」
「いやいやめっちゃ本意。本意です本意」
そう答えると、ココンは満足げににっこりとほほ笑む。
それから結局テーブルの下で僕の足を蹴った。
「……人は蹴っちゃダメだろ……」
「じゃれてるだけですよ。照れ隠しともいいますが」
「そう言うの自分で言うんだ……」
「奇想天外を地で行く性格なので」
だから、自分で言うなって。
「ふふっ、ふふふっ」
そして急に楽しそうに笑いだすし。
……なんなんだコイツは。
笑ってる姿は、純粋に滅茶苦茶可愛いんだが、中身がちょっとアレだな。怖い。
まぁ、それもこいつの良さなんだろうな、と思う時点で多分絆されている。
「まぁでも、燃えているのは事実ですよ。立ち向かう気概があるからこそ、この作戦会議があるわけですし」
彼女は僕を見据えて、笑う。
「さてアサギくん。胡桃沢さんの弱点を洗いざらい吐いてもらいましょうか」
「もしかして尋問されるのか?」
「まさか。彼氏さんに口説き文句を教えていただくだけですよ」
「僕は彼氏じゃないぞ」
「知っていますよ、物の例えです。胡桃沢さんを懐柔しているのは事実でしょう?」
懐柔……?
「いやむしろ僕は振り回される経験しかないんだが」
「それでも振り落とされてないじゃないですか。歴戦のパイロットであるアサギくんに操縦の秘訣をご教示いただければ幸いです」
秘訣。……秘訣なぁ。
運命だとか抜かすつもりはないけれど、胡桃沢とはやけに馬が合うんだよな。
それだけが理由なんて抜かしたら絶対怒られる。まぁ、僕が対胡桃沢で心掛けていることを教えて、今後の胡桃沢との関係に活かしてもらうことにしよう。
今日は文芸部の親睦会。
僕たちの仲を深めるために行われるのは、
ごくごく普通の青春、……そのはずだ。
■2
駅前の広場。
時計の下に、胡桃沢は静かに佇んでいた。
雑踏から一人浮いている。
服装は落ち着いたキャメルブラウンのジャンパースカート。
胸当ては高く、肩にかかるストラップは華奢な印象を与える。そこから流れるように広がるスカートは、膝が隠れるか隠れないかという絶妙な丈だ。優雅だった。色合いも服装も柔らかだった。都会に染まった者たちは、彼女に安らぎを求めて思わず目を留めるだろう。
だが、彼女に視線が集まるのはその優しさが原因ではなかった。
むしろ苛烈さだった。
その清楚なデザインの布地は、彼女の驚異的な身体の曲線を抑え込むどころか、挑発的に際立たせていた。胸当ての下では豊かな双丘が確かな存在感を主張している。
薄手の生地は内側から力強く押し上げられていて、つまるところ豊満だった。ウエストもくびれているしヒップも大きい。背丈も大きくて華々しくて、まるでモデルのようだ。
だから目を惹くのか?
いや、本質は――真に視線を引きつけて離さないのは、彼女自身が放つ雰囲気そのものだ。その佇まいには微塵の隙もない。陶器のように滑らかな白い肌、整いすぎた顔立ち。
そして、全てを見透かすかのような翡翠色の瞳は静かに輝きながらも、その奥に容易には触れさせない深淵を湛えている。
――思わず見惚れていると、肘で脇を突かれた。
「見過ぎです。……。……しっかりサポートしてくださいよ」
と、呟いてから彼女は意識を切り替えるように目を閉じる。
それから、ココンは胡桃沢の元に駆け寄っていった。
「加恋ちゃん。おはようございますっ!」
ココンはにこやかに微笑む。対する胡桃沢は冷静に、「おはよう」とだけ言った。
うん、冷たい。平常運転ともいえるがな。
ココンの後で、僕も歩いていった。胡桃沢は僕を見ると、明らかに顔に喜色を湛えた。
「あっ、おはようっ、アサギっ!」
心なしか声が上ずっている胡桃沢。背後で闘志を燃やしているココンなんて見えていない様子だ。僕の方でも平常運転で何よりだぜ……!
「おはよう、胡桃沢」
名前を呼ぶと、彼女の笑みは深まった。
くそっ、可愛いな……!
よし花梨、打ち合わせ通りだ。
〈この童貞〉
心の声で罵倒をする悪魔。それが僕の秘策だった。
そして今回、花梨には胡桃沢の一挙一動で僕が昂る度に冷や水を浴びせてもらう。
そうすることによって胡桃沢に動揺しなくなる僕が完成って寸法さ。
最高にクールだな。
〈逆に昂るんじゃないの?〉
僕は女の子をイジめるほうがどちらかと言えば好きだぜ。
安心しろ、罵倒されるのは純粋にキツイものがある。
〈ああ、サディスト気取りの変態なんだ〉
ありがとう花梨! 事前の打ち合わせ通りだ!
〈いや、ただの本音だけど?〉
ありがとう花梨! 事前の打ち合わせ通りだ!(take2)
〈……まぁいいや。せいぜいうまくやってよね〉
指示通りに機能してくれるようで何よりだぜ!!
……さて、心中でのやり取りをしている内にココンが胡桃沢に話しかけてくれてるが。
「今日の服装、すごく可愛いですね!」
「別に? まぁ、普通かな」
「そうですか? 私はすごく可愛いと思いますよ?」
「……………………そ」
ご覧のありさまである。
ココンは静かに笑みを作った。こっちを見てきて、アイコンタクトが始まった。
(朝の会議の意義は何だったんですかねアサギくん……!)
