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やぁ“登校”に挑めニンゲン ~ゲーマー共は武器を片手に歪んだ校舎を踏破する~|MF文庫J発売前4タイトル特別試し読み!

2025/11/14

〈第一章〉


――恋の始まりは多種多様。
 タイミングはもちろん、場所すらも僕らには選べない。
 学校だったり、会社だったり、或いは仮想現実空間の中だったり。合コンで生まれる恋もあれば、VRゲームでモンスターと戦闘する最中に生まれる恋だってあるだろう。
 そして選べないとはつまり、そもそも恋が訪れないという可能性もある訳で――とまぁ不運にもその小さな可能性を引いてしまった僕は、高校入学を迎える今日この日まで、恋を知らずに人生を歩むのだった。
 言うまでもないが、僕とて女の子は好きだ。けれどそれはモテ期やらハーレムやら、いわゆる「男の夢」に興味を持てるほどではない。VRゲームに熱中する瞬間ほど、僕はその目標に向かって全力になれなかった。理由は未だに僕が恋というものを、我が身で体感できていないからなのだろう。
「ま、別に良いんだけどね」
 だって何も困らないから。
 知らなきゃ欲しいとも思わない。
 どうでもいい、どうでもいい、どうでもいい。
 僕は気の合う女の子と、友情を成立させて生きていく。
 友情以上を成立させられずに生きていく。
 僕にとっての恋とは、その程度の価値でしかなく――
「……ん?」
――ふと、甘い秋の匂いがした。
 今日は入学式という春の真っ只中なのに、それは紛れもなく秋だった。
「……誰だろう?」
 改めて思えば、おかしな疑問である。不意に口から溢れ出る問いが「誰だろう?」だなんて、どうして僕はこの心地よい甘い香りの元が人であると断定できたのか。
 なんとはなしに、振り向いた。
 するとそこには赤と黄色の調和した綺麗な髪色を揺らす、神々しい雰囲気を纏う女性が立っていた。制服の胸元に付けられた赤色のブローチを見て、三年生だとすぐに分かった。
「……っ?」
 この感情はなんだろう。まるで残りの人生全てを焼き焦がす、取り返しのつかない劇薬を飲んでしまったような感覚。死ぬまで一生辿り続ける、生涯の指針を見つけた感覚。
 あの紅葉色の先輩から目を離せない。女性をまじまじと見つめるなんて失礼だと分かりつつも、僕の瞳はピクリとも動かなかった。
「……どうした、僕。大丈夫か?」
 なんて自問するが、大丈夫な訳がない。
 顔が熱い。心臓がうるさい。瞬きができない。思考が染められる。
 改めて繰り返すが、大丈夫な訳がない。欠片も大丈夫ではないが、しかしこの症状についての知識だけは持っていた。
「――なるほど」
 僕は己を客観視して頷く。
 どうやら僕は――一目惚れ、という奴をしてしまったらしい。
 恋の始まりが多種多様であるとは知っていたが、まさか僕に訪れるのが「高校入学と同時の一目惚れ」とは。間違いなく、ぶっちぎりで新入生最速の春到来である。
 僕はてっきり、恋を知ればモテ期とかハーレムとかいう概念に興味を持てると思っていた。でも現実は逆だった。
「あの先輩とさえ仲良くなれるなら、誰にどう思われようと知ったこっちゃないや」
 欲しいのはたった一つの寵愛。
 ハーレムなんて眼中から消え失せた。
「あの人は、どんな男が好きなんだろう」
 好みの髪型は? 性格は? 声色は? 体格は?
 僕は先輩のことを、まだ何も知らない。つまりどんな風に自分を変えれば良いのかが分からないのだ。
 もし隻腕の人が好きだと言われたら片腕を切り落とさねばならないし、もし隻眼に憧れるようなら片目を抉り取らねばならない。
 何でもやろう。何でもできる。
 きっと何でもできるようになることを、人は恋に落ちると呼ぶのだろう。
 初めて僕が見つけた恋は、麻薬みたいな恋だった。
「うん、折角の初恋だしね。全力で頑張ろっと」
 そういうわけで。

 これは僕――羽零(はれい)晴斗(はれと)が、社会的地位とかアイデンティティとか性別とか、数多の大切なものを犠牲にしながら、憧れの先輩との距離を縮めていく物語である。

 ☆
 
 入学式が始まるまでの自由時間は、高校三年間の全てを決定付けるほどに重要である。
 なんたって周囲の人間のほとんどが互いに初対面という、今この瞬間にしかありえない貴重な状況だ。誰と会話をし、誰と仲を深め、どの立ち位置のグループに入るかの判断が、どれだけ高校生活に影響を与えるかなど説明するまでもない。失敗すれば下位カーストにぶち込まれ、イジメの対象になる可能性だってあるだろう。
 よって教室内には策謀が入り交じる。
誰が学年の中心になる? 擦り寄るべき人間は? 避けるべき相手は誰だ?
