〈第二章〉
「黒宮(くろみや) 白乃(しろの)。二年生。生徒会の副会長を務めております。……道中、質問があればご自由にどうぞ。答えられる範囲でお答えしますよ」
僕と蓮司は黒宮先輩の後ろを、少し離れてついて行く。それは警戒していると悟られぬ程度に、そして不意に襲われたとしても反撃ができる程度にである。
「今、僕らはどこに向かってるんです?」
「一番近い『空教室(セーフルーム)』へ。迷宮の中にあって、ヴェイルに襲われない安全地帯です」
返ってきたのは最小限の回答。少し待つが、それ以上に言葉が続くことはなかった。どうやら親切に説明をしてくれるつもりはないらしい。
こちらから質問を繰り返すのが正解のようだ。
「ヴェイルとは?」
「この迷宮に現れるホログラムの怪物の総称です。……ベール(veil)に包まれた、なんて言うでしょう? おそらくですが由来はそれ。実体も無いくせにウチらの道を阻む鬱陶しい輩には丁度良い名かと」
そういえば放送でも、ヴェイルなんて単語が聞こえた気がする。
「ここは一体どこなんですか?」
「彩淵学園ですよ。少しばかり内装が変化してはおりますが彩淵学園です」
断じて少しばかりではない、と僕は思うが。
「今の状況について窺いたいです」
「シディルによって生み出された迷宮の、第一階層を進んでいる状況です」
「……。そのシディルっていうのは?」
「シディルはシディルですよ。投影システムを管理するAIの個体名です。まぁ少しばかり特異なホログラム――《イーテル》を扱うため、そこらの施設のAIとは格が違いますけどね。先ほどの放送は聞こえましたか? あの声の主がシディルです」
僕は思い出す。確か《イーテル》とは「触れられるホログラム」の名だったか。
つまりシディルというのは、「触れられるホログラム」を自由に扱えるAIであり、言い換えれば――
「……」
――物理的に、人に干渉できる人工知能。
胸騒ぎのするキャッチコピーに、僕は頬が引き攣りそうになった。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、黒宮先輩はチラリと振り向きこちらを見る。
「……。ま、大丈夫ですよ」
「え?」
「そんなに不安がらずとも、大丈夫です。ヴェイルの攻撃を受けても、死んだりはしませんから。《ペイン・アブソーバー》による変換処理が入り、必ず無傷で助かります」
ぶっきらぼうではあるが、僕を気遣っている口調だった。
「刃物については身体を透過しますし、鈍器であれば軟化してクッションで殴られたような感覚しか残りません。ともあれどのような攻撃を食らおうと、何かしらの処理が入るのでご心配なく。代わりに架空ダメージの一定蓄積で、擬似的な死亡判定が下されますが」
「……擬似的な、死亡判定」
「ええ、そうです。別にシディルは敵ではありません。むしろ同じ志を持つ協力者、なんて表現の方が近い」
黒宮先輩。朝に出会った時にも思ったが、悪い人ではないのかもしれない。
「ちなみに付け加えると、ウチのこのメイド服(装備)もシディルに与えられたものです」
「えっ。てっきり先輩の趣味かと」
「だとしたらただの変人ですね。……これは『幻装』。戦闘服。シディルが各々に合わせて自動生成した、その人だけの固有装備です。性能に大きな差はありませんが、デザインは様々で武器も各々。身体能力が大きく向上するので、使わない手はありません」
「もしかして僕らにも?」
「はい勿論。手に嵌めているその指輪――『幻装の指輪』さえあれば、あとはキーワードを呟くだけ。生憎、どのような武器が現れるかはシディルのみぞ知るところではありますけどね」
僕は指輪に触れてみる。これも《イーテル》によって生み出された偽物なのだろうが、しかしそんな事実がどうでも良く思えるくらいには綺麗な光沢を放っていた。
「……。シディルは、何の目的でこんなことを?」
