第8話 ヨモツミハシラ②
橙史さんは近くにあったデジタル表示の卓上時計を持ち上げ、こう告げた。
「ひとまず二時間、橘人に授業していただけないでしょうか?」
「はあ……」
僕の戸惑いを無視して、橙史さんは卓上時計のアラームを二時間にセットする。
「橘人の部屋に入った時点から二時間をカウントしましょう」
そう言いながら卓上時計を渡してきた。
僕が受け取ったのを確認して、橙史さんは立ち上がる。応接室を出て、そのまま橘人の部屋まで連れて行かれた。
「では二時間後に。橘人の反応を見て、継続かお断りかを決めます」
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「悪いけど、俺はアンタから何も教わる気ないから」
尾張谷橘人はベッドに寝転がったまま、スマートフォンから目を逸らさずに僕にそう宣言した。
橘人はオレンジ色の長髪が特徴的な少年だった。染めているのかと思ったが、室内に飾ってある写真を見る限りこの髪色は生まれつきのもののようだった。
「でも僕は君に何かを教えて、お金を貰うためにここに来たんだ」
見た感じ、僕よりも華奢だが決して弱そうには見えない。力でもってベッドから引きずり下ろすのは得策ではなさそうだった。
「だったら二時間、自分のスマホいじってたら? そこのソファでも好きに使ったらいいよ」
橘人は僕の顔も見ずにソファを指差す。橘人の部屋は広く、調度品も豪華だ。大学生でもこんな部屋に住んでいる者は稀だろう。
「でもその通りにしたら、君はそれを理由に僕をクビにできるじゃないか」
「解ってるんだ。でもクビでも二時間過ごして4万円なら得だろ?」
橘人はさも絶対の正解のように言う。そう言われると被せたくなるではないか。
「それより提案がある。本当に何もしなくていいなら、給料の半分を君に渡すよ。そして君はお父さんに『いい先生だからこれからもお願いしたい』と言う……どうかな?」
「……そんな提案してきた家庭教師、アンタが初めてだよ」
橘人はベッドから身体を起こし、あぐらをかいて僕の方に向き直った。
改めて見ると綺麗な顔立ちをしている。教師の受けはともかく、学校では人気者だろう。
だけど……どういうわけか幸せそうには見えない。
「人生が懸かってるからね。それぐらいは言うよ」
コミュニケーション弱者の筈の僕からそんな言葉が出てきて自分でも驚いた。相手が歳下で、同じ属性の人間だと思ったからかもしれない。
橘人は眼球を大きく動かす。僕を観察しようと必死なのかもしれない。
「……そりゃそうか。誰だって金は欲しいもんな」
解りやすい理由を見つけて、どこか安堵したような気配の橘人に僕は反論する。
「人生って言ったのには、君の人生だって含まれてるよ。家庭教師だからね」
視線の揺れで、橘人が微かに動揺したのが解った。でも動揺しているのは僕も同じだった。
だって僕が人の心を揺さぶる言葉を吐けるなんて思ってもみなかったからだ。そんなことができていたら、あんな孤独の中で暮らしていない。
もしかすると僕はひとりぼっちでいた期間が長すぎて、他人の孤独度合いが読めるようになったのかもしれない。
あるいは孤独の辛さが解る者に、自分がかけてほしかった言葉をかけてしまっただけかも。
とはいえ他人との距離感を測るのは難しいのに、こんな才能に開眼したところで困るのだけど。
「でも何もしないで2万円は貰いすぎだろ?」
立ち直った橘人は試すような表情で笑っているが、底にはまだ僕への侮りがある気がした。
「否定はできないね」
「じゃあテストだ。いくらまで俺に渡せるか……」
「断るよ」
これが何の意味もない提案というのは明らかだった。
橙史さんが橘人に充分なお小遣いを与えているのはこの部屋を見ただけで解る。わざわざ家庭教師から給料を剥がす必要なんてない。
だからきっとこれは試し行為だ。歳上の人間が金の力の前にどこまでプライドを捨てるのか、確認したいだけだろう。
「なんだよその態度。どうせアンタも金のためにここに来てるんだろ?」