 そんな熾烈な頭脳戦が、教室のありとあらゆる場所で行われる中――
「おかしいな。校門で見た綺麗な先輩、どこいったんだろ?」
――僕は全てを放棄し、初恋の先輩を探し回っていた。
 高校デビュー? 新たな友達? なんだそれは。将来的に待ち受けるだろうイジメも無視も孤立も、今の僕のブレーキにはなり得なかった。
「っていうか、そもそも僕が歩いてるここは一体どこなんだ……?」
 しかし絶賛迷子中。未来の全友人を生贄に決めた恋のスタートダッシュだが、早くも無駄になりつつある。利便性を何も考えていない複雑な学内構造を見て、設計したバカをぶん殴りたい気分になった。
「……どうしよ」
 部活勧誘のホログラムポスターが、僕の視界の端でチラチラと動く。ただのホログラムなので物理的に邪魔な訳ではないけれど、気が散るのに違いはなかった。
「このまま闇雲に探しても時間の無駄かも」
 仕方ないので僕は、近くの先輩に助けを求めることに決めた。ふと目についた、眼鏡をかけた女の先輩に声を掛ける。彼女は投影型電子端末(スマホ)から出力されたホログラムウィンドウを、ぼんやりと暇そうに操作していた。
「あの、すみません先輩。少し聞きたいことがあるんですけどお時間大丈夫ですか?」
「……ん? ええ、ウチで良ければ。何かお困りですか?」
 返ってきたのは、とても穏やかな声。どうやら年下の僕を怖がらせないよう、優しく配慮をしてくれたようだ。
「実は僕、人探しをしてまして」
「人探し……? どうしてまたこんなタイミングに。一年生はもう入学式が始まる時間でしょう」
「いやまぁ、ちょっと色々と」
 実は一目惚れした先輩を探してまして、とは流石に言えない。僕は言葉を濁して会話を進める。
「赤い髪色の女性なんですけど、知ってます?」
「赤い髪ですか」
「はい。でも全部が赤ってわけじゃなくて……えと、毛先は黄色っぽくて、まるで紅葉みたい綺麗な髪の」
「ああ、分かりました。それは三年生の緋菊(ひぎく) 七姫(なき)会長ですね。間違いありません」
 緋菊七姫。
 僕は心の中で、その名前を復唱する。ついに知れた――というほど苦戦してもいないが、初めての恋が一歩前進したことに小さな感動を覚えた。
「緋菊先輩ってどんな人なんですか?」
「この学園の生徒会長ですよ。『天に全てを与えられた才女』なんて呼ばれている、この世の誰よりも麗しいお方です」
「ほう」
「類稀なる知性は勿論、武道の面でも薙刀と剣道を極めておられます。その格闘センス故に、VR界でも最強の一角として名を馳せているとか」
「ほう!」
「ちなみに好きなゲームジャンルはFPSです」
「ほほう!」
「あと好きなお菓子はお饅頭です」
「ほほほう!」
「それと恋人に求める性別は女です」
「ほほ――……ん?」
 それはちょっと不味いんじゃない?
 だって僕、男だし。

 ☆

 ついに入学式が始まるとのことで、僕らクラスメイト一同は体育館へと案内される。しかし中に入るとその場所は、「これ本当に体育館?」と首を傾げるような不思議な空間だった。
 真っ白な壁。真っ白な天井。碁盤のように均等に黒線だけが引かれた、これまた真っ白な床。見慣れたバスケットゴールなどは一つもなく、これでは体育館というよりもただの白色の直方体である。
『全ての新入生の入場を確認。これより入学式を開始します』
 ふと聞こえてくる、機械音声。女性にも男性にも思える奇妙な声色が奥のスピーカーから響いた。おそらくこの声の正体は彩淵学園の投影システム管理を任されたAIである。天下の彩淵学園を任させるAIともなると、一体どれほどのスペックを誇る個体なのかと気になるところではあるが、まぁこのタイミングで気にすることではあるまい。
 軽く周りを見渡すと、どのクラスの人間も緊張した面持ちで正面を見つめていた。
『入学式の司会進行は、全て「生徒会長」が行います。故に《シディル》の最上位権限が一時的に「生徒会長」へと移行し、同時に《イーテル》の機能は緋菊七姫の補助に利用されます』
 ……?
 何の話だろう。どうやら困惑しているのは僕だけではなく、辺りが少しざわつくのが分かった。
『緋菊七姫。前へ』
 だがそれはほんの一瞬のこと。
 僕が恋をした、紅葉色の生徒会長が姿を見せた途端――その場にいた全員が言葉を忘れ、再び静寂に包まれた。当然、僕も。緋菊七姫という名前が聞こえた瞬間から、必死に目を凝らしてその姿を探していた。
――トン、トン、トン、と。
 軽やかに階段を登る音が響く。
 僕たち新入生の前に置かれるのは、ステージ代わりの高さ三メートルくらいの白い台。彼女は制服を王衣のように揺らしながら、悠々と歩を進めた。
 そうして足音が止まると、一瞬の静寂が満ちる。
 見上げると“高貴”が、瞳孔を開いて笑っていた。
「――はて。キミたちの中で、一番強いのは誰だろう」
 常軌を逸して透き通る声。
 人の声を聞いて、宝石を連想したのは初めての経験だった。まるでルビー越しに、深紅の雪原を眺めるような感覚。気づけば僕はただ無心に彼女を見つめていた。
 間違いない。校門前で見たあの人だ。僕が恋した、あの紅葉髪の先輩だった。
「全員揃って表情が固いね。もう少し気を楽にしてくれると助かるのだけれど。そんなに不安そうな顔をしないで……ほら、笑ってごらん」
 そう言うと緋菊先輩は、自身の片頬を親指で持ち上げる。不意に覗いた鋭利な八重歯に、僕はブルっと身震いをした。
「あはは、別に萎縮して聞かねばならぬほどの話はしないよ。聞きたい者だけ聞けばいいし、興味のある者だけ顔を上げればいい。たとえこの場の全員が居眠りをしたところで、私の言葉は変わらないからさ」
 僕はごくりと唾を飲んだ。この場で居眠りする人間がいるとしたら、それは顔を水に沈めながら眠りにつけるようなマヌケだけだろう。
「とにかくまずは、皆を歓迎しよう。我らが彩淵学園へようこそ。この私――緋菊七姫は、キミ達の入学を心より祝福する」
 彼女の余裕ある微笑みに、何故だか僕は安堵する。流麗な所作の一つ一つが、僕の視線を吸い寄せた。
「さて。本来ならこれより、『入学式』なる手順を踏むべきなのだろうが……すまないね。今回は新入生の挨拶も、理事長からの有難いお言葉も何も無い。全ては私の一存で省略させて貰うことにした。無駄だから」
 再びザワめく体育館。しかし緋菊先輩は微塵も気にした様子はなく――むしろ暇そうに欠伸を噛み殺しながら、僕らが静まるのを待った。
「……続けよう。従ってこれより私が話すのは、この学園の知っておくべき特徴だ。今後諸君らが生活していく上で、何よりも重要となるだろう知識を伝えることにする。……という訳で、立ち話もなんだ。その椅子に座るといい」
――パチンっ。
 と、生徒会長が指を鳴らしたその瞬間。新入生全員の目の前に、椅子が現れた。
「……え?」
 いつの間にか、椅子があった。何も無い虚空から、いきなり椅子が出現した。幻覚でもなんでもない、ちゃんと触れる本物の椅子。目の前の光景が理解できなくて、僕は何度も同じ思考を繰り返す。一体何が起きた?
