第7話 ヨモツミハシラ①
三月に入ったが一向に良いバイトが見つかる気配はない。
終わりのない求職活動に疲れた僕は自室の畳の上に寝転がる。
どうにか月末に家賃や更新料を払えるだけの目処は立っているが、本当にそれぐらいしか好材料がない。
時間を浪費する前に、深村さんに頭を下げた方が良さそうだ。
そんなわけで僕は起き上がって深村堂へ向かった。
「祟、ええバイト見つかった?」
きっと解ってて訊いてるんだ。この人は。
「見つからないので、また単発の仕事を紹介していただこうかと」
「でも生憎、今すぐ紹介できる仕事はないなあ」
そう言われてあっさり引き下がるわけにはいかない。
「もう少し報酬下がってもいいので、定期的にやれる仕事ってありませんか?」
深村さんは僕の顔をじっと見る。
「そんなに仕事欲しかったら個別指導教室に登録したらええやんか。三月は申し込みも多いから生活費ぐらいは稼げるやろ」
「だから……こないだも言いましたけど僕に何かを教える資格なんてないんですよ」
「でも"釣り"をやるにはうってつけの季節やで」
「……釣りってなんですか?」
深村さんはニヤッと笑うと、「お茶淹れたるわ」と言いながら立ち上がる。どうやら長居しても構わないらしい。僕は帳場の近くに腰を下ろしてお茶を待った。
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「個別指導のバイトをやろと思ったらまずどうする?」
僕は湯飲みの熱を手に感じながら考える。
「……自分にとって良さそうな教室を探して、登録しますかね」
面接に通りさえすれば、だが。
「そうやな。そうしたら教室に個別指導を申し込んできた生徒に希望条件に合う教師を割り当てる……営業が苦手な祟でも仕事にありつけるってわけや」
「まあ、いつか生徒か保護者を怒らせて終わりな気もしますが」
そう言って僕はお茶を飲む。普通の番茶だとは思うが悪くない。
「でも時給1500円とか2000円なら我慢できへん?」
「以前なら我慢できたと思います。今は解りません」
少なくとも「一晩で10万円の仕事」を紹介してきた深村さんにそう訊かれるのは何か変だ。深村さんもそれが解っているのか、苦笑している。
「いらん脱線したな。いや、具体的なバイト代の話せえへんと伝わらんから。でな……生徒の保護者が教室に払っているお金と、教師が貰うお金はイコールじゃないことは解るな?」
僕は肯く。
「その仲介料……どのくらいやと思う?」
「3割……とかですかね?」
深村さんは首を横に振る。
「もっと取る……4割とか、場合によっては半分持っていくところもあるんと違うかな?」
つい搾取という単語が頭をよぎる。
「かなり持っていくんですね……」
家賃や学費にあえいでる身からすると、随分な抜かれ方に見える。
「でも現実にはハコの家賃や管理費もあるし、事務をする人たちの給料もいる。個別指導のチェーンやったら、そのブランドを信じて申し込んでくる親御さんもおるやろし……言うほどボロくはないやろな」
そう説明されると搾取という言葉は呑み込むしかない。
「……適正な仲介料だって解ってはいるんですが、どうしても自分の労働を値切られた感が強いですね」
「だから釣りをする連中が出てくるってわけや」
やっと話が釣りに戻ってきた。
「個別指導に申し込むようなご家庭も本当にピンキリなんや。中にはもっとええ塾や家庭教師に頼めるのに『近いから』『なんとなく』のところもある……で、そういうええところの子が来るまでじっと待つ……これが釣り」
「でも裕福な家庭の子が来たって教師の報酬は変わりませんよね?」
「そのまま続ける分にはな」
「あっ……」
その言い方でようやく解った。むしろなんで今まで気づかなかったのか。
「そう。個別指導の教室という仲介者がおるから儲からへんのやったら、直接契約したらええって発想や。とても優秀な先生やったり、子供が滅茶苦茶懐いてる先生やったら親御さんの方にも囲い込むメリットはあるしな。特別なボーナス貰えたり、他のきょうだいの家庭教師の仕事が回ってきたり……特典は様々や」
なんだろう。聞けば合理的なのに嫌悪感があった。
「まあ、個別指導に登録したからって教師の方から生徒を指名はそうそうできへんし、ええ生徒を引けたところで信頼を勝ち取るのは大変やろうけどな」
故に釣りか……確かに誰にでもできることではない。
「そんなこともあるんで、大抵の個別指導教室では直接契約は御法度や。バレたら良くてクビ、悪いとブラックリスト入りや。だからこの世界で長くやっていこう思ってる奴はそんなことはせえへん」
「提案して貰って申し訳ありませんが、僕には我慢できないと思います」
「そう? 祟やったら我慢できそうな気したんやけどな」
