第9話 ヨモツミハシラ③
「我が家の庭を案内しましょう」
そう言って橙史さんは僕を玄関から外に連れ出した。てっきり小奇麗な庭園を見せてくれるのかと思いきや、橙史さんは僕を家の裏の森まで連れて行き、山道に導き入れたのだ。
「こちらです、神田さん。足元が悪くなりますのでお気をつけください」
僕は曖昧に肯く。こうなるとちょっとしたハイキングだ。
歩き進む内に徐々に空気が変わっていく。風が木々の葉を揺らす音と、僕たちが落ち葉を踏む乾いた音だけが静かに響く。
「ここは?」
間が持たなさすぎて、思わず訊いてしまった。
「東山の森です。厳密には我が家の私有地というわけではないのですが、定期的に手入れをする代わりに裏庭として使わせて貰っているわけです」
僕たちはさらに森の奥深くへと進んでいく。幸い一本道だからはぐれても帰れそうだが、決して真夜中に歩きたい場所ではない。
「東山というのは死と密接な土地でしてね。霊園もありますが、そもそも清水寺の南は鳥辺野ですからね」
鳥辺野は京都の三大風葬地の一つで、要は広大な死体捨て場だ。
そもそも昔の庶民はまともな墓に入れなかった。亡くなれば鳥辺野に放り出され、鳥や獣が肉を啄み、雨風が骨を晒すに任せる。この一帯は文字通り、人の死で埋め尽くされていたらしい。
もちろん今の鳥辺野にそんな面影はほとんどない。レンタル着物で着飾った観光客が自撮り棒を片手に坂道を上り下りし、インスタ映えする看板がこれみよがしに並んでいる。冷静に考えてみればかなり罰当たりだ。
数分ほど歩いただろうか。橙史さんはぽっかりと木々が途切れた場所で足を止めた。
森の中にある開けた場所に、黒い木造の楼閣が天を衝くようにそびえ立っていた。三階建てほどの高さだろうか。その黒々とした姿は周囲の自然から切り離されたかのように異様な存在感を放っている。
「……これは……」
「黄泉御柱ヨモツミハシラ……我々はそう呼んでいます」
橙史さんは厳かな口調で告げる。
「黄泉とはつまりあの世。ここは死者の国と現世を繋ぐ柱です。あの世へ行ってしまった人間もこの建物でなら再び現世へ呼び戻すことができる。そう言い伝えられているのですよ」
先ほど橘人から投げかけられたフレーズが浮かび、つい口にしてしまう。
「それは死んだ人間が蘇る……ということですか?」
「そう解釈して下さって構いません」
今、解ったことがある。
まともそうな大人の口から非常識なことを断言されると……とても怖い。
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「家庭教師はひとまず続投やって? おめでとう」
十日ぶりに深村堂を訪ねた僕を深村さんは労ってくれた。
あれから尾張谷家には四度呼ばれて授業をした。
橘人の学校がちょうど期末テストの時期というのもあって、適度に指導しつつ橘人の質問攻めに応じていたら2時間経つ……という感じだった。
時給2万円に相応しい仕事ぶりかどうかはともかく、橘人とは仲良くなれた気がした。生徒というか、歳の離れた弟みたいな感じだ。
「でもどうもまだ試用期間という感じなんですよね」
「ええやん。たとえ半月でクビになっても、結構な儲けになるやろ」
「それなんですけど……」
今日はクビにならないための情報収集に来たのだ。
「深村さん、ヨモツミハシラって知ってます?」
橙史さんには口外するなと言われたが、この訊き方ならギリギリ許されるだろう。僕がわざわざ深村堂まで報告に来たのも、あの不気味な建物の正体を知りたかったからだ。
しかし深村さんの反応は予想外だった。
「なんやそれ?」
深村さんにとぼけている感じはない。多分、本当に知らないのだと思う。
「ウチが知らん単語が祟の口から出てくるとは思わんかったな」
「あの、忘れて下さい!」
万が一、深村さんの口からヨモツミハシラという言葉が橙史さんに伝わったら僕はクビだ。
「ヨモツなんとかは知らんけど……そうだ、四方田大観っておじいさん見んかった?」
「いえ……」
だが四方田大観という名前には聞き覚えがあった。
「四方田大観って……京都の重鎮と言われた政治家ですよね?」
「意外やね。知ってたんや」
僕が子供の頃から京都の選挙区を守っていた筈だ。政治家としてもかなりキャラが立っていてテレビでよく見たものだが、清濁併せ呑むタイプとしても有名だった。