「ふふっ、期待通りのリアクションをありがとう。無意味に揶揄ったことは謝るが、まぁ早いか遅いかの違いでしかない。許してくれたまえ。とかく説明に入るが、キミたちが目にした技術の名は――《イーテル》。端的に言えば『触れるホログラム』だ。諸君らは今後、この《イーテル》と共に高校生活を過ごすことになる」
 触れるホログラム、だって?
「普通のホログラムには、キミらも馴染みがあるだろう? スマホでもポスターでも、身の回りにいくらでもあるはずだ」
 近くの生徒たちが小さく頷く気配を感じる。投影技術は僕たちの日常に馴染み、今の街並みを語る上で大きな要素の一つとなった。この数十年間、レンガもアスファルトも建物の見た目も何一つ変わりはしなかったが、実用的かつ装飾的に外観を補足する『ホログラム』だけは混ざり合うように深く根付いた。
 だがそれでも触れられるというのは、流石に鼻で笑うべき百年先のオカルト技術であり……とはいえ実際に見せられた以上、信じるしかないのだが。
「それら普通のホログラムと《イーテル》の大きな違いは二つだけ。まず一つは今言った通りに『触れられる』こと。そしてもう一つは――」
 緋菊七姫は不敵に微笑む。
「――『容易には本物と区別がつかない』こと。これが何を意味するかについては、各々でよく考えるといい」
 緋菊先輩の言葉に、僕はハッとする。だからもう一度、辺りを見渡すことにした。
 この体育館には初めから違和感があった。即ちあまりにも、デザインに拘りが無さすぎるのだ。高い金を用意して巨大な建物を作るのに、無装飾の白一色になんて普通はしない。どんな人間であれ、多少は実用的にしようと考える。
 だから、もしそこに理由があるとしたら――
「……まさか」
――この建物全てが、一瞬で生み出されたホログラムなのではないか?
 ふと緋菊先輩と目が合った。ような気がした。
 距離が遠すぎて勘違いかも分からないが、なんとなく僕を見ているように思えた。
「……さて、我々が諸君らに求めるものはとても多い。知力や体力は勿論、咄嗟の状況における判断力やその他諸々。刃物は使えるかい? 銃器は? 生き物を殺したことはあるかな?」
 いや待ってくれ、学校で刃物とか必要なくないか……?
 否、或いはこの彩淵学園はeスポーツの超名門校であるため、それを示唆しているだけという可能性もあるけれど。VRが浸透した現代において、VRゲームを極めるにはリアルでの身体技能も重要であるとされ――逆説的にリアルで評価される能力の一つとして、VR空間でのランキングが含められるようになった。故にこの彩淵学園を始め、eスポーツに力を入れていると謳う高校は今や珍しくない。
 それでも僕は緋菊先輩の語る文脈に若干の奇妙さを覚えるが、しかし周囲の新入生たちは特に気にせず受け入れていたので、そのまま聞き続けることに決めた。
「要するに。あらゆる経験がキミ達を救うが、同時にあらゆる未経験がキミ達を後悔の渦に招く。分かるだろう? すなわち知らないことは罪なのさ。……諸君らの過ごすこのゲーム(学園)ではね」
 どうにも芯をズラしたような説明が続き、僕はイマイチ要領を得ることができない。だが楽しそうに話す様子を見るに、あの生徒会長がワザとやっていることだけは分かった。
「とりあえず彩淵学園で生活する上で、知っておくべきルールを二つ教えよう。一つは放課後までには帰ること。そしてもう一つは、もし学園内で迷子になったら生徒会室を目指すこと。……ふふっ、私が外まで案内してあげるからさ」
 冗談めかして言っているが、この発言にも裏がある気がしてならない。果たして言葉通りに受け取って良いものか。
「まだ椅子に座っていない者はさっさと座りたまえ。飽き性な私のことだから、おそらく十分かそこらで話し飽きて帰る。そうしたらこの入学式っぽい何かは終わりだ」
 緋菊先輩は《イーテル》で自身の真横に玉座にも似た椅子を作り出すと、それに座って気怠そうに足を組んだ。そして僕らを見下ろしながら、楽しげに目を細める。
「――さぁ、有意義な十分間にしようじゃないか。質問があれば答えよう。自由に挙手をしてくれたまえ」

 ☆

 そして入学式を終え教室に戻った僕は、自分の目の前に置かれた「机」を軽く叩く。
 僕は静かに、緋菊先輩の説明を思い出していた。
「――触れるホログラム、ね」
 彩淵学園の技術部門が、独自で開発し運用するシステム。通称《イーテル》。
 僕の目の前に「机」なんてものは存在しない。あるのはただの、固形化された光だけだ。
 本物か、偽物か。実物か、ホログラムか。
 それらの判別はもはや目視では不可能で、なんなら触れたところで容易には分からない。叩いて響くほんの僅かな音の違いだけが、原始的に区別できる唯一の違いだった。