ただ、橘人は自分の提案を勢いよく蹴られたことに腹を立てているようだった。
「そうだね。今の僕はお金が切実に必要だ」
「だったら……俺に土下座してでも頼めよ!」
「お金は使うものだ。でも僕はお金に遣われたくない。お金のために何でもするようになったら終わりだと思ってる」
「なんだと?」
橘人はベッドから飛び降りるなり、僕の胸ぐらを掴んだ。瞬間、足が床から浮いた。この華奢な身体のどこにそんな膂力があるのだろうか。
あるいは僕への怒りが力を引き出しているのか。何か地雷を踏んでしまったのかもしれない。
「僕の話はまだ途中だぞ」
どうせ殴られるなら、全て言い切ってからだ。
「プライドを売っていくら大金を得たって、屈辱の記憶までは癒やせないんだ。だから僕は買い戻せないものまで売るつもりはない」
深村さんに頭を下げてこの仕事を貰った僕に言えた筋合いはないかもしれない……いや、だからこそ僕の経験は若者に教える意味がある。
「そうか……」
橘人が舌打ちをして手を離した。自分が大人げないことをしたと思っている様子だが、まだ気まずそうだ。
「……なあ、アンタは俺に何を教えてくれるんだ?」
そう言われて悩む。僕が教えられること……いや、僕にしか教えられないことはなんだろう?
程なく答えが見つかった。
「……孤独」
「え?」
「もしくは孤独との戦い方」
説明不足だから付け加えたつもりだったのが、まだ足りなかったようだ。
僕は格好付けるのをやめ、率直に説明することにした。
「人間はひとりぼっちでも案外死なないって話ならできるよ」
なんとなく解る。橘人は誰かに助けを求めるのが下手な人間だ。だからせめて僕のようにならないように教えられることは教えておきたい。
たとえ彼との縁がこの二時間で終わったとしても、だ。
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「おかしいだろ! なんでそこで全財産を賽銭箱に突っ込めるんだよ?」
橘人が僕に質問を始めて二時間弱が過ぎていた。
「上手く言えないんだけど……『これは他の誰にもできないだろう』と思った瞬間、収支なんて頭から飛んだんだ」
改めて訊かれると、自分でも解っていなかった当時の心理を考えるきっかけになる。そういう意味では僕にとっても意義のある時間だった。
「だいたいさ、そんなことして困るの自分だろ?」
「ああ、実際とっても困ったよ。だけど全財産を擲った瞬間や、損を補填しようと思いながら必死になってた時間は……本当に充実していたんだ」
「充実?」
「うん。僕は今、ようやく自分の人生を生きている感じがする」
そういう意味では大学四回生まで死んでたのかもしれない。本当に長い助走だった。
「きっと君にだってできるよ」
僕がそう水を向けると、橘人から強く睨まれた。
「……他人事だと思いやがって」
また人を怒らせた。
終了のホイッスル間際に僕の悪いところが出たようだ。このままではお試しで終わってしまう。
僕は必死に言葉を探しながら喋る。
「僕は家庭教師の素人だ。教えるのも上手くはないし、大学生のお手本としては失格だ。でも君に向かって二時間も偉そうに喋れたのは……他人事なんかじゃないからだ」
取り繕いながら、辻褄を合わせるつもりだったのに……僕は思いがけず自分の本音に辿り着いた。
「……未来ある君に、僕と同じ失敗をしてほしくないからなんだよ」
「嘘だ……そんなわけが」
橘人は口を何度も動かしかけた。何か反論を被せようとしているのに、言葉が見つからないという様子だ。
やがて諦めたのか、橘人は不安そうに言う。
「でも怖いだろ……何の保証もない場所へ飛び出すなんて……」
不良かと思ったが、根っこはお坊ちゃんなのかもしれない。
「ああ、怖い思いだってしたよ」
あ、これは単に「オカルト的怖い仕事をした」という意味で言ったんだけど、それは橘人の求めている答えではなさそうだ。
そんなことを考える余裕が出てきたのも、未来ある少年相手の仕事だからだろうか。