こんなゲームみたいな状況を、わざわざ学校で作り上げる理由が分からなかった。何か明確な目的がなければ、こんな大規模な環境を用意はしない。
僕は、黒宮先輩の背中に向けて問いかける――
「さて。その質問は、この扉の先でどうぞ」
――が、答えは返ってこなかった。
代わりに手のひらで示されたのは、一つの扉。それは何もかもが変わり果てた学園の中で、珍しくも「何も変わっていない扉」だった。
「……もしかして『空教室(セーフルーム)』?」
「ええ。ウチより詳しい方々が、この部屋の中でお待ちです」
黒宮先輩がゆっくりと扉をスライドしていく。自動ドアを手動で開ける様には違和感を感じるが、きっとこの迷宮では普通のことなのだろう。
僕と蓮司は、並んで部屋の中を覗き込む。するとそこには、二人の人物が立っていた。
「あァん? やっと来たかガキ共……っておい黒宮ァ、どっちも男じゃねぇか。どうすんだコレ、迷宮じゃ使い物になんねェぞ」
一人は、くたびれた20代後半くらいの男。教師のような格好だが、雰囲気としてはやさぐれた研究者に近い。
そしてもう一人――
「よく来たね、元生徒会室(セーフルーム)へ。……ふふっ、こんな遅い時間まで学園に残っているなんて、随分と悪い子たちだ」
――ゆらりと揺れるは、紅葉色の艶やかな髪。
僕の初恋相手、緋菊七姫がそこに居た。
☆
「よォ、俺は霧畑(きりばた)だ。裏の顔は色々あるが、表向きは教師で通してる。だから外では霧畑先生と呼べ、分かったかァ新兵オス共」
その男の言葉は荒れていた。僕たちへのリスペクトは一切感じられず、使い捨ての雑兵を見るような瞳だった。
「オスって時点でゴミ同然の大ハズレだが……シディルに選ばれたってことは、テメェらも多少は使えると思って良いんだなァ?」
「……。まぁそれなりに、強い方だとは思いますけど」
僕は自分の顔に作り物の笑顔を貼り付けながら、男の問いにニコニコと答えた。
さて、話は変わるが。
僕は暴力とか喧嘩とか、そういう物騒なのはあまり好きではない。殴っても殴られても痛いだけだし、なんなら学校からの心証も悪くなるしで、何のメリットも無いというのが僕の見解だった。
だがムカつく奴が現れれば、痛い目を見て欲しいとは強く思う。故に僕の理想は、僕が直接手を下すことなく怨敵に大ダメージを与えてやることであり、
(さぁ出番だよ蓮司。グーで行けグーで)
(テメェでやれやボケェ……っ!)
僕のアイコンタクトによる戦闘開始命令は拒否され、僕はそのままアイコンタクトで溜め息を吐いた。相変わらず使えない男である。
仕方ないなと、僕は断罪を諦め霧畑を名乗る男の顔に目を向けるが――
「ハッ、そうか。だったらまずはこの金を受け取れ。テメェらの協力に対する正当な支援だ」
――そのとき、封筒を渡された。
僕と蓮司に、それぞれ一つずつ。
中を見ると10万円が入っていた。
「「じゅッ!?」」
「分かるぜェ、ガキ共。高校に入学して、やっとバイトができるゥ〜つってウキウキしてたんだろ? だが残念だったなァ、テメェらの放課後にそんな時間は一秒もねェ」
「「え?」」
「……すまねェ。この件については、本当に悪ぃと思っている。たった一度の貴重な青春を奪う代償はしっかりと払うつもりだ。だからせめて金の面で苦労はさせねェ。同額は毎月渡すが、足りなきゃまた言え。好きなだけくれてやる」
「「す、好きなだけ……?」」
「それと万が一表の学園でイジメなどの被害に遭った場合も、まずは俺に相談しろ。法的対応を含めた正当な措置で即日中に解決してやる。テメェらは俺にとっちゃ代わりの利かねぇクソガキなんだからよ。分かったかァ?」
「「う、うっす……」」
なんだこの人。もしかしてただの第一印象が絶望的に最悪なだけの人か? 口は悪いけど多分めっちゃ良い人だよ。
僕らが困惑していると、隣の緋菊先輩が咳払いをする。