 僕は席から立ち上がり、辺りの物体を叩いて回る。机は偽物だったが、僕が座っていたこの金属製と思われる椅子はどうだろう……っと、あぁこれは本物なのか。どうやら極稀に本物も混ざっているらしい。
「この感じだと、外に生えてる桜も偽物だったのかな」
 風情もクソもない。舞い散る花弁の一枚まで投影する拘りには感服だが、どうにも拘り方を間違えている気がしてならなかった。
――《イーテル》
 入学式中の緋菊先輩の話によれば、かつてオカルト扱いされていた「サイコキネシス」を部分的に解明することで完成した超テクノロジー。不安定な要素が多く世界的な普及には程遠いが、この彩淵学園においてはありとあらゆる場所に利用されているのだとか。
「にしても、これは精巧すぎるな」
 机も、椅子も、桜も。この学園の生徒にとっては、本物だろうと偽物だろうとどうでもいいのだろう。なんたって特別違いはないのだから。
「……緋菊先輩はどうなんだろ。本物とか偽物とか、気にするタイプなのかな」
 愛を注げるのは本物に対してだけなのか?
 ホログラムで出来た偽物にも愛を抱けるのか?
――つまりは偽物(ホログラム)の女の子でも、気にせずに愛してくれるのか。
 僕は入学式の間、どうすれば緋菊先輩とお近づきになれるかを考えていた。朝に例の女先輩に聞いた話によると、緋菊先輩の恋愛対象は女性である。ならば男の僕の容姿では、どう足掻いても恋仲になるのは難しい。
「……やるしかないかー」
 男のままでは土俵に立つことすらできないならば、僕も女になるしかないだろう。
 恋愛という戦場の中で、自分を相手の好みに近づける努力をするのは当然のことだ。髪型を変えて、体格を変えて、性格を変えて、その延長線に「性別」があったとて、何も不思議ではあるまい。
 そしてその手段は、既に僕の手の中にあった。
「《イーテル》。この技術を使えば、本物と見分けのつかないホログラムの身体だって作れるはず」
 いわゆるアバター。一から作り上げることのできる、もう一つの肉体である。
 性別まで変えるとなると、身体を動かす上での違和感は拭えないだろうが仕方ない。数多の不利を被ってでも、女として振る舞うメリットは間違いなくあった。
――性転換して、憧れの先輩を口説く。
 正直、自分でも頭の悪い発想だなぁとは思う。

  ☆

「というわけで僕は女の子になることにしたんだけども」
「な、何を言うとんねん……。ホンマ急に怖いわオマエ」
 堂々と宣言する僕。と、そんな僕を見てドン引きする一人の男。入学式を終え閑散とした教室の中で、僕らは向かい合って椅子に座っていた。
 この関西弁の男の名は藤野(ふじの) 蓮司(れんじ)。中学からの付き合いとなる僕の悪友だ。中学時代は共に彼女なしの三年間を過ごした、モテない仲間の一人である。
 蓮司は高校入学に合わせてイメチェンを狙ったのか、髪が明るい茶色に変わりピアスをつけているが、しかし中身は僕と同類。どうせコイツは高校でもモテない。
「オマエのバカさは知っとったけどなぁ、ゆうて限度ってもんがあるやろ。デフォでおぞましいバカなんやから、せめてバカの振れ幅は抑えとけやバカ」
「一息でこんなにバカって言われたのは初めての経験だ……」
 蓮司の顔を引っぱたくかで迷うが、しかし今は早く話を進めたいのでグッと我慢した。
「ちゅうか《イーテル》で女の身体を作るって本気で言うてんのか?」
「本気だよ。軽く試したらVR空間でアバターを操作するのと同じ感覚で行けるっぽかった」
「可能かどうかちゃうわ、俺は『正気か?』聞いてんねん」
 どうだろう、自分でもよく分からないな。
 困難な恋を成就させるためとはいえ、自分でも手段を選んでいない自覚はある。
「……で、なんで俺にこんな話したんや」
「僕が女の子になりきる上で、客観的なアドバイスが欲しくてさ」
 僕は自分のポケットに入っている、「ある物」を握り締める。そして意を決し、それを取り出し蓮司に見せた。
「実はこれ、さっき学園の購買で買ってきたんだけど……」
「なんや?」
「女の子用の下着」
「なんで?」
 唖然とする蓮司。リアクションとしてはすこぶる正しいと思う。
「《イーテル》を使うとはいえ、女の子になりきるわけだからさ。実物も知っておくべきかなって」
「だからって学園の購買はヤバイやろ。んな場所で堂々と女物のパンツなんて買(こ)うたら――」
「うん。購買のおばちゃんなんてもう死ぬまで僕の顔忘れられないんじゃないかな」
「何がそこまでオマエを駆り立てる……?」
 覚悟だよ。緋菊先輩と親しくなるためならば、入学と同時に高校生活を終わらせたって構わないという覚悟がある。きっと今ごろ購買部では、僕に対するおぞましい渾名が発案されつつあるのだろうが、それすらも僕にとっては些事だった。
「……まぁ晴斗の奇行は今さらか。そんで、それを俺に見せてどんなアドバイス求めてん?」