彼女と集合時間前に喫茶店で合流したのは、胡桃沢への対策を練るためであった。
『胡桃沢と仲良くなるにはどうするの? 教えてアサギ先生!』というコーナーが、あのやり取りの後で開かれていたのである。
僕が出した対策案その①。とにかく褒めろ。本心からの言葉なら胡桃沢には効く。
(安心しろ、胡桃沢の装甲は着実に剥がれている)
(は? 装甲?)
(胡桃沢は表情が出にくいんだ。でも僕レベルになると奴の機微が分かる。少しだけ頬がぴくついているだろう。あれはお前の言葉に機嫌を良くした証だ)
と言いたいところだが、残念ながら僕たちは以心伝心と言うわけにはいかない。
実際は、ただ彼女の不満を受け止めるだけになった。
ごめんて。そのまま攻撃を続けてくれ……!
そんな矢先だった。胡桃沢が僕の腕に抱き着いてきた。
「ね、アサギ。今日はどこに行くんだっけ?」
腕に胸が当たったうえで、上目遣いである。
うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!(胸の感覚を忘れるための全身全霊の叫び)
――花梨ッ!
〈真昼間から盛っちゃってさぁ、猿みたいだよ? 気持ち悪い〉
ふっ……落ち着くぜ……!
賢者モードの僕は語り出す。
「ふ、普通にボウリングとかカラオケとか……の予定だよな、ココンっ!」
そしてココンに話題を振る! あわよくばそのまま胡桃沢の注意がそっちに行けッ!
「えぇ、そうですね」
ココンはにこやかに微笑む。それから、あからさまに僕の腕に押し付けられた胸を注視した。その後で、僕の顔を見た。
「あぁ、おっぱい魔人なんですねアサギくんは」
「どんな魔人だ!?」
「ふふっ、大きなおっぱいが好きな男の子のことじゃない?」
眼下の彼女は、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
……まぁそりゃお前のダイナマイトボディに勝てる女なんてそうそういねぇよ。
ココンだって普通にあるだ――いや違う違う違う!
――花梨ッッ!
〈一回死んだら?〉
ふぅ。
よしよしよし落ち着いてきたぜ。
腕にふよふよした感触があるのは相変わらずだが落ち着いてきたぜ?
「あ、そういえば、二人で一緒に来たけどどうしたの? 途中で会ったの?」
ふとした胡桃沢の問いかけに、ココンが応じた。
「はい、そうなんですよ。途中でばったり」
喫茶店の事は隠す。
――事前のストレス発散と作戦会議の事は言わない。
そういう取り決めだった。『当日の朝の内に打ち合わせをする』ことにはリスクが伴うと思ったが彼女がやりたいというのだからしょうがない。やりたいことはやる。それが孤紺色糖財と言う女なのだ。……いや、すごい今更だがやめとくべきだったかもしれん。
「へぇ、本当に?」
「えぇ、本当に」
何だかバチバチしてるような気がするし。
胡桃沢は明らかに抱き着く力を強くしてるし。
僕を見るココンの目は若干冷めたものな気がするし。
僕が悪いって言うのか!?
〈がんばれ、ご主人様♡〉
使い魔は使い魔で、心の底から応援してくれてる訳じゃないし。
胡桃沢が密着するせいで動きづらいし、ココンの会話を胡桃沢はことごとくかわすし、行き交う人からは明らかに噂されてるし(主になんだあのいけ好かない男はという話が聞こえてくる)。
……ああ、今日も不遇だ。
■3
「じゃ、私お手洗い行ってくるね」
胡桃沢が僕の隣から立ち上がる。
腕が痛くなるほどボウリングで遊んだ僕たちは、昼食がてらファミレスに立ち寄っていた。注文を終えて、彼女が立ち上がる。
「いってらっしゃい」
とココンが手を振った。胡桃沢は何も言わなかった。
そのままお手洗いへと消えていった。そして、対面に座るココンと二人きりになった。今までにこやかに微笑んでいたココンは、彼女の姿が消えるなり真顔になった。
「……百面相かよ」
「私だってやりたくてやってるわけじゃありませんよ? やらなくて済むならやりません」
彼女は、はぁとため息を吐く。
「もうちょっと素で関わってみたらどうだ? 疲れるだろ」
「それで仲良くなれると思います? ……それに、別に慣れっこですから」
ココンの瞳に憂いはなかった。人間関係を『そういうもの』だと割り切っているらしい。
「……そんなことに慣れてほしくないけどな。しんどくないのか」
「息抜きはしっかりできてますから気にしないでください。……それよりも」
ココンは怖い笑みを浮かべていた。
「胡桃沢さんはボウリングの最中もずっとアサギくんの方を見てましたね」
「はい」
「私の華麗なストライクに見向きもせず、ずうっっっとアサギくんに抱き着いてましたね」
「……ハイ」
……いつの間にか浮かべている笑みが怖い。
「まぁ、これはいつも通り。想定できたことではあります。ですが、……今日はやけにデレデレですよねあなた。癪に障るんですけど……」
吟味するように顎に手を当てて、彼女は言った。
「もう胡桃沢さんと付き合ったらどうですか?」
「却下」
文字通り人を殺しにきやがった。
真実の愛が成就していると知ったら――そうしたら胡桃沢は僕を『催眠』で操って自分自身を殺させる。
だがこいつはそんな事情を知らない――!
「……何で付き合わないんですかね? おかしいじゃないですか。アサギくんだって鼻の下伸ばしてるくせに。ずうっっっとデレデレじゃないですか」
「ぐっ……! それはそう……!」
実際、花梨のフォローも限界があった。
ボウリング中の一幕――。
〈童貞、変態、馬鹿〉
あのさぁ、もっと本気でやってくれないかな?