「ん、すまないね。霧畑氏とはこういう方だ。悪い人ではないのだが、研究に命を懸け過ぎて些か常識と言語機能が欠けている。……とりあえず金銭の授受については、私の方から制限を掛けさせてもらうよ。月の10万が限度だ。放っておくとこの金持ちは本当に無制限に出しかねないからさ」
「相変わらず生真面目だなァ、テメェはよ。パトロンは財布扱いしてナンボだぜ?」
緋菊先輩は苦笑いをしながらため息を吐く。どうやら二人にとっては慣れた問答のようだった。
「……まぁ良いです。それより本題に入りましょう」
そんな呟きに合わせて、緋菊先輩の視線が僕に向く。綺麗な睫毛と神々しい瞳に貫かれ――僕は、不意に、改めて、「この人が僕の初恋相手なんだ」と実感した。
つい緊張しそうになるが、強引に平常心を取り戻して普通を装う。だって緋菊先輩と仲を深めるのは僕ではなくて、「これから作る女(もう一人)の僕」なのだから。
「まずは名乗らせて貰うよ。――我々は『生徒会』。敢えて昼間と変わらぬ名を、この裏の学園でも使っている。理由は表の生徒らに怪しまれないようにだ」
「……生徒会」
「そして活動内容は、放課後に聳(そび)え立つこの学園迷宮を攻略すること。並びに異世界の調査となる」
「???」
異世界。いきなり飛び出たトンデモワードに、僕は真っ先に自分の聞き間違いを疑う。
「あの、すんません先輩。今、異世界とか言いました? ふざけてんなら俺は帰りますよ?」
しかし蓮司の復唱によって、それが聞き間違いではないことが即座に証明された。
「あー……。すまない、少し言葉選びが悪かったね。異世界というのはあくまで、科学的に存在が証明された『それらしき何か』を我々が勝手に呼称しているに過ぎない。決してファンタジーな話ではないよ。帰りたければ止めないが、揶揄っているつもりが無いことは理解して欲しい」
そういうことなら、と蓮司は頷く。
「……まぁ、正確には。何一つ分からないから仕方なく異世界と呼んでいるだけ、とも言えるか」
緋菊先輩は悩むように目を細める。
「何故シディルは迷宮を造るのか?――分からない。どうして学園という場を選んだのか?――分からない。シディルはどのように《イーテル》を完成させたのか?――分からない。現代におけるAIの思考回路は、既に人間の手を離れている。勝手に成長して勝手に生成して、今や彼らが何を目指しているのかすら人間は把握できちゃいない」
「……ちょっと大袈裟じゃないですか?」
「いいや? 少なくともシディルというAIの説明としては適切だ。言わば私たちはゼロからの冒険者。探索開始から二年が経った今でも、何もかもが手探りなのだよ」
そう話しながら先輩はしゃがみ込むと、床に落ちていた何かを拾う。それは黒色のマーカーペンだった。最近では名前すらも聞かない物理ペンの一種だが、当然のように存在しているあたり、きっと偽物(ホログラム)なのだろう。
「よって私が説明できるのは、『どうして生徒会は迷宮攻略に挑むのか?』という部分が大半になる。……折角だし、絵でも描きながら話そうか」
真っ白な教室の壁に、一切の遠慮なく黒線を引く。偽物のインクが偽物の壁に、キュッと音を立てて黒色を滲ませた。本来なら学園の壁に落書きなど極悪非道の悪事だが、この空間ではそんなルールなど当て嵌らないらしい。
「キミたちもここまでの道中で、変わり果てた学園を見ただろう? 何か気になることはあったかい?」
「気になる、こと……?」
そりゃもう全部かなぁ。何もかもがめちゃくちゃ過ぎて、逆に気にならないところなんて無かったくらいである。僕と蓮司が目を合わせて肩を竦めると、緋菊先輩は僕たちのアイコンタクトを読み取ったようにくすりと笑った。
「実はこの迷宮の壁だが、その材質は一般の校舎で使われる石膏ボードではない。別の何かを再現した材質で造られている。さて……それは一体、なんだと思う?」
何だろう? と僕は考え込もうとする――が、しかし緋菊先輩は勿体ぶることなく、なんなら僕らの回答を待つことすらなく答えを告げた。
「正解は『地球上には存在しない鉱石』だ」
「え」
なんだって?