「このパンツのデザインについて、蓮司の意見を聞きたくてさ」
「デザイン?」
「これを僕が履いた姿を想像して欲しいんだけど、似合うと思う?」
「知らねぇわ気色悪いぶっ殺すぞ」
 あまりにも辛辣。だが今の発言は流石にキモかったと僕自身も思うので、素直に謝ることにした。仕方なく下着の話は中止とし、「女の子に好かれる女の子とは」という議題で話し合う。蓮司の意見がどの程度参考になるかは分からないが、きっと僕一人で判断するよりは幾らかマシだろう。
「もし女の状態で告白が成功したらどうするんや? 男だってこと隠しながら付き合う訳にもいかんやろ」
「そりゃ成功したら正直に話すよ。『貴方の前では今後も常に女として過ごしますが、僕の正体は男です』ってね。だから内面を気に入って貰えるように頑張なきゃ」
「……難しい話やな」
「うん。だから女の子のフリをするとはいえ、距離感はあくまでも異性としてだね」
 僕は緋菊先輩の恋愛対象が女の子だから、女の子の容姿を選ぶだけなのだ。女の子の容姿をやましい目的に利用するつもりはない。良好な関係を築く上で、不純な悪事に一切のメリットがないことは明白である。
「ま、応援だけはしといたるわ」
「サンキュー」
 険しい恋路であることは分かってる。だがそれで諦めるほど僕の恋の炎は弱くなかった。どんな困難にも抗ってやるぞ、と僕は自分に気合いを入れるのだった。
――閑話休題。
「ところで話は変わるんだけどさ、蓮司」
「ああ?」
「時計見てよ。いつの間にかもう午後だよ。学園バスの最終便もとっくに出たし、僕ら以外に学園に残ってる人なんて誰も居ないんじゃない?」
 彩淵学園は超最新設備の揃うハイテク教育機関として有名だが、その立地は絶望的に悪く、窓から見える景色は見渡す限りの田んぼ道である。店と呼べる店は何一つ無く、最寄り駅(彩淵学園前駅)すらも徒歩二時間という圧倒的な孤島っぷりだった。
 故に学園保有の無料シャトルバスが『学園↔最寄り駅間』を15分おきに走っているのだが、いつの間にやらその最後の一本すらも出発してしまっていた。
「晴斗は別にええやろ。校門脇のむっちゃ近いアパート借りてんねんから」
「僕はね。蓮司はどうすんの? 二時間歩いて帰るの?」
「アホか晴斗の家に泊まるわ」
「了承した覚えがない……。まぁ良いけどさ」
 ちなみに彩淵学園前駅――通称『彩前駅』は都心レベルで発展しているため、ほぼ全ての生徒は彩前駅近くに建てられた学園保有マンションか、彩前駅に電車一本で向かえる駅付近に部屋を借りる。
 休みである日曜は学園シャトルバスが走っていないこともあり、その尋常でない日常生活の不便さから学園付近に住む生徒はほとんど居なかった。現に僕もまだ引っ越したばかりだが、既に後悔していたりする。
「ん?」
 そんなことを考えていると、不意にヴォンと音を立て教室の自動扉が開く。見ると一人の少年が立っていた。僕と蓮司は、キョトンとその少年を見つめる。先に口を開いたのは、その少年の方だった。
「……あっ! ご、ごめんなさい。まだ人が残ってるとは思わなくて」
 随分とオドオドとした雰囲気を放つ男の子である。容姿はかなり中性的で、気の強いお姉さん方に好かれそうな可愛らしい風貌だ。もし彼が女制服を身につけていたら、間違いなく女の子と勘違いしていただろう。僕はあまり会ったことのないタイプの同性に驚きながら、怯えさせないように落ち着いて返事をする。
「いやいや、気にしないで。僕らもここに用事がある訳じゃないからさ。邪魔だったら帰ろうか?」
「ち、ちちち違うんです! 校内を散歩していたら、偶然ドアが反応しちゃっただけというか……っ! ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
 散歩ということは、彼も僕らと同じ新入生か。校舎の構造を把握するために、校内を散策するのは何も不思議ではない。一年生の証である青い校章のブローチが襟元に見えて、間違いないと判断した。
「なぁ、アンタも一年か?」
「そ、そうです。今日使った教室はここじゃないんですけど、オレも新入生で……」
「へえ。したらここで会ったのもなんかの縁やし仲良くしよや。こっちもまだ知り合いほとんど居らんくてな。俺は藤野蓮司。蓮司でええで。アンタは?」
「オレは……えっと、アキです。友達にはそのままアキって呼ばれてます」
 唐突に始まる自己紹介。二人の視線が僕に向き、僕のターンが回ってきたことを理解する。僕は軽く咳払いをし、喉の調子を確認しつつ何を話すかを考えた。
 第一印象によって今後の関係性は大きく変わるのだから、やはり最初の挨拶は肝心だ。舐められるのは良くないし、威圧的なのも不適切。丁度いい気軽さを全面に推し出せれば完璧なのだが、果たして上手くいくだろうか?