〈は?〉
付いちゃったんだよねぇ、免疫。
もうちょっとボキャブラリーをだな……!
〈免疫付いたって……?〉
お前の罵倒の衝撃が胡桃沢のおっぱいに負けるようになってきたんだよ。
正直辛抱たまらん。
〈つまり?〉
言われ慣れてきちゃった☆
〈そう。……手加減してあげてたのに〉
あ……?
〈ねぇこのド変態。人様の妹に欲情して何のつもりなの? 胸見すぎだし。気持ち悪いな。男って下品な目をすぐに向けてくるから嫌いなんだよね。家でもさ、結局私の身体見ちゃってるよね。しかも、私と妹を重ねて。あれ、すっごい気持ち悪いんだけどやめてくれない?正直吐きそう。……ねぇ、私を飼う資格が自分にあるって本当に思ってるの?〉
ああこれダメだメンタル病むやつだこれ。
〈でしょ。だから手加減してあげてるの。分かったら、二度とこんなこと言わせないでね〉
と言う一幕があって、花梨による罵倒作戦は(語彙が強すぎると僕が死ぬため)機能しなくなったのである。
その結果、半分くらいデレまくった僕が爆誕した。
……おっぱいには勝てなかったよ。
オーマイゴッド。神は死んだ。いや実際に死んでるらしいが。
「まぁ……鼻の下を伸ばしていたのは認めよう」
「はいそうですね」
「アイツは僕のことが好きすぎる……!」
僕は額を押さえる。その間もココンの冷たい視線は刺さり続けている。
僕も胡桃沢のことが好きだ。
「でも、付き合うわけにはいかない」
「何故?」
「危ういんだよ」
「……はい?」
僕だって、これを言うのは初めてだった。
「僕も、胡桃沢のことは好きだ」
「だったら――」
「僕がいる世界だけを好きになったらダメなんだよ。それじゃ、立ち行かなくなるから。あいつには、もっと、世界を見てほしい」
それが生きるってことで、胡桃沢にとって必要な事だと思うから。
「僕だけじゃダメなんだよ。世界は広いんだから、あいつはもっといろんなものを見るべきだ」
「胡桃沢さんは視野が狭い、と。自分と付き合って人間関係が硬直する前に、様々なものに触れてもらって人間性を成長させたい。以前の繰り返しのような話になりますが、……そういうことですかね?」
「理解が早くて助かる」
彼女は、神妙な表情でメロンソーダを飲んでいた。
ストローでチューチューとやっていた。
それから、一言。
「まるで躾ですね。……親が子にするような」
「……」
僕は、何も言えなかった。
これは対外的な言い訳だ。本当は、彼女を死なせたくないだけなのだ。
でも、そう想う気持ちがないと言えば、嘘になる。
胡桃沢には、もっと成長してほしい、そんな気持ちは、確かにある。
「なにかをしてやろうなんて、傲慢かな」
「私はそれが思いやりだと思いますけどね」
彼女は、何かまぶしいものを見るように目を細めた。
「傲慢だなんて、少なくとも私は思いませんでしたよ」
彼女は、本当に優しい目をしていた。
更に何かを言いかけて、僕の背後を見る。
そこには――。
「二人で何の話をしてたの?」
胡桃沢がいた。
彼女の問いかけには、ココンが答える。
「ふふ、加恋ちゃんは愛されてるって話ですよ」
「へぇ、詳しく聞きたいな」
そして、彼女は当然のように僕の隣に座って、身体を押し付けてくる。とんでもないおっぱいだ。このままでは僕は爆散してしまう。そこで畳み掛けるように――上目遣い。
「詳しく聞かせて? ね、アサギ?」
うおおおおおおおおおぉぉおぉ!
――花梨ッッッ!!
〈…………〉
無視っ!?
嘘だろ二人でここまでやってきただろうがッ!
〈……………………〉
気休めでもいいんだって、なぁ!
〈…………………………………………〉
「ねぇアサギ? お話聞かせてよ」
クソっ! あることないこと適当に話すしかないッ!
つーか、お前らで仲良くなれよ!
■4
その後も親睦会はカラオケにゲームセンターと続いたが――
ほとんど特筆することもなく、親睦会は終わってしまった。
胡桃沢とココンが接近したような手応えは感じない。彼女たちは未だ、表面的な笑みを浮かべるだけだ。胡桃沢の家は、僕たちとは別方向。
どこか寂しそうな胡桃沢を見送った後で、僕たちは帰路を辿ることにする。
帰宅を急ぐ人々の少しだけ早くなった足音と、遠ざかっていく電車の音が聞こえた。
肌を撫でる風は昼間の温かさを失い、少しだけひんやりとしている。
傾きかけた太陽は、アスファルトを気怠いオレンジ色に染め上げていて、なんとなく、瞼の裏に残る色をしているな、と思った。
「じゃあ今日はこれで解散ってことで――」
彼女に言いかけた時、腕を思いっきり掴まれた。逃がさんと言わんばかりで、華奢な腕からは想像も出来ない剛力だった。怖い笑顔で彼女は言う。
「反省会しますよアサギくん。今日は反省点がたくさんですから。特に、アサギくんの、ですよ?」
「僕が何をしたって言うんだっ!」
そう叫ぶと、彼女はくすり、と笑った。全く目が笑っていない。それどころか――
「養豚場の豚を見る目だ……!」
「はいそうですねこの豚野郎」
彼女は凶悪な笑みを浮かべて続ける。
「私はサポートを頼んだつもりですが……あなたは胡桃沢さんの胸に夢中で何一つ私にとって有益なことをしませんでしたね。私は午後からのあなたの汚名返上に期待していたんですよ? ……さて、弁明があるなら聞きますが」
「すいませんでした」
「謝罪の速度だけは一人前ですね。まぁ……はい。謝罪は受け入れますし後で更に詰めますしパフェを奢らせるので許してあげましょう」
「不平等条約が一方的に締結された気がする」
「敗戦国の末路ですね」
「僕がいつ負けた?」
「無限に胡桃沢さんの胸に負けてましたよね」
「パフェで手打ちにしよう」
彼女はくすりと笑った。
「では、条約締結と言うことで」
そのまま人の多い方向へと、僕たちは向かっていく。
都会にして見ればありふれた町並み。丁寧に舗装された歩道を、二人並んで歩いた。
日曜日だから、親子やカップルの姿もあちこちに散見される。
自然公園で元気にブランコを漕ぐ子供や、それをベンチで見守る父親、次の予定を歩きながら決めているカップルなど――。僕たちも端から見ればそんな世界の一員で、もしかしたらカップルに見えるのかも知れない、と思った。いやもしかすると呪いの影響でストーカーに見えているのかもしれない。誓うが、僕は胡桃沢一筋だ。だから通行人の皆さん僕を怪しげな目で見ないでください。ひそひそ喋るのもやめてください、ただの友人ですから!