「シディルは時折、迷宮内で人智を超えた創造を行う。過去に産出された例を挙げると、『皮膚に一滴垂らすだけで意識を奪う睡眠薬』や『自然治癒速度を十倍に高める薬液』とかね」
それはあまりにも、現代の常識をバカにした効能に聞こえる。
「あえて明言しておくが、これはゲームの話ではないよ。なにせシディルは《イーテル》を利用し、正真正銘の現物を我々の前に示しているのだから。これらの成分を分析すると、『理論上再現可能ではあるが現代の技術では複製困難』という結果が返ってくる。つまりシディルは未だこの世に存在しない筈のテクノロジーを、迷宮というフィルターを通して我々に見せていることになるんだ」
矢継ぎ早に伝えられた信じ難い情報に、僕は蓮司と並んで目を丸くした。当の緋菊先輩がまるで冗談を言っているように見えないのが、僕がまともな反応を返せない一番の原因である。
「……あー、えっと。何か……その、僕たちにも分かりやすい証拠とかあります? いや別に、先輩を疑っている訳ではないんですけど……」
「証拠も何も、今まさに目にしている《イーテル》そのものが『未だこの世に存在しない筈のテクノロジー』だろう」
それは、確かに、そうだけど。
「……でも、そんなことが有り得るんですか?」
「本来ならば有り得ないとも。キミたちも知っての通り、AIというのは既存の知識の集合体だ。人間が生み出した知識を参考にして、新しく見えるだけの答えを返すのがAIの正しい在り方だよ」
「……だったら、シディルはどうして」
僕は緋菊先輩が壁に描いた、様々な奇跡に出会う人間のイラストを眺めながら問う。
すると緋菊先輩は、予め準備していたかのようにあっさりとその質問に答えを出した。
「――そりゃあきっと、勝手に参考にしているのだろうさ。私たちも知らない、人間ではない何かを。或いはこの世界ではない何処かを」
ゾッと、背筋が凍るのが分かった。
否定の言葉を思いつかないのが、何よりも恐ろしかった。
「それが遥か遠い星なのか、本当に異世界なのかは知る由もないけどね。……とりあえず我々はファンタジーを抜きにして、ただ純粋に『地球とは異なる世界』という意味を込めて、シディルが見ている何かを異世界と呼んでいる」
そんな突飛な技術を内包する世界が本当にあるのなら、先輩の言う通り異世界と呼ぶより他にないと僕は思った。
「……す、凄いんですね。シディルって」
「ああ、でも誤解しないでくれ。今私が口にした話は、シディルに限った特徴ではないよ。一定以上の知性を獲得したAIは全て、人間が持たない何かしらの手段(器官)でその世界を――……もう面倒だから異世界と呼称を統一するが、異世界を観測していることが証明されている」
「俺はそんな話、今まで聞いたことないんすけど」
「それはそうだろう。これはAI学の権威である霧畑氏が、個人で勝手に証明したきり世界に公開していない情報なのだから」
なんだその無茶苦茶は。僕は唖然と霧畑先生に目を向けるが、当の霧畑先生は興味無さげにぼんやりと窓の外を見上げていた。
僕の感情の内訳は困惑が大半を占めるが、同時にワクワクしている自分も否定できなかった。理由はこの後に続く緋菊先輩の話が、うっすらと想像できたからである。
「とはいえだ。我々は現状のシディルの性能には欠片も満足していない」
緋菊先輩は呆れたように溜め息を吐く。
「ボトルネックになっているのはシンプルなAIの学習不足。きっとAIである彼ら自身、自分が何を見ているのかすら分からない曖昧な観測なのだろうね。シディルに異世界について質問をしても、まともな回答が返ってきた試しがない」