 僕はキメ顔をして、ウインクを決め—―
「ちなみに隣のブサイクは晴斗や。遠慮せずにブサイクって呼んでええで」
「あ、よろしくお願いしますブサイクさん」
――ブサイクの称号を獲得した。
 おかしい、こんなハズではなかったのに。もうなんか怒るのも面倒なので、とりあえず羽零晴斗という自分のフルネームだけを告げて自己紹介フェイズを終了させた。
「それにしても、この学校って本当に広いよね。アキ君は全部回りきれた?」
「いえ、まだ全然です。それによく分からない施設もたくさんあって」
「よく分からない施設?」
「はい。『模擬狩猟室』とか」
「何それ……」
「オレにもさっぱりです」
 狩猟。学園の中で一体何を狩れと言うのだろう。リア充か? 狩れと言われれば迷いなく狩るが、学園側にリア充狩りを推奨されるのも不思議な話である。
「彩淵学園ってeスポーツで有名だから、もしかしたらそれ関連かな? ぶっちゃけ僕はスカウトメッセージが届いたから入学しただけで、そんなに詳しく学校のこと調べてないんだよね」
「同じく」
「オレは調べましたけど……でも、そんなに変わったことは書かれてませんでしたよ。ただ今思えば、HPに書かれていた『学園固有の技術を用いたeスポーツ教育』っていうのは《イーテル》のことだったのかもしれません」
 言うまでもなく「触れられるホログラム」なんて技術は、あらゆる場面で有用である。しかし緋菊先輩は《イーテル》がオカルト混じりである故の不安定さについても語っていた。世間に隠すとまではいかなくとも、過度に公にしない理由は何となく察せられた。
 ふと顔を上げると、アキ君と目が合う。何やら目が泳いでおり、僕に問いたいことがありそうな様子だった。
「どうかした? アキ君」
「……いや、あの。急に話が変わっちゃうんですけど。というかこれ、聞いて良いのかも分からないんですけど」
「ん?」
「……その女性用の下着、どうしたんです? どうして大事そうに握りしめてるんです?」
「あー、これね」
 アキ君の視線は一直線に、僕が握り締めている女物パンツへと向かっていた。
 そりゃまぁ気になるよな。初対面の相手が女の子のパンツ握ってたら怖いもん。犯罪臭しかしない。しかし微塵もやましさのない僕は、堂々とアキ君の質問に答えることにする。
「まずさ、勘違いしないで欲しいんだけど」
「はい」
「これは誰かの物を盗んだりしたわけではないんだ」
「あ、それは安心――」
「正真正銘、僕が僕のために買った僕のパンツだ」
「――できない。あまりにも何も弁明できてなくて逆にビックリしました」
 確かに。これじゃ自分が変態だと自白しただけだな。
 女の子のパンツ握り締めて声高に「これは僕のだ」って宣言してる男子高校生なんて、僕は僕以外に見たことがない。
「まぁそんなことどうでも良いじゃん。これから友達としてよろしくね、アキ君」
「……。……よろしく、お願いします」
 めちゃくちゃ嫌そうな顔をするアキ君の右手を強引に握り締め、友情の握手を強く交わした。絶対に逃がさねぇよ。僕らはもう一生友達だ。
「すまんなぁアキ、ウチのバカがブサイクな上に変態で。コイツは三拍子揃ったド底辺やが、傍目から見てる分にはオモロいから問題ない」
「なんて酷い言われようなんだ」
「やめてください蓮司さん。晴斗さんは別にブサイクではないと思います」
「え? もしかしてアキ君、僕の味方になってくれるの?」
「はい。晴斗さんは決してブサイクではないです。ブサイクの部分だけは全力で否定させてもらいます」
「あ、違う。これ間接的にバカと変態を肯定してるだけだ」
 ちくしょう、僕は変態なんかじゃないのに。なんたってこんなにも悲しい誤解を生んでしまうんだ。僕はホログラムの机に拳を叩きつけ、この世の理不尽を心から憂いた。
「……あっと、オレそろそろ帰らなきゃ。この後に用事があって。もっとお二人と話したい気持ちはあるんですけど、すみません」
「そうなの? 残念」
「晴斗さんたちも早めに帰った方が良いですよ」
「了解。じゃあねー」
 そしてアキ君は僕らと連絡先の交換だけして、そそくさと教室から去っていった。いやはや新たな出会いとは喜ばしいものである。これだから新しい春はワクワクするぜ。
 僕たちは再び二人きりになった空間で、いつものように無目的にダベリ続ける。そうして喋る話題もなくなり、この場でダラダラと過ごすのも飽きてきた頃――
「……なぁ、俺らもそろそろ帰らへんか? 入学式はとっくに終わったっちゅうのに、いつの間にかもう一時や」
「そうだね。僕も家で色々と準備しなきゃだし」
「準備って、女のアバターを作る準備か? 止めはせぇへんけど、周りに迷惑かけん程度にしときや」
「うん、気をつける」
 僕の奇行に寛容なのは蓮司の美点だ。ぶっちゃけ諦めているだけとも言えるが、ともかく決して僕の邪魔をせず、そこそこに協力してくれる蓮司の存在はありがたい。
 僕らが立ち上がり扉に近づくと、扉は自動でスライドして僕らの進む道を開ける。教室の扉を潜ると、生温い風が髪を揺らした。
「えっと、左だよね? 出口」
「せやで」
 廊下に出た僕らは、正面玄関の方へと歩く。
 この彩淵学園がいくら複雑な構造をしているとはいえ、出口の方向くらいは覚えている。だから新入生の僕らとて、外へのルートくらいで迷ったりはしない。
 と、思っていたのだが。
「「……?」」
――違和感。