〈ねぇ、虎徹。残念な報告があるんだけど〉
なんだよ花梨。僕はストーカーの嫌疑をかけられている気がして憂鬱なんだが――というか、久しぶりに喋ったな。
〈ご主人様への罰タイムの時間だったの。どう? 寂しかったでしょ〉
結構寂しかったよ。で、報告って?
〈妹ちゃんがついてきてる〉
僕は即座に振り返った。
ただ赤い夕暮れが広がっていた。
そこには誰もいない。見慣れた顔など見当たらなかった。
「……アサギくん?」
ココンは心配そうに僕を見た。
〈催眠をより強固にかけて、世界を騙してる。君の目じゃ見つけられない〉
「どうしたって言うんです?」
彼女もまた、後ろを振り返った。
〈何も悟られないで〉
「……なんでもない。ホラいこうぜ」
僕が早足になると、彼女はため息を吐いた。
「……何が見えます?」
「何もいないだろ、さぁはやく反省会だ」
彼女は頷いた。
「えぇ、そうですね。加恋ちゃんと仲良くなるための親睦会が失敗しちゃいましたから」
朝と同じ喫茶店。
ドアベルがチリン、と鳴った。
朝と同じく冴えた音だ。
二名様ですか、と店員に尋ねられて、ココンは頷いた。
今朝と同じ窓際の席。
彼女の対面に僕も座る。
〈迂闊な発言はしないで。ココンちゃんの隣に、妹ちゃんがいる〉
ココンの隣?
〈一応、見えないかどうか確認してるみたい。今は脇をつついてるね〉
マジかよなにも見えねぇ……。目を凝らしてみても、そこにはただ空席があるだけだ。
今までは本当に催眠にかけられていなかっただけだと理解すると、少し恐ろしくなった。
ココンは注文したコーヒーをすすりながら、
「じゃあ、反省会を始めましょうか」
そう言った。胡桃沢が隠れている緊張感を感じながら僕は――てか待て。
「今ガムシロップ入れたか?」
彼女は大人びた表情でコーヒーを飲んでいた。その問いかけにくすりと笑う。
「そんなに子供に見えました? 私はこう見えて大人なんですよ?」
「は? おま、どの口がーー」
〈静かに〉
花梨にたしなめられて、僕は黙った。
「ここに来るのは初めてなので、少し緊張しちゃいますね?」
ココンは、意味深に微笑んだ。
は? いや、初めてじゃない。二回目だろ。
まさか胡桃沢に催眠で何かされた?
可能性は否定しきれない。だけど胡桃沢がココンに催眠をかける動機があるのか? ないんじゃないか? だとしたらこの不自然な言動の意味は何だ?
そういうえばこいつには呪いが効かない様子だった。結局ココン本人を問い詰めることはまだしていないが。もしかすると魔術も効かないんじゃないか? さっきの発言は、胡桃沢に朝の密会を悟らせないためのものでは? 呪いと魔術は同系列の何かなのか?
いや、ともかく。
試してみよう。
僕の推測があっているなら、胡桃沢が見えている上で朝のことを悟らせまいとしているのだ、ココンは。
「……偶然立ち寄った喫茶店の雰囲気が思いの外良くてラッキーだったな」
試すように僕が言うと、彼女は片目を瞑って、「ええ、そうですね」と返す。
〈妹ちゃんはじっとココンちゃんの顔を覗き込んでる〉
……どう見える?
〈私の目からみても、彼女は妹ちゃんが見えないように見えるよ。朝のことさえ知らなかったらね。すごい演技力だ〉
なんでココンは、……嘘を付いてる?
「ねぇ、アサギくん。私、どうやったら加恋ちゃんと仲良くならますかねっ?」
まるでいたいけな少女のように、彼女は尋ねてくる。
ほとんど直感的に、僕はその意図を察することが出来た。
彼女と僕の暗黙の了解。この場に胡桃沢はいないことにする。その上で――。
「私、加恋ちゃんと仲良くなりたいだけなのに……どうすれば良いんでしょうか!」
「なんで仲良くなりたいんだっけ?」
「だってあんなに綺麗で優しい子、友達にいたら最高じゃないですか」
「……優しい?」
〈あっ妹ちゃん今むっとした〉
ちょっと聞いただけなのに!?