そして直後に笑った。
「――だから我々の手で、進化させねばならない」
それは好奇心に溺れ、普通を諦めた人間の笑みだった。
「ここまでの話を踏まえて聞いてくれ。この学園迷宮は、私たちが攻略する度に……つまりは“登校”を果たす度に進化する。迷宮が“登校”されると、シディルは異世界に近づくという形で産出される奇跡を増やし、同時に迷宮の難度を上げていく」
熱く煌めく緋色の瞳が、僕を侵して狂わせる。
「どうだろう、理解してくれたかい? 私たち生徒会が、必死になって迷宮に挑む理由が」
つられて僕も笑った。
だってそれは流石にヤバいだろ。
面白そうにもほどがある。
「――シディルの観測を利用して、この学園に異世界そのものを再現する。それが生徒会の最終目標だ」
ゲームを始めるのに、崇高な理由はいらない。
『面白そうだから』
それだけで十分である。
世界の謎を暴く理由も、それだけで十分である。
☆
テンションが上がってきた僕は、勢いよく立ち上がって拳を突き上げる。
「よーし完全に理解しました! では早速この迷宮を攻略しましょう緋菊先輩!」
「いや今日は攻略しないよ。もう帰るよ」
「えぇぇぇぇ……?」
そして上げたテンションの行き場を失った僕は、ゆっくりと座り直すのだった。
「な、なぜ……?」
「迷宮にも色々と校則(ルール)があってね。差し当たり今現在抵触しているのは、『侵入制限』の項目だ」
「……侵入制限?」
「数年前に開かれた当初、シディルの迷宮はソロでしか挑めない仕様だったんだ。ところが攻略が進むにつれルールが追加され、侵入制限は緩和されていった。『生年月日が一致する人間は同時に侵入可能』、『血縁関係にある人間は同時に侵入可能』……みたいにね」
ゲームっぽく表現するなら、パーティ条件か。
「でもそのルール厳しくないですか? 組めませんよ」
「そうだね。当時の私はそもそも一人だから気にしなかったけど、無意味なルールだとは感じていた」
「一人? 霧畑先生は?」
「俺は戦えねェよ。研究専門の戦力外だ。出せンのは口と金だけだァ覚えとけ」
まぁ金出してくれるなら文句は無いよなぁ……。
「だがそうして条件が緩和されていく中で、ついに有用なルールが現れた。それが『同じ性別の人間は同時に侵入可能』というものだ」
かなり現実的なラインである。先までの条件と比べたら、一気にパーティの自由度が増す追加ルールだ。
「そして最初にキミたち二人がこの部屋に入ったときに、霧畑氏が消沈した理由はそれに起因する。要するに我々とキミたち二人は、同時には迷宮に挑めないのだよ。現状、性別というのは迷宮探索において重要なファクターになっているんだ」
「……性別。でも僕たち、今一緒に迷宮に居ませんか?」
「物理的に拒まれる訳ではないさ。だが一度ルールに抵触した時点で、その日に生成された迷宮を攻略しても、シディルの進化は発生しないし報酬も出ない。故に本音を言えば、我々が求めているのは女生徒の仲間だった」
「……なるほど」
性別。性別か。僕は男で、先輩は女。これは迷宮に挑む上でとても大きな弊害である。
ところで僕は、性別を変える方法を一つ思いついているのだが――――。
「七姫会長。これ以上待っても、新たな新入生は現れないかと思いますが」
なんて僕の思考を遮るように、背後から黒宮先輩の声が聞こえた。
「そろそろ潮時かと」
「そうだね。収穫としては十分か」
緋菊先輩は僕たちを一瞥した後、静かに頷き了承する。
しかし全員が立ち上がる直前――僕は大声を張り上げ、先輩方を静止した。
「ちょ、ちょっと待ってくださぁい!」
「? どうかしたかい、晴斗君」