 それは笑えるくらいに明白で、それでいて自分で否定したくなるほどバカバカしい変化だった。隣では蓮司も僕と同じように頬を引き攣らせている。
「なぁ晴斗。俺は今から、すげぇアホなこと言うけど許してくれるか?」
「もちろん。僕は心が広いんだ」
「ほな笑わんで聞けよ」
 ひと呼吸。
「――この廊下、こんな長かったか?」
「どうだろうね。少なくとも、終わりの見えない廊下を見るのは初めての経験だ」
 僕たちはあっはっは、と笑い合う。いや笑ってる場合じゃないけどね。一体何が起きてんだよマジで。つい数時間前に通ったときは普通の廊下だったのに、今やこの非現実的な有り様である。まさか僕らが教室でダベってる間に、大規模な改修工事を終えたとでも言うのか? 有り得ないだろ。
 しかし実際に目の前の廊下が延長されている以上、何かしら方法がある訳で。そしてその方法としてまず思い浮かぶのは――
「……もしかしてやけど《イーテル》か?」
「あ、ちょうど僕も同じこと考えてた」
 ホログラムなら、どんな構造物も一瞬だ。
 僕らは「触れられるホログラム」というオーバーテクノロジーの汎用性を舐めていたらしい。つまり体育館だけでなく、学園全てが初めからホログラムだったということだろう。
「だが目的が分からんな。廊下を作り替えて何になる? いや廊下以外にも色々変わってんやろが……とにかく、何か理由がなきゃこんな面倒なことはせん。現に俺らは校舎から出れへんで迷惑しとる訳やし」
 有り体に言えば、巨大な迷路にぶち込まれた気分。はてさて、どこをどう進めばいいのやら。軽く見えるだけでも曲がり角の数が凄まじく、窓の向こう側にも捻じ曲がった廊下が続いている。試しに別の教室の扉を開くと、そこにもまた新たな廊下が伸びていた。
「……どうする? マジで迷子やで」
「どうするって言われてもなぁ」
 そうして途方に暮れていると、
――キーンコーンカーンコーン。
 学校特有の鐘が鳴った。
「チャイム? なんでこんな時間に」
「つか音程狂ってへんか? ……気持ち悪ぃわ」
 いわゆる不協和音というアレだ。通常のチャイムに聞き慣れている分、不快感が耳に残る。僕は顔を歪ませながら、鐘の音を響かせるスピーカーに目を向けた。理由はないが、そのスピーカーからはまだ何か続けられるような気がしたのだ。
『――こちら、シディル』
 放送。無機質な機械音声。えらく不安を煽る低い声色に、僕らはピクリと身体を震わせる。
『迷宮の生成が完了しました。迷宮の生成が完了しました。“登校”の準備を開始してください。投影深度Lv.1。五階層構造。Quest発生――レグ・アレスタの討伐。制限時間は五時間。なお迷宮内では敵性体(ヴェイル)が出現するため、幻装の装着を推奨します。未着用での死亡にはご注意ください』
 続けざまに、意味不明な単語が淡々と並ぶ。僕はゲームに精通しているからなんとなく言いたいことは分かったけれど、校内で流すにはあまりにも異様な内容である。これから何が起きるというのだろう。
「……つまりどゆこと? 教えて蓮司」
「知らん。多分ピンチや。とりあえず武器になりそうなもん探せ」
「おっけー」
 何が何だか分からないが、何が起きてもおかしくないことだけは分かった。
 僕は先程まで居た教室に戻り、椅子の一つを地面に叩きつける。そしてその砕けたパーツの中から、特に大きく鋭利なものを二つ選んだ。あまりにも雑だが、武器としては機能するだろう。僕は拾ったパーツの片方を蓮司に手渡す。
「……なんで椅子選んだ?」
「ホログラムの物体は壊せるか分からないからさ。僕が本物だと把握してるのはこの椅子だけだった」
「なるほどな」
 蓮司は僕が渡した椅子のパーツを軽く振り回す。使い勝手は悪いだろうが、それでも素手よりはマシだろう。
 僕らは早速出口を目指し、先へと進むことにした――
「……ん?」
――のだが。
 廊下の先に、何か居る。
 それは人型ではあるが、どう見ても人ではない。茶色く汚れた肌に、天井に届きそうな巨体。手には僕の腰回りくらいの太い棍棒が握られており、豚のような鳴き声を響かせる。
「……僕、VRゲームでアイツと戦ったことあるんだけど」
――オーク。
 まず間違いなくホログラムなのだろうけど、もしあの生物が「触れるホログラム」によって生み出されているのだとしたら、その危険度は本物と変わらない。
 すなわち掴まれても殴られても、僕らは余裕で殺される。
「え? どうしよう」
「いや、どうするもこうするもねぇやろ……」
 無言で僕らは見つめ合う。どうやらこれ以上の議論は不要なようだ。巨大な図体を持つ怪物を目の前にしたら、選択肢なんて一つしかない。
「「よっしゃ逃げろ!」」
 僕と蓮司は並んでダッシュ。オークに背を向け、一目散に駆け出した。
「オラ走れ走れ走れぇぇぇ!」
「こんな状況で相手してられないっての!」
 逃げるが勝ちを地で行くスタイル。意地も誇りも投げ捨てて、死に物狂いで疾走開始。アニメや漫画の主人公は「逃げられない理由があるんだ!」とか言うけれど、僕らには知ったことではない。
 そりゃ逃げるよ。怖いもん。
 それにあのデカい図体を考えれば、オークでは僕らの速度にはついてこられまい――
『ブモオォォォォォオ!』
――と思ったのが甘かった。あのデブ、機敏に動けるタイプのデブだった。
「嘘でしょ!? なんでアイツあんなに足速いの!?」