「そりゃ、お金は欲しいですよ。でもお金が欲しいからって信念を曲げて何でもするようになると、お金との主従が逆転してしまうというか……文字通り、お金の奴隷にされてしまいそうで厭なんですよね」
「なるほどなあ」
深村さんはどこか冷ややかな目で僕を眺めているような気がする。その理由が解らなくて、僕は焦った。
「もしかしたら何かマズいこと言いました?」
「……んー、合格!」
「はあ?」
「ほら、とりあえずお茶飲み」
深村さんはそう言って僕の湯飲みにお茶を注いだ。
「実は丁度ええ感じの仕事が来とったんやけど、先方からの申し送り事項に『人品卑しからぬ者』ってのがあってな。そこだけ確認したかったんや」
「じゃあ、釣りから今までの話は僕への試験だったんですか?」
世間話のつもりだったのに。油断も隙もない。
「これまで二回成功させてきたのもあって、個人的に祟のことは信用してるけど、念のためにな。でも晴れて合格やから胸張ってええで」
そう言われても素直には喜べない。
「で、その仕事ってのが来月高二になる男子への家庭教師なんやけど」
そういう流れか。
「……人に何かを教える仕事はやりたくないって言いましたよね?」
「時給はなんと5千円やで」
思いがけない高報酬に声が出そうになったが、すぐに冷静になる。
「あら、やらへんの?」
家庭教師をやったことない僕にだって相場観はある。
学生のバイトとしては破格だが、時給が5千円超える仕事には大きな責任が伴う。教える範囲の予習をしたり、宿題の採点をしたりで時間外労働も多く、効率は案外悪いと言われている。引き受けるかどうかは微妙なラインだ。
僕が黙っていると、深村さんは悪戯っぽい顔でこんなことを言った。
「あ、5千円ってのは嘘やった。1万円やね」
ぐっ……。
それだと話は少し違ってくる。時給1万円の家庭教師なんてそうそうない。仮に一回二時間の授業とそのために別途数時間かけたとしてもペイしてしまう。
「でも時給1万円だろうが僕にそんな資格は……」
「ごめん。見間違えとった。時給2万円やったわ」
ぐぐっ……。
流石に1万円と2万円は見間違えないだろう……完全に僕を弄んでいる。しかし時給2万円の家庭教師は見逃せない。
「先方はレギュラーを希望している。可能ならとりあえず週二、一回二時間か三時間ぐらいの希望やって」
頭の中で電卓を叩くまでもない。そんな仕事が決まれば家賃や生活費どころか、無理だと諦めていた五年目の学費の支払いまで視野に入ってくる。
それどころか就職活動の資金まで得られるかもしれない……。
と、そこまで思って気づく。過去の自分が睨んでいることに。
「自分に何かを教える資格はない」
「お金が欲しいからって信念を曲げて何でもするようになると、お金との主従が逆転してしまう」
僕はついさっき吐いたばかりの言葉たちとどう折り合いを付ければいいのだろうか。
「で、どうするん? 家庭教師はまだ苦手?」
深村さんは僕の葛藤を見抜いたようなことを言う。さっきの冷ややかな目はこの展開を見通していたのかもしれない。
だとしたらこの人、とんでもないドSだ。今の僕に断れるわけないではないか。
「……この仕事、僕にやらせて下さい」
深村さんは屈辱に塗れた僕の姿を満足そうに見て、こう言った。
「どうやら祟もお笑いってもんが解ってきたようやな」
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指定された東山区S町は清水寺へのルートとしても有名な産寧坂を途中で曲がって数分のところだった。
寺社仏閣だけでなく霊園もある地域というのもあって、物見遊山で歩くような気にはなれない。
ネットで調べたら有名なミステリー作家たちの豪邸があるらしい。住みたいかどうかはさておき、住みたくても簡単には住めない一角なのは雰囲気でも解る。
住所を眺めながら更に歩くこと数分、ようやく尾張谷おわりやという表札のかかった家を見つける。白い漆喰の塀は補修の跡が継ぎはぎで、真新しい部分と古びた部分が縫い合わされていた。
良く言えば歴史がある、悪く言えば年季の入った邸宅だったが、東山の森を背負っているのもあって妙な迫力があった。
呼び鈴を押すと、すぐに年配の男性が姿を現した。
「神田さんですね。主人の尾張谷橙史とうじと申します」
背筋が真っ直ぐで声は小さいがよく通る。
「どうぞ中へ」
通された応接室は物が多いせいか、なんだか妙に狭く感じられた。
古い時計、木彫りの熊、トナカイの頭部の剥製……一つ一つを取ってみればそう悪くはないのだが、どれも捨てられないから無理に置いている感が凄い。
そんな不躾なことを思いながら待っていると、橙史さんが紅茶を運んできた。家は広そうに見えたが、使用人とかは特にいないらしい。
僕は失礼にならない程度に紅茶に口をつけ、橙史さんの話を待つ。
「神田さん、先にお話しておくことがあります」
来た!