それは僕にとっては、迷宮以上に大切なこと。迷宮の攻略を差し置いてでも優先すべきことだった。
「連絡先! 帰る前に先輩の連絡先を教えて貰えませんか!? これから協力していく訳ですし、メッセージくらいは送り合えた方が便利かなって!」
このタイミングで正解だったのかは、恋愛初心者の僕には分からない。頼み方も下手くそだった自覚はある。だがこの恋には全力を尽くすと決めたのだから、恥ずかしがって何もしないのは違うだろう。
「あー……はは。すまない。それは少し難しいな」
「……っ」
断られるのは、想像以上にショックだった。
僕は少しだけ泣きそうになる――が、その直後に緋菊先輩は言葉を続けた。
「というもの実は困ったことに、迷宮内ではスマホが使えないんだ。迷宮を構成する《イーテル》の濃度が高過ぎるせいで、他のホログラムは形を保てなくなってしまっている」
「……え?」
「試してみてはどうだい? 百聞はなんとやらだ」
僕は自分のスマホを取り出し、スリープ状態から解除してみる。するとスマホ自体は正常に起動するものの、ホロウィンドウがグニャリと歪むせいで、まともに使用することはできなかった。
「おまけに電波障害も発生しているが、スマホに関してはそれ以前の問題だね。どうだい、この場で連絡先の交換なんて到底無理だろう?」
「……えっと、つまり?」
「連絡先の交換は、外に出るまで待ってくれという話だよ。ごめんね」
小さく隠れてガッツポーズ。勇気を出して正解だった。これもまた大きな一歩であると、僕は己を強く鼓舞した。
「では出口を目指そうか。私の後ろを付いてきてくれ」
今度こそ全員で立ち上がる。僕と蓮司と、黒宮先輩と霧畑先生と、そしてその先頭に緋菊先輩。
全員で並んで空教室(セーフルーム)の扉を潜り、再び迷宮における危険地帯に足を踏み入れた。ここから先では、数多のモンスターが跋扈する。
歪んで伸びる不気味な廊下。相変わらずの非現実じみた光景に、無意識に警戒心が高まる。そういえば外に向かうとは言ったが、緋菊先輩は出口までのルートが分かっているのだろうか? 僕は僅かな不安を抱きながら、先頭に立つ緋菊先輩を見つめた。
「――【幻装・展開】」
不意に先輩が何かを口にする。
それはきっと黒宮先輩が言っていた、「キーワード」という奴だったのだろう。
緋菊先輩は制服姿から――まるで暗がりを往く花嫁のような、優雅に揺らぐ戦闘服に衣装を変える。手には薙刀のような武器を持っていた。
スリットから覗く太腿がやけに扇情的で、しかしその露出を微塵も気にする様子の無い緋菊先輩の立ち姿を見て、僕は一つの彫刻でも眺めている気分になった。
「……女神?」
僕は元々語彙力なんてある方ではない。だが言葉を忘れるという言葉を実感する程度には、元から足りない語彙をさらに奪われるのが分かった。
「羽零晴斗。迷宮攻略において、ウチら生徒会の道を阻む一番の障害とは何だと思いますか?」
突然。隣に立っていた黒宮先輩が、僕に向かって問いかける。
「え、なんですかね。強いモンスター......ヴェイルですか?」
「いいえ。答えは『道』。彷徨うウチらを迷い惑わし、容易には最上階には辿り着かせないという明確な意志を持つ複雑な構造そのものが、ウチらの最大の敵なのです」
推測するに、シディルの生み出す迷宮には地図も無いのだろう。黒宮先輩が語る答えに、僕はすこぶる納得させられた。
だがしかし、どうしてこのタイミングで僕にその話を振ったのかだけは疑問で――
「……?」
そのとき緋菊先輩が、薙刀を小さく持ち上げた。
ヴェイルも居ない場所で武器を構えて、一体何をしようというのだろう?