「アサギくんが気づいてるか知りませんけど、彼女、ずっとアサギくんのこと誉めてくれたじゃないですか。それって気遣い上手にしかできませんよ?」
いやそれはちょっと詭弁じゃ――
〈あ、妹ちゃんちょっと嬉しそうな顔した〉
それで良いのか胡桃沢ッ!?
――ともかく、胡桃沢がいない場で彼女を褒め称える。当人がいない場だからこそ、真実味があるその言葉を本人に聞かせ全ての警戒を解く!!
僕たちの画期的な作戦は、こうして実行された。
その結果〈妹ちゃん今満足そうな顔してる〉らしい。僕には相変わらず見えないが、どうやら作戦は成功したらしい。親睦会は失敗したのに反省会は成功って、意味わかんねぇな。それにしても、……ココンは何者だ?
彼女は僕が奢ったイチゴパフェを頬張りながら、意味深に微笑んでいた。
■5
「やっぱり人間じゃないんだね、ココンちゃん」
反省会を終えて、改めて彼女たちと別れて。姿を現した花梨が、開口一番にそう言った。
「人間じゃない、って……?」
「答え合わせが必要ですか?」
背後から声をかけられる。追ってきたのだ。怪しげな微笑を湛える彼女――孤紺糖財は、紺色の瞳を細めながら、明確に、花梨のことを見た。
「あぁ、やっぱり見えてるんだね」
ココンは頷いた。
「あなたを悪いようにはしません。彼と私の二人きりにしていただけますか?」
「なるほど。……ふふ、確かにイベントの進行中に私みたいな第三者がいたら邪魔だよね」
花梨は納得したように頷いた。
「じゃ、私は先に家に帰ってるから。後はよろしく」
花梨は笑顔で告げた後、ふよふよ浮いて、建物の壁を通り抜けたりしながら、次第に見えなくなった。
……さて。
ココンに向き合い、問いかけた。
「お前は……何者なんだ?」
「天使です。比喩ではなく、真実の意味で」
人差し指に白色の『光』を灯した彼女は、真意の見えない笑みを浮かべていた。
彼女に連れられて、近場の公園のベンチに座った。
僕たちは、腰を休めながら話すことになったのだ。
遠目で、遊具で遊ぶ子供たちの姿を眺めながら、ココンは語る。
「信じられないかもしれませんが、この世界にはかつて、『神様』がいました」
そんな前置きを置いて、
「神が人間を作ったのは、愛の対象として自身との交わりを持つためです。
神の本質は『愛』であるとされます。愛とは、自分の中だけで完結するものではなく、対象があって初めて成り立ち、分かち合うことで豊かになります。神は、自分の愛を注ぎ、そして愛される存在として、自分に似せて人間を創造されました。
神は、何か不足があって人間を作ったのではなく、その満ち溢れた愛と善の故に、喜びを分かち合うパートナーとして人間を望んだのです」――と、聖典の一節を読み上げる敬虔な信徒のような口ぶりで、滔々と語った。
「神にとっての人間は、やはり、私たちにとっての子供と同じでした。アサギくん。……子供は好きですか?」
「まぁ、人並みには」
「赤信号の交差点に子供が飛び出したらどうします?」
「手をひっつかんで止める」
ココンは、こくりと頷いた。
「正解です。子供は無知で、奔放で、何をするか分からない。だからこそ、大人が間違いを正し、導かなければいけません。……神にとって、今、赤信号に飛び出そうとした子供が『人間』。手を掴んで止めたのが大人で、『天使』と称される特別な力を持った存在です」
「……同じ人間じゃないのか?」
「この二つは『人類』と言う枠組みで括れますが、根本的な部分が違います。『天使』は、神から力の一部を借り受け、自在に行使することが出来るので」
「それが人間と天使の、……『違い』?」
「理解が早くて助かります」
彼女は、天使のような笑みを浮かべた。(事実、話に出てきた『天使』なのだろう)
「……やはり神様は、人間だけで善良に生きていけるか、心配だったんでしょう。その為に、天使を作って、この世界に送り込んだ。――それが、私の知る全てです」
「全てっていう割には……その、部分的だな?」
僕が疑問を口にすると、彼女は頷いて肯定を示す。
「私が持つ『記憶』は、一部分に過ぎません。『神の力の一部分を借り受けた』、その副作用で、『神代の記憶』、その一部を持っている。ただそれだけで、私も特段、この世界について詳しいという訳でもないんです」
「そうなのか……」
この世界が一体どうなっているのか。花梨が親切に教えてくれるわけもあるまいし、この機会に一通り聞いておきたかったのだが、知らないものは仕方ない。
「――ところで」
と、彼女は話を変えるように切り出した。
「アサギくん。あなた、呪われてますよね?」
「……なんで分かった?」
「そうすれば全てに合点がいくからです。最初、あなたがクラスで無視されていた理由も、胡桃沢さんが時折あなたを見失うことも、あなたが文芸部の活動に際して謂われない陰口を叩かれるのも――全て。『呪い』のせいであれば、理解できます」
「思っているより人間は醜いのかもしれないぞ?」
「悪魔が近くにいた時点で察しが付いているんですよ」
「……ずっと前から気づいてたのか?」
彼女は頷いた。
「えぇ。ですが本来、悪魔は人間を隠れ蓑にするものです。だというのに平然と姿を現しているのは……わざと尻尾を掴ませたんでしょうね」
花梨がココンに見つかったのは、わざと?