「政界を引退したのも知ってますが……確か七十歳は過ぎてたでしょう。その四方田大観が尾張谷家とどんな関係が?」
「出資者らしいわ。尾張谷さんとこも最近は事業が傾いて、四方田さん抜きではどうにもならんいうて……最近は家に出入りしてるって噂も聞いたから、もしかしたらってね」
四方田大観とは尾張谷家で家庭教師を続けていればいずれ遭遇する可能性はある。
人の家に出資できるぐらいだから相当私腹も肥やしていたのだろうか。そういった感情を顔に出さない自信もない。ただ、四方田大観の機嫌を損ねたらクビは間違いないだろう。
ヨモツミハシラは空振りだったけど、他に知りたいことがあったんだった。
「そうだ。あと尾張谷家には女の子もいますよね?」
尾張谷家に飾られた写真に橘人と並んで写っている子……最初はその内に家の中で顔を合わせるだろうと思っていたのだが、一向に見かけない。
まあ、橙史さんか橘人に直接訊けば早いのだが、男の家庭教師が他人様の家の女性のことを不躾に探るわけにはいかない。
「女の子? 今、おったかなあ?」
深村さんは訝しげに僕の顔を見る。
「写真でしか見てないんですけど、橘人をまるで女の子にしたような……」
深村さんはその説明で得心が行ったようだった。
「そりゃ、檸香やな。橘人の双子の姉や」
双子! 道理で似ているわけだ。
しかし橘人は雑談で双子の姉がいることを一切話さなかった。橘人に心を開いて貰ってると思っていたのは僕の勘違いかもしれない。
あるいは仲が悪いのかもしれない。高校生ともなれば難しい年頃だろうし。
「家庭教師を今後も続けるなら彼女ともいつか会いそうなので、どう接するべきか情報が欲しいんですけど……」
しかし深村さんはかぶりを振る。
「そんなこと別に心配せんでええよ」
「いや、でも僕ですから。ましてや年頃の女の子なんですから、無策で話したら絶対に嫌われますよ」
深村さんは深いため息を吐いた。そしてたっぷり三十秒ぐらい溜めて、こう言った。
「檸香、もうおらんねん。去年事故で亡くなったから」
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深村堂への訪問の翌日、僕は尾張谷家に呼び出された。
てっきりいつも通りの夕方からと思ったら、指定されたのは19時過ぎだった。高い報酬を貰うから時間変更には応じるが、三月の京都はまだ寒く、この時間でも真っ暗だ。
それなりに遅くなりそうだし、帰り道はかなり怖いかもしれない。
そんなことを思いながら尾張谷家に行くと玄関の前で橙史さんと橘人が僕を待ち構えていた。
理由は不明だが二人とも提灯を持っていた。これから祭りでもあるのだろうか。
「……こんばんは」
期末テストは終わってしまったし、今日は何を教えようかと思いながら口にした挨拶だったが、返ってきたのは思いがけない言葉だった。
「ああ……今日は家庭教師は結構です」
それでいて橙史さんは申し訳なさそうでもないからもう解らない。せめてヒントが欲しくて隣に立っている橘人を見るが、無表情でそっぽを向いていた。
橘人はいつもの高校生らしい私服とは打って変わって、ゆったりとした和装で、手には提灯を持っていた。なんだか妖しい雰囲気の陰陽師見習いとかに見えてくる。
橘人は初対面の時よりも更に声をかけづらい雰囲気を纏っていた。何をどう訊いても耳を貸してくれなさそうというか……こうなると距離が縮まったというのも僕の錯覚のような気さえしてくる。
「では今日の仕事は?」
橙史さんは一瞬、隣の橘人に視線を向け、それからゆっくりと告げる。
「橘人をヨモツミハシラまで連れていって下さい」
柔らかいのに有無を言わせない口調。断ったら大変なことになることだけは解った。
「あの森の奥まで、僕がですか?」
「一本道ですから大丈夫ですよ。照明だってありますし」
そう言って橙史さんは提灯を掲げる。
「はあ……」
「見張りも必要ですからね。何かあったら外から扉を押さえなければならない場面もあるかもしれませんし」
見張り? 扉を押さえつける?
僕からの質問攻めの気配を察したのか、橙史さんは制するようにこう言った。
「申し送り事項は道中、橘人が説明しますので」
橙史さんは僕の手に提灯を押しつけるように渡した。
ヨモツミハシラに橘人を連れて行くのに僕が必要なのか?
家庭教師というのはただの名目だったのか?
死んだ人間が蘇るというのが本当なのか?