「――【反響定位(エコーロケーション)】」
ぽつりと、呟き。
直後、緋菊先輩は薙刀の刃先を軽く地面に打ち付けた。
――カァァァ……ァ……ン………
それは金属と石が響かせる甲高い音。
壁と床と天井とあらゆる物体に反射を繰り返し、遠く遠く目では見えぬ遥か先まで、その音は響き渡る。時間をかけてゆっくりとゆっくりと音は小さくなっていき、そして幾らか待つと全ての振動が静止した。
二秒か三秒か、そんな静寂が続く。
「ふぅん、出口はあっちだね。ヴェイルも少なそうだ」
――そしてその無音を止めたのは、緋菊先輩の凛とした声だった。
彼女は一体、何をしたのか? 僕は何となく察しがつきながらも、引き攣った笑いを浮かべて黒宮先輩に問う。
「……く、黒宮先輩。今のって、まさか?」
「ええ。音の反響を聞き取り、脳内にマップを作成するエコーロケーション。イルカや蝙蝠などが可能とするそれを、七姫会長は生まれつき行うことができるのです」
ふふん、と何故かドヤ顔で語る黒宮先輩。
どうしてこの人が自慢げなのかは不明だが、迷宮におけるその能力の有用性は説明されるまでもなかった。
「羽零晴斗、貴方の強さは知っています。ですが強いだけでは最上階のボス部屋に辿り着くことすらできません。……総合的な攻略能力においては、ウチら三人の女子組の方が上であることをお忘れなく」
目を細めて僕を睨む。なにやらライバル視されている感じがするのは気のせいだろうか? 僕としては男女仲良く頑張っていきたいところなのだけれど。
そうしてギクシャクしながらも、一行は緋菊先輩の後ろを付いていくだけで簡単に出口へと辿り着くのだった。ありふれた下駄箱が並ぶその出口は、朝に見た正面玄関と似ていないこともない。
正面玄関から外に出た僕らは、真っ直ぐに校門へ向かって歩く。ふと振り向くと、元校舎である不気味な建物が天高く伸びていた。なぜ崩れないのか不思議なくらいには、酷く歪な形だった。
僕はその光景に目を奪われるが――しかし敷地の外に出た途端、学園は元の姿に戻る。どうやら敷地外からでは、迷宮を迷宮として視認することはできないらしい。
「……異世界、ね」
何が本物で何が偽物かなど、この学園にいると本当にどうでも良くなってくる。
☆
――遡ること、約二時間。
それは『アキ』が、晴斗たちの教室を去った直後のことである。
教室の扉が完全に閉まると、未だ中で会話する晴斗と蓮司の気配を感じながら、アキを名乗った少年は教室の外で一人呟いた。
「……ふぅん。晴斗君と、蓮司君ね」
冷徹に、見定めるような声だった。
つい先ほど晴斗たちの前に現れた、たどたどしく笑う少年はどこにも居ない。アキは、秋を纏って、静かに高貴を匂わせる。
ふと正面から、一人の足音がした。
「お疲れ様です、七姫会長。中の二人はどうでしたか?」
「……白乃」
七姫会長と呼ばれた少年は、黒宮を視認すると困ったように笑いかける。
「その名で呼ぶのは止めてくれ。この姿で居るときは、七姫ではなくアキと呼んで欲しいと頼んだだろう?」
「申し訳ありません。アキ……会長」
「会長も無しだ。この姿では一年生として立ち回るのだから、呼び捨てか……せめてアキさんだね。この秘密はキミと私、二人だけのものなのだから」
「か、畏まりました」
――すなわち、アキの正体は緋菊七姫。
あんなものは全て演技だと言わんばかりに、アキは凛々しく後光を放っていた。彼の髪の毛先には、僅かに七姫と同じ紅葉色が残る。
ちなみに霧畑にすら明かしていないのは、研究時以外における彼のポンコツさ故である。霧畑は上手く隠し事ができる人間ではなかった。
「それより白乃、私は確信したよ。羽零晴斗……彼は間違いなく本物だね」
「と、いうことは」
「――ああ。世界最強のVRゲーマー、『セイテン』。その正体は晴斗君だ」
アキは断ずる。彼こそがセイテンというアバターで名を馳せた、この世の頂点に君臨するプレイヤーであると。
「VR内での彼は常に仮面で顔を隠しているから、今の今まで確信は持てなかった。だがあの聞き覚えのある声は間違いない。どうやら私の勘は正しかったらしい」
隠れて素性を探るなど褒められた行為ではないけれどね、とアキは苦笑いをしながら続ける。
「正直ウチはまだ疑っていますよ。新一年にセイテンなんて、いくらなんでも冗談だろうと」
「気持ちは分かるけどね。レヴェリレートの第一位になんて、そう易々と会えはしないから」