「何か意図があったのか……?」
「まぁ、帰ったら問い詰めてみてください。本題はそちらではなく、『呪い』についてなので」
僕は肩をすくめた。
「分かったよ。じゃあ、僕の、『不遇の呪い』について――」
「あ、『対価』もお願いしますね」
「『対価」?」
「あなたが悪魔に呪われる代わりに、何を望んだのか、です」
……僕は額を抑えた。あいつを使い魔をしたのは、胡桃沢を助けるためだった。となるとだ。事態の完全な説明について、別途、胡桃沢のことを説明する必要がある。しかし、胡桃沢の自殺に協力させられかけているなんてショッキングな話を、ココンにしていいものか。
「……悩んでますか?」
真摯な瞳で、彼女に問われた。
見透かすような瞳をしていた。いや、きっとそれは彼女の願いで、僕が見ている偶像に過ぎないのだろう。叶う事なら、僕の心を見透かしたい。
それが出来ないから、切実に僕を見つめている。見透かすのではなく、見透かしたい瞳。それが出来ないから、彼女は眉を下げている。いつも僕は彼女の真意が見抜けなくて、超然とした奴だと思っているけど。真剣に観察すると、まるで普通の女の子みたいに見えた。彼女は、普通の人間じゃなくて、天使なのに。
ふと、気になった。
「なんでお前は、そんなに僕に良くしてくれるんだ?」
「よくしている、ですか?」
「ああ。だってお前は、僕に良く世話を焼いてくれて……胡桃沢と友達になろうと積極的に動いてくれてる。今日の喫茶店でも、……見えてたんだよな?」
「はい。彼女が一般人に見えていない状態なのは察しがついたので。あとはアサギくんが乗ってくれるかどうかの賭けでしたが。そこそこうまく行きましたよね」
「そうだな。そういう、機転が利くところに助けられてるんだよ、いつも」
「それはどうも。ですが、私を善い人だとか、褒め称えないでくださいよ。困っている友人がいたら放っておかないってのは、人として自然な心理でしょう?
これが私の『普通』です。あなたに良くしているつもりもありません。ただ、友人として、対等に接しているだけです」
「いい奴だな、お前は」
「別に……」
彼女は、僕から目を逸らす。
「……難しいことを、考えていないだけなんです。私は。この際告白してしまいますが、私は楽な方に流れているだけの人間なんですよ?
迷子の子供を見かけたら、私は迷わず声を掛けます。でもそれは、見過ごしたら自分の心が痛むからです。自分にとって、楽じゃないから。ごみを見かけたらとりあえず拾います。財布は交番に届けます。困っている人がいたら、とりあえず助けます。
私は、心の楽な方に、流れているだけなんです。……敬語を、使うのだって。私は胡坐をかいているより正座でいる方が好きな人間なんです。ただ、それだけで、深い理由なんてなくて、全部、楽だから。勤勉に見えて、その実、怠惰な人間なんですよ、私は」
怠惰、ね。
「……怠惰の定義が危ぶまれるな。僕にはお前が、真面目で、誠実で、とても優しい人間に見えるよ」
「自分にとっての楽を突き詰めただけなんですがね」
「じゃあ性根が優しいんだ」
「……。…………。……………………そうですか」
彼女は押し黙った後で小さく呟き、キッとこちらを睨んだ。
「私は、全部話しましたよ。私は! ここまで正直に告白したんです! アサギくんも! 正直に、誠実に! 私に全てを打ち明ける義務があるのでは!?」
彼女らしくない勢い任せの言葉に、僕は思わず笑みがこぼれてしまった。
「な、なんですか。なんで笑ってるんです……?」
「いや、分かった。分かったよ。全部話す。全部な」
僕は、改めて、こいつが。孤紺糖財と言う人間が、信用に値すると判断した。信用できるから。信用したいと思ったから。僕はこいつに全てを打ち明けるのだ。
彼女の、天使のような誠実さに胸を打たれて。
僕は滔々と、これまでのことを語り始めた。
■6
――花梨の指が、僕の額をつうと流れる。
「へぇ、全部、話したんだね」
記憶の確認を終えた花梨は、左手に持ったスプーンで、プリンを食べながら呟いた。どこか機嫌よさげなのは、プリンの味にご満悦だからどうか。
「その通り。人間が作る甘味は最高だよね。わざわざ肉体に宿る最大のメリット♪」
「悪魔は基本的に霊体なんだっけか」
「ん、そうだよー。別に好きでふよふよ浮いてる訳じゃないけどね、悪魔が肉体を得るハードルが高いんだ。自分の魂とある程度『適合』しないと自分の肉体には出来ないし」
「肉体と魂の相性? みたいなものがあるのか」
「うん。特に性別は大事だね。私は『メス』の身体しか操れないよ」
「悪魔に性別なんてあるのか」
「厳密にはないけど、性自認ならあるよ。私は明確に女の子っ♡」
「……お前は本当に胡桃沢の姉なのか?」
「あー、肉体を乗っ取ったんじゃないかって? そういう悪魔がいることを否定はしないけどね。私は違うよ。私は最初からあの子のお姉ちゃんだもの」
「悪魔が姉っておかしいだろ?」
「んー。そうだね。……でも、喋りたくないなー、プライベートなことだもの」
そこで、対面に座っていた彼女はプリンを平らげた。
「……と言う所で、今日の質問コーナーは終わりー」
これが僕の貴重な情報収集タイム。甘いものを捧げているときに限り、こいつは質問に答えてくれるのだった。重要なところははぐらかされるのがオチだが、質問しないよりははるかにマシだ。もう少し真面目に答えてほしいとは常々思っているが……。
「私にだって色々都合があるんだから、仕方ないでしょー? ほら、黙秘権だっけ? あるよね、私にも」
「お前は悪魔だ」