僕は喋りながら、また軌道修正の言葉を探す。口下手の自認があった人間とは思えない臨機応変さだ。
「でも『最悪、死んでもいい』って気持ちがあれば、案外何でもできるもんさ」
「そうか……アンタが他の連中と違って、俺に強く出られた理由が解ったよ」
生憎僕にはその理由が解らなかったが、黙って答えを待つ。まあ、生徒の気づきを尊重するのも教師の役目だ。
「『俺に殺されてもいい』って思ってる奴にシャバい脅しなんか無駄だったんだな」
おお、なるほど……そこまでは思っていなかったけど、なんだか格好いい。
橘人の顔にもう険はない。自分を懐柔しようとする大人への警戒心が解けたのだろうか。
ほどなく僕らの間に沈黙が流れる。
アラームが鳴ってくれたら、この沈黙も終わるのに……。
僕はこの空気に耐えきれず、余計な付け足しをしてしまう。
「まあ……死にたくないから仕事を探してるんだけどね。死ぬの怖いし」
「どっちなんだよ!」
橘人は最初怒ったようにそう言って……すぐに堪えきれないという様子で、大声で笑い始めた。
「アハハハハ、なんなんだよアンタ……」
笑いながら僕を睨む姿は歳相応の少年という感じだった。
「理由つけて追い返すつもりだったのに、まんまとハメられた」
自分でも発見があった。
僕は人と上手く喋れないと思っていたが、こうやって訊ねられる分には比較的よく喋れるらしい。
やがて笑い止んだ橘人は急に神妙な表情になる。そしておずおずと口を開いた。
「あのさ……訊きたいことがあるんだけど」
「何?」
橘人が必死に言葉を選んでいるのが解った。人間が言葉を選ぶのは誤解されたくない時だ。
「死んだ人間って蘇ると思う?」
答える間もなく、アラームがピピピッと鳴った。どうやら約束の二時間を乗り切ったらしい。
「時間だ。今日はここまでだね」
「えー!」
気持ちの上では延長してあげたいが、対人コミュニケーションでいつ地雷を踏むか解らないのが僕という人間だ。せめて今日は勝ち逃げさせてもらう。
「終わったようですな」
橙史さんが入ってくる。まるで部屋の外で待っていたかのようなタイミングだ。
「橘人、どうだ?」
橘人は少し迷っていたようだったが、やがて不承不承という様子で答えた。
「……いいよ」
「おお……」
橙史さんの口からそんな感嘆がこぼれた。
「じゃあ、父さんは神田さんと次回のことについて話し合うからな。神田さん、行きましょうか」
橙史さんに促され、僕は部屋を出ようとする。
するとドア近くの壁に橘人と、彼によく似た印象の少女が並んで写っている写真が飾られていた。オレンジ色の髪に白い肌……親戚か縁者だろうか。
おっと。写真に気を取られて忘れてたけど、別れの挨拶がまだだった。
「じゃあね橘人」
僕がそう言うと、橘人は二時間前の態度が嘘のようにフランクな挨拶を返してくれた。
「……センセ、またよろしくな」
不思議なことに、橘人をもう生徒として受け入れていた自分がいた。報酬があっての関係とはいえ、誰かの人生に良い影響を与え続けないといけない緊張感もひとりぼっちだった僕にとっては甘美だった。
……ああ、危ない危ない。この感じがマズいから、家庭教師や個別指導を避けてたんだ。
かつての僕の見立ての正確さに冷や汗を流しながら、僕は橙史さんと廊下に出た。
「橘人が心を開くとは……深村堂さんにお願いしてよかった」
橙史さんがしみじみとそう話すのを見て、僕は何かいいことをした気分になった。実際は訊かれるがままに自分の身の上話をしていただけにせよ。
「試用期間は終わりということでいいですか?」
「ええ」
安定収入が確定したことに思わず笑いそうになったが、続く言葉で真顔にならざるをえなかった。
「……第一関門は合格です」
まだ試されるというのか。いや、時給2万円の仕事なら当然か。
「神田さん、ちょっとお時間ありますかな?」
この仕事を続ける以上、僕に選択権はない。
「ええ、大丈夫ですよ」
だがこれから何が待っているというのだろう。
固唾を呑んで答えを待つ僕に、橙史さんはこう告げた。
「ヨモツミハシラを見ていただきたくて」