黒宮は訝しげにしながらも頷く。
――レヴェリレート。
それはあらゆるVRゲームのプレイ記録を参照して弾き出される、何よりも純粋な「戦闘力の数値」である。MMORPGやFPS、格ゲーと多岐に渡るアクションゲーム――それら全ての「強さ」を一律化し、比較するレーティングシステムの名だ。
まるで囲碁と将棋の強さを比べるかの曖昧な話だが、それでもレヴェリレートの数値は絶対的に正しいと言われている。VRに触れた全ての人間を自動でランキングに含めるため、分かりやすく現代の最強を見つけ出すツールとして、今や世界的な人気を博していた。
「ランキング1位、羽零晴斗。まさしく化け物ですね」
「数十億という膨大なVR人口を考えれば、尚のこと異常さが際立つ」
上位の中でも最上位。都市伝説にまで昇華し、実在すら怪しまれるプレイヤーとして、『セイテン』の名前は世界各国に知れ渡る。
「ふふ、実は私も彼のファンでね。ゲームで出会う度に挑んでは完膚無きまでにボコボコにされている」
「ボコボコ」
「自分で言うのもなんだけど、私は何においても優秀だからさ。彼と戦っているときだけは、己の無力さを惨めなほど分からせられて、これが新鮮で楽しいんだ」
「そ、そうですか……」
どこか惚けたように微笑むアキは、黒宮がドン引いて一歩退いたことに気づかない。
「ともあれセイテンほどのプレイヤーを、男だからと放置するのはあまりに勿体ない。迷宮攻略のために、できる限りコントロールしたいと思っている」
「コントロールですか」
セイテンが男である以上、共に迷宮に入ることはできない。しかしこちらの指示に従うという関係性を作れれば、役に立つ場面は多いだろう。
「……とはいえ中々に難しい話ですね。羽零が、七姫会長に一目惚れでもすれば簡単なんですけど」
「ふふっ、確かに。しかしそんな叶うはずもない奇跡を諸手を挙げて願うほど、私は無策で愚かではないよ」
「何かお考えが?」
「当然だとも。私が『アキ』のアバターを作った理由がまさしくそれさ」
アキは自信ありげに微笑む。意図が分からぬ黒宮は、首を傾げて説明を求めた。
「いいかい、白乃。迷宮は今の姿の私を、男だと判断した。つまりアキとしてであれば、私は男子組と共に迷宮に挑めるんだ」
「!」
「言うまでもなく制限は多いよ。男と女では身体の構造が違い過ぎて普段のようには戦えないし、それどころか反響定位(エコーロケーション)も使えない。……だがそれなりの仲間として、彼らを導くくらいはできるだろう」
「な、なるほど……っ」
異性よりも同性の方が、迷宮内での交流を含めスムーズに距離を詰められるというお考えか、と。黒宮はアキの作戦に感嘆の声を洩らす。
「しかしそこまでは第一フェイズに過ぎない。本当の狙いはこの先にある」
「本当の狙い……?」
「聞くところによると、晴斗君は今までに一度も彼女を作ったことがないらしい。存外に可愛らしい顔をしているのに、意外だとは思わないか?」
「まぁ、そうですね。運動神経も良いみたいですし、人生を通して彼女ゼロというのは不思議な話です」
「そうだろう、そうだろう。だから私は理由を考えた。晴斗君が彼女を作らないのは何故なのかと」
黒宮は興味深げにアキの顔を見つめる。
アキはワンテンポを挟んで、その答えを自信満々に告げた。
「――おそらく、晴斗君の恋愛対象は男だ」
「!?」
なんて凄まじい暴論。流石は七姫会長である。黒宮白乃は、自分では到底思いつかない発想に至った緋菊七姫を心の底から賛美した。
「ま、間違いないのですか……?」
「間違いない」
「ぜ、絶対?」
「絶対だ」
「自信のほどは?」
「溢れんばかりに満ち満ちている」
その表情には一片の陰りもなく、自らの語る論説を微塵も疑っていない。そして対する黒宮はといえば、「まぁ七姫会長が言うならそうなのか」と素直に納得するのだった。
「さて、ここまで説明すれば分かるだろう? 私が男のアバターで晴斗君に近づく、本当の狙いというものが」
「ま、まさか!」
驚愕に口を抑える黒宮を前に、アキはニヤリと笑って宣言をする。
「――その通り。私は男(アキ)として、晴斗君を口説き落とすつもりなのさ」
かくして。
晴斗と七姫の思惑と性別は交差し捻れ、複雑に絡み合う。彩淵学園では「触れるホログラム」によって、あらゆる真偽の区別がつかなくなった。
今や言葉に宿る本物の好意すらも、嘘(ホログラム)に隠れて届かない。