「ざんねーん。精神はともかくとして、人間としての戸籍もあるんだなー、これが。人間として扱ってもらわなきゃ困りまーす」
花梨はいたずらっぽい笑みを浮かべた後で、律儀にプリンをごみ箱に捨て、スプーンを水で洗った。同時に、米が炊き上がる音がする。花梨が炊いたものだった。
『当分の間は、君が上で私が下。弁えておこうと思ってさ? ここに住ませてもらう身だし』――とは、花梨の言葉で、彼女は甲斐甲斐しく家事や炊事に洗濯までを済ませる有能な使い魔なのである。彼女が放課後になると僕の身体から離れるのは、この『業務』をやるためであるらしい。どうせ、後々記憶は共有できるのだし。
冷蔵庫を開くのは、白いTシャツに麦色のショートパンツの花梨。霊体と実体の状態の区別は簡単で、『身体が物理的干渉を行えるか』にある。冷蔵庫を開いているのは、言うまでもなく肉体に宿った花梨だ。
冷蔵庫を眺めながら、今日のおかずを何にするか吟味しているらしい。
確かに今日のおかずも大事だが、僕としてはもっと質問に答えてほしい。
僕が心を読めれば楽なんだが……。
〈あー、それはやめときなって言ったよね。確かに主従間でパスはつながってるよ? 悪魔が人の心を読む分には問題ないけど、人が悪魔の心を読もうとしたら最悪廃人になっちゃうから〉
分かってるよ。というか、この距離なら普通に喋れよ……。
〈食材に唾が飛んだら嫌じゃん〉
過去一まともな理由でびっくりしてるぜ僕は。
「え、いつもふざけてると思ってるの?」
「急にしゃべるなよ、びっくりした」
「食材が選び終わったから。今日はハンバーグにする」
花梨は手慣れた様子で調理器具を取り出していく。
「それで、どうかな、ご主人様。妹ちゃん救済計画は順調?」
「ココンに正式に協力は取り付けられたから……ここからだな」
「確かに、喫茶店で妹ちゃんの心はほぐせたかもしれないし、ココンちゃんが君の事情を知ってるのも心強いね。でも、それだけで彼女と妹ちゃんの友人関係が成立するのかな?」
それはその通りなんだよな。元来、警戒心の強い胡桃沢のことだ。これだけで攻略なるものか。
「警戒心が強いんじゃなくて、心に余裕がないだけだと思うけどね」
「心に余裕がない、ね……。どうしたもんか」
「君が妹ちゃんを抱けば一発だと思うけどね」
「アホか」
「あながち冗談でもないんだけどな。あの子は、人とのつながりを欲してるから」
「なのにココンを拒むのか?」
「裏切られるのが怖いのさ。繊細だよね」
「普通だと思うけどな。……少なくとも僕は、共感できるよ」
花梨は目を細める。
「君たちはよく似ているからね。……君たちは、良い風に言えば、愛情深い。だけど、悪く言えば、酷く飢えている。自分には何もないから、愛したものを手放そうとしないんだ」
……一度愛したからには、そりゃそうだろ。
絶対に放したくない。離れてほしくない。
だから、僕は胡桃沢を生かしたいんだ。
「……ちなみに、心に余裕がないのは君のせいだけどね」
「僕のせい?」
「そう。顔や態度から僅かに察することが出来ても、女の子は言葉にしてほしいものなの」
「……そんなことは、分かってるよ」
だけど、好意を伝えたら、胡桃沢が……。
「好意を伝える=死じゃないと思うけどな。君は臆病だね」
「そりゃそうだろ。胡桃沢が死ぬかもしれないのに、慎重じゃない訳がない」
「ふーん。たまには与えてやればいいのに」
「それで事態が好転するならな」
彼女は笑った。
「ふふ、それに関しては教えない。私が教えるのは最低限のメインクエストだけで、サブクエストまでは未対応だもの」
これが『仮契約』の難儀なところで、『本契約』にはあるらしい、使い魔に対する『命令権』がない。お陰で、この自由で奔放な悪魔に悩まされる毎日だ。
「たまには与える、ね……」
そういや、明日は日曜日だからデートか。
……今日は何の役にも立てなかった。
ココンに全部、任せきりでいいのか、僕は。
■7
待ち合わせ場所にいた胡桃沢の服装は、ふわりと空気をはらんで優雅に広がる、膝丈のフレアスカートだった。色は、ミルクティーのような優しいベージュ。トップスには、体にやさしくフィットする、オフホワイトの七分袖ニットを合わせている。ハイヒールも履いて、いつもより背丈が高い。高級感漂う白のハンドバッグも良い。
全体的に、大人びた印象を感じさせる。
はっきり言って、可愛すぎる。あり得ないくらい可愛すぎるが、いつもの僕なら、心を押し殺して、何も感想を告げないのである。事情を知らない人間からすればただのクズだ。
だが、僕は心に決めていた。開口一番に彼女に告げる。
「おはよう、胡桃沢。今日の服装は一段と可愛いな」
『可愛いな』と。しっかり、彼女の目を見て告げるのだ。
「……ぇ」
彼女は、その一言を告げただけで、リンゴのように顔を真っ赤にした。
「きっ、聞き間違い? ね、ねぇっ。……もう一回、言って?」
「可愛いよ」
「――ッ!」
彼女は口元を手で押さえ、しばらく感じ入る。
「どっ、どうしたの、アサギ。そんなこと、急に言ってさ……」
「いや、たまには素直に感想を伝えようってな」
「っ、す、素直に……? えっ、ねぇ。もしかして、前から思ってた?」
「ずっと前から思ってたよ」
「えっ。ええっ!?」
彼女は目を白黒させながら、純情な乙女みたいに慌てた。
「わっ、私もっ。ずっと前から言ってるけど、今日もカッコいいよ……アサギ」
上目づかいで告げてくる彼女に、もうノックアウトされそうだ。
罵倒作戦は使えない。今日、花梨は家に置いてきた。
僕は一人で、動じることなく胡桃沢に好意を伝え続ける!