僕はカップを置いて、一言も聞き逃すまいと構える。
「これがただの家庭教師の仕事ではないことは承知しておりますね?」
「ええ。時給2万円の仕事をただの学生に頼むわけですからね。覚悟はしています」
「欲を言えば息子に教えてほしいことはいくらでもありますが……私があなたに望むのはただ一点、息子の心のケアをしてほしいのです」
思いがけない方向の申し出だった。
「心のケア……ですか」
間の抜けたオウム返ししか思いつかなかった。
「去年から色々あって、息子は人間不信になりかかってます」
「それで色々というのは?」
「色々です。ただ、現段階で全てを話しするわけにはいきません」
左様ですか。
「解りました。ただ、どんな人たちが息子さんの指導に失敗したのかのかだけは教えてもらえませんか?」
困って僕なんかに登板を許した以上、失敗した挑戦者たちがいた筈だ。
「……それならば話せます」
僕の読みは当たっていたようだ。そして橙史さんは近くの写真立てをつまみ上げて僕に見せる。
「これが息子の橘人です」
中学生の頃の写真だろうか。いかにも華奢で、顔立ちも女の子みたいだ。
「亡くなった家内似でしてね」
橙史さんは言い訳めいたことを言うと、写真立てを近くに置く。
「最初は二十半ばの、真面目そうな女性を選びました。理性的な大人である彼女が橘人を上手くコントロールしてくれることを期待したのですが……案に反して、彼女の方が橘人に夢中になってしまったのでクビにしました」
思わず写真の少年を見る。確かに整った顔立ちだとは思ったが、十歳も歳上の女性が狂うほどの美貌に育っているのか。
「次に三十前後のプロの家庭教師を選びました。浮いた噂のないしっかりとした男性でした。ですが、彼も橘人に執心し始めたのでクビにしました。正確には橘人に迫って、病院送りにされたのですが」
「病院送り?」
もう情報量が多い。
「橘人は華奢に見えますが、意外と膂力はあります。怒らせないようにして下さい」
ひとまず橘人がとても繊細で、時に暴力も辞さない少年なのは解った。
「その後はどんな人を?」
「以降、堅物と呼ばれる者をあてがいました。橘人に執心することはなかったのですが、彼らの語るモラルは橘人の心に響かない……何人かは説教を嫌った橘人に力尽くで退散させられました」
それで"人品卑しからぬ"僕にお鉢が回ってきたというわけか。
「だとすると……僕は彼らと違うアプローチをする必要がありますね」
「ええ。橘人はヨモツミハシラに必要な人間なんです……尾張谷家を存続させるためにも、どうにか優しく繋ぎ止めて下さい」
「ヨモツミハシラ……なんだか雅な響きですね」
橙史さんはハッとした表情でこちらを見た。口を滑らせてしまったようだ。
「ヨモツミハシラについては深村堂さんにも他言無用ですぞ」
言葉こそ柔らかかったが、明らかにドスが効いていた。思わず橙史さんの表情をうかがってみたが、目がまったく笑っていない。
そうだ、時給2万円の家庭教師だ。普通の仕事の筈がないではないか。
それでも思わず訊いてしまう。
「ヨモツミハシラってなんですか?」
「あの世とこの世を繋ぐ場所……とだけ言っておきましょう」
そして橙史さんの言葉を聞きながら、僕は今更のように気づく。
どうして思いつかなかったのだろう。
都合の良い家を釣る教師がいるなら……都合の良い教師を釣る家だって存在するに決まっているではないか。