この場で問い質したいことは山ほどあったが、僕が提灯を受け取るのを見てとった橘人は裏の森の方へ歩き出す。
橙史さんの前では言いづらいこともあるだろうし、二人きりならまた心を開いてくれるかもしれない。
仕方ない。
僕は大人しく橘人についていくことにした。
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僕たちは暗い山道を進んでいった。
橘人は僕のすぐ隣を衣擦れの音も立てずに静かに歩いている。だから風の音と足音、そして名も知らない鳥の寂しげな鳴き声がよく聞こえた。
提灯をぶら下げて東山の森の中を歩くなんて……なんだか現実離れしている気がする。憧れたフィクションの中の話みたいだ。
ふと隣の様子を窺う。
闇の中、頼りない橙色の光に照らし出された橘人の姿は同性の僕の目にも解るほど美しかった。線の細い中性的な顔立ち。白磁のように滑らかな肌。そして全てを諦めたかのような瞳。
これから待っていることが橘人にとってはあまり愉快なものではないということだけは解った。なんとなく橘人が幸せそうに見えなかった理由もこの辺にあるのかもしれない。
突然、橘人が口を開いた。
「ごめんな。センセを巻き込んでしまった」
その口調は心底申し訳なさそうだった。
「いや、でも家庭教師の延長だから……」
「……親父の悪いところ、全部出てた。あいつ、自分にできへんことを上から誰かに押しつけるんだ。そんなんだから人望も貫目もないし、商売も失敗する」
橘人は吐き捨てるように言う。
ここは立場上、「お父さんのことをそんな悪く言うもんじゃないよ」と窘めるべきなのだろうが、それが不正解な気がする。
二人きりなんだ。今だけは橘人の孤独に寄り添ってあげたい。だけどどんな言葉をかけるのが正解か解らないまま、僕たちは道を歩き続けた。
このままではヨモツミハシラに着いてしまう。何か話しかけなければと思っていたら、突然橘人が口を開いた。
「なあ、センセ。今から言うことは絶対厳守な」
ああ、橙史さんが言っていた申し送り事項を説明してくれるのか。
「今はいいけど、ヨモツミハシラに着いたら勝手に振り向くなよ」
「どういうこと?」
「……おっと、もう着いちゃったか」
橘人の視線の先を見ると、ヨモツミハシラが夜の闇の中にそびえ立っていた。
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月の光に照らされたヨモツミハシラは日中に見た時よりもさらに巨大で禍々しく見えた。まるでこの世とあの世を繋ぐ巨大な黒い柱そのものだった。
僕たちがヨモツミハシラの入り口の前で足を止めると、橘人は僕の方に向き直った。提灯の光が彼の白い顔を下から照らす。
「俺がこの中に入ったら、センセはここに座って」
ヨモツミハシラの入り口の近くに木製の椅子があった。
「いいけど……」
「ヨモツミハシラに背を向けて、何があっても決して後ろを向くなよ」
「それだけなら難しそうじゃないけど」
「そんな簡単なわけないだろ。一度背を向けたら、家に帰るまで絶対に振り向けない……守れなかったらクビだよ」
「それは結構厳しいな……頑張るよ」
僕は椅子に腰を下ろし、提灯を傍に置く。
「僕の仕事はそれだけ?」
「もう一つある。今来た道、解るよな?」
そう言って橘人は来た道を指差す。
「小一時間するとこの道を歩いて、妖怪がやってくる」
「妖怪って……」
何かの冗談かと思ったが、橘人の表情は真剣そのものだ。
「でもセンセはその妖怪と目を合わせないように座ってて。顔を覗き込んだりしないだろうし。妖怪はヨモツミハシラに入りたいだけだから」
「いいけど……橘人はヨモツミハシラにこれから入るんだよね? 大丈夫なの?」
「……平気だ。妖怪は死者と会いたいだけだから」
橘人は事もなげに言う。
「妖怪が出て行くまでじっとしててくれ。帰りはまた合図するから、居眠りしててくれ」
「解ったよ。待ってる」
僕がそう言うと、橘人は提灯を持ったままヨモツミハシラの中へ入っていった。
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あれから何十分経っただろう。妖怪はまだ現れない。
ずっと前だけを見ているというのも同じ姿勢が続いて辛い。肩や背中の血行が悪くなっているのを感じる。
僕は身体を少しでもほぐそうと椅子に座ったまま、大きく伸びをした。だがバランスを崩して、椅子ごと後ろに倒れてしまった。
「痛ッ……」
咄嗟に両手で頭部と首筋は守ったので大きな怪我はしなかったが、背中と腰をしたたかに打った。仰向けに倒れたまま、深呼吸して痛みを誤魔化す。
危ない危ない……。
仰向けだからギリギリ振り向いてはいない。このまま身体を椅子ごと起こせば、申し送りを守ったことになる……筈だ。
そう思った刹那、僕はそれを見た。
ヨモツミハシラの上から誰かが僕の顔を覗き込んでいた。だが月光に照らされたその顔は……死んだ筈の尾張谷檸香のものだった。