第四回目のデートは、そんな最高な形で幕を開け――最後までその勢いを失わなかった。
水族館に向かった僕たちは、巨大なパノラマ水槽が広がる、海のメインホールとアクリルガラスから見れる色とりどりの魚に見入ったし、ジンベイザメに怯えた様子の彼女の肩を抱いて、見つめ合ったりもした。他にも彼女が目に留まったものをプレゼントとして贈ったり、綺麗な髪について褒めたり、さらに、終わり際に「今日は楽しかった」と伝える、その程度のことをした。
後に花梨に言われた――。
「新手のホストなの?」
「ちげぇよ」
胡桃沢に、心の余裕を作ってやる。
それが、僕にも出来る仕事だと思ったんだ。
与えられた愛に応えるということが、それならばお安い苦労だった。
「うんうん。成功だね。大成功。学校での妹ちゃんの様子を予言してあげよう。見ずともわかるから」
そして、花梨の予言通り――
「あっ、アサギ。きょ、今日は……褒めてくれないの?」
いじらしい胡桃沢がそこにいた。
僕は、今更引くわけにもいかなくて、褒めに褒めまくった。
「えへっ、えへっ、えへへっ……!」
そうすると、両頬を抑えてとろけた表情を作る胡桃沢が完成する。
花梨は、「たぶんホスト狂いの女ってこういう風にできるんだね」と冷徹に評価。
ココンは、「何やってんですかこのバカは」とでも言わんばかりにじっと僕を見つめていた。
その他にも変化があった。
文芸部の部室では、胡桃沢とココンの歓談が良く見られるようになった。
「加恋ちゃん。おすすめしたシェイクスピアのソネット見ました?」
「十八番と百十六番と百十八番だよね。見たよ。さすが詩人って感じ」
文芸部っぽい会話に無教養の僕はしばし口を噤む。
今やってきたばかりの僕には状況が分からない。
だが、おそらく、談笑しているらしかった。
ありふれた昼下がりだから、窓から陽光が差している。日に照らされた彼女たちは、優雅に昼食を取りながら笑顔で会話をしている。僕は目をこすった。魔法をかけられているのかと思った。少し遅れて彼女たちが僕に気づく。
「あ、アサギくん」「アサギっ!」
声が重なる。喜色を湛える彼女たちの笑みは、きっと僕だけが理由じゃない。それがたまらなく嬉しくって、僕は思わず泣きそうになったけれど、こらえた。
「おう」と片手を挙げて、元気に返事をした。
花梨曰く、胡桃沢は、恋敵としてココンのことを警戒していたそうだ。
そのことをココンに話すと――。
「はっ」
鼻で笑われた。
「実に陳腐ですね、恋だなんて。私たちはそんな無粋な関係じゃないでしょう?」
「そうだよな。僕がお前に物を奢る下僕関係だもんな」
「今のところジュース以外をせびったことはありませんが?」
「……僕のお財布事情に配慮してくれて助かるよ、女王様……」
『協力報酬』としてジュースを奢ることを強いられている僕は、休み時間の合間に自販機に連日赴く羽目になっていた。教室から近いのは中庭の自販機。懐に入れていた百円玉を二枚を入れる。奴は投入のタイミングを見計らっていた。
彼女はイチゴオレとサイダー、両方のボタンを同時に押す。結果、取り出し口からは連続する音は二つになった。ガコン、ガコン。
「あ。どっちが出るか試したかっただけなのにっ」
彼女は唖然として口を手で押さえた。
「片方は僕の分だよな?」
「え、どっちも私が飲みますけど。そもそも一本だけなんて言ってないですし」
屈む彼女は、投入口から飲み物を二本取り出してご満悦だった。
「なんてひどい奴なんだお前は。一本分けろよ」
「口を付けた後なら分けてあげますよ? たぶん途中で味に飽きるような気がします」
「間接キスは気にしないのか」
ココンは、「はっ」と嘲った。
「キスで照れるなんてお子ちゃまですねぇ」
「お前な……」
「冗談ですよ。ほら」
彼女は悪戯っぽく笑って、サイダーを僕の方に差し出してきた。
……素直に可愛いな、と思ってしまう僕を誰も咎められはしないだろう。
「私たち、似てると思うんです」
教室に戻る最中、彼女は口を開いた。
「どこら辺が?」
僕が尋ねると、彼女は微笑んだ。
「目的のために手段を選ばない、狡猾なところとか」
彼女は、本当に愉しそうに言った。
「一緒に加恋ちゃんを救済してあげましょうね、『共犯者』さんっ♡」
後ろ手にイチゴオレを持ちながら、彼女は魅力的に微笑んでいた。
胡桃沢の心に余裕が出来たことで、ココンを受け入れられるだけの度量が出来た。
僕のいないところでも、彼女は優しく笑うことが出来る。
「ゲームクリアも間近かもね」
冗談めかして花梨に言われる。
僕も正直な話、いい予感しかしなかった。その期待は裏切らなかった。僕たちは何事もなく三週間を過ごした。文芸部での日々は平穏に続いた。三人で笑い合う日常が、確かにあった。彼女を救うとは、これだけ簡単なことだったのかと、僕は微かに油断していた。
Chapter 2: The End