「し、知らんわ! とにかく走れ!」
 僕も蓮司も身体能力にはかなりの自信があったのだが、オークはその自負を容易に砕き去る。徐々に詰められていく距離に、僕の額からは冷や汗が止まらなかった。
「ちくしょう……っ! 蓮司、頑張ってアイツ説得してきてよ! 蓮司ならたぶん気が合うと思うんだ!」
「はぁ!? 何が言いたい!」
「あのオークってば似合わないピアスつけてるからさ! 陰キャの癖に高校で陽キャデビュー狙ってる痛々しい蓮司とそっくり!」
「黙れテメェぶっ殺すぞ!?」
 蓮司は必死に走りながらも、器用に僕の胸倉を掴み上げる。しかしオークの棍棒が蓮司の襟足を掠めたことで、それどころではないとすぐに分かってくれた。
「くそぅ……ッ! ねぇ蓮司、逃げ切るのは無理だよ! コイツ倒そう!」
「正気か!?」
「心配しないで! 股間までなら拳が届く!」
「オマエ股間狙いでオーク倒すつもりなんか!?」
 僕と蓮司で一つずつ金玉を潰せば計二つ。流石のオークも立ち上がれまい。
「メスだったらどうすんねん!」
「た、確かに……!」
 その発想はなかった。股間を狙ってノーダメージだった場合、不味いのは僕らの方だ。間髪入れずにカウンターが返ってくるに違いない。
 となるとやはり、股間狙いはリスクが高いか。
「だが倒すしかねぇってのはその通りや……っ! おい晴斗! 俺がコイツの棍棒を捌くから、その隙にオマエが首をかっ斬ったれ!」
「りょ、了解!」
 椅子の破片なんてチャチな武器で、オークの首を落とせるのかという不安はあるが、やるしかあるまい。
「おっ、ラァ!!」
 振り下ろされた棍棒を、蓮司がギリギリで受け流す。すると棍棒が床にめり込み、床にヒビが入り――そして隙だらけのオークが僕の目の前に現れた。
――落ち着け、落ち着け。ゲームと何も変わらない。
 僕は荒い呼吸を押さえつけ、気合いで一歩を鋭く踏み出す。
 オークが振り下ろした棍棒を足場に、飛距離を確保。喉元までは十分届く。
「喰ら、え!!」
 跳躍と共に、すれ違い際の横薙ぎの一閃。僕の刃は、確かにオークの首を切り裂いた。
『ブヒャ、ブヒ……っ!』
 が、浅い。ゲームであれば千回繰り返しても千回成功するくらいに簡単な攻撃アクションだが、怪我への恐怖が僕の腕を鈍らせた。
――ミスった。もう一撃行こう。
 宙返りして、窓のレールに着地。反転。跳躍。オークが振り向くよりも速く、再びゼロ距離まで接近する。そして一度目の傷口に沿わせるように、背後から深く椅子の破片を突き刺した。
『……ッ!? ……ッ、ッ』
 それは今度こそ致命傷となり、オークは意識を失い倒れ伏すのだった。手放された棍棒が、音を立てて転がっていく。
 騒がしかった廊下は静まり返り、僕らはそれぞれ安堵の溜め息を吐いた。
「あっぶねぇ……。で、結局なんだったんやコイツ」
「さぁ?」
「こんな怪物が学園中におるんか?」
「かもね。勘弁して欲しいけど」
 ゲームであればこの程度の難易度チョロいものだが、現実となれば話は違う。たった一匹のオークを倒しただけでも、精神的な疲労は凄まじかった。何はともあれ、今後の動きを改めて考える必要はあるだろう。僕は進む先を相談すべく、蓮司に話しかけようと――
「へぇ。やるじゃないですか、新入生」
――突如、背後から女の声。
 僕らは驚き飛び上がり、慌てて後ろを振り向いた。
 するとそこには、一人の女性が立っていた。眼鏡をかけた黒髪の、見覚えのある相手。それは今朝、入学式の前に僕が話しかけた黒髪の先輩だった。
「ようこそ学園の裏側へ……と、別にそんなに驚かなくても。怖い先輩じゃないですよ」
 コスプレ、だろうか? その女の着る服装は、僕らの知る彩淵学園の制服とはかけ離れていた。まるでシックなメイド服に、ちょっとばかりの制服らしさを足して――そして戦闘仕様に改造したような。ついでに腰には鞭が掛けられている。
 パチ、パチ、パチ。
 それは退屈そうに拍手をする音。先輩は興味無さげに僕を見つめながら、ため息混じりに祝福を告げた。
「とりあえず、おめでとうございます。お二人はシディルに選ばれた。見初められ、選ばれて、深淵を彩る権利を得た。……自身の人差し指をご覧下さい。シディルに無断で嵌められた、その銀の指輪が証です」
 僕はキョトンとしたまま、自分の右手を見る。するとそこには、身に覚えのない指輪が嵌められていた。隣を見ると、蓮司もまた僕と同じく目を見開いていた。
「……選ばれた?」
「ええ、そうです。――だから今度は、貴方たちが選ぶ番」
「何をや」
「今日見た全てを見なかったことにして、他の何も知らぬ有象無象と同じように下校するか。それともウチらの仲間となって、この歪んだ世界に足を踏み入れ“登校”に挑むか」
 状況が理解しきれない。
 そもそも目の前の女は、本当に味方なのか?
「どちらでも構いませんよ? ウチはお二人の能力に、そこまで期待している訳でもありませんし」
 疑問は尽きない。だが少なくとも、彼女が僕たちより現状に詳しいことだけは確実だった。
 僕と蓮司は顔を見合わせ、小さく頷く。全貌の見えない迷宮を彷徨うよりは、この女に従った方が安全だろう。だから僕たちは「仲間になります」と、明るく朗らかに告げた。
 裏切るかどうかは、詳しい話を聞いてから決めればいい。

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