第5話 ささめきの間②
荒い呼吸の侵入者は息を整えた後、スイッチをONにした。
蛍光灯の光の眩しさに耐えながら視線を向けると、侵入者の足下が見えた。
高そうなスラックスの裾と黒い靴下……土足で上がって来なかったのは強盗ではなさそうだ。
でも強盗なら損得勘定で動く分、そうでない相手の方がもっと怖い気がする。
僕はスマートフォンを操作し、夏子さんへ電話をかける。兼備くんはもう寝てるかもしれないが、夏子さんはまだ起きている筈だ。起きていてくれ……。
フローリングを踏む足音がこちらに近づいてくる。僕は呼吸をできるだけ薄くし、喉の奥で心臓の音が跳ねるのを押さえ込んだ。
「兼備……どこだ?」
中年男性の切実な声。まずい……この調子だと、おそらく兼備くんが姿を隠していそうな場所を探して回るだろう。
壁面の収納は確認するにせよ、ベッドの下は確実に覗かれる。その瞬間がタイムリミットだ。僕のような軽量級は引きずり出されてはひとたまりもない。
……暴行されるのはゴメンだ。そして暴行で済むかどうかの保証もない。
「兼備!」
男が叫びながらベッドまで近づいてきた。
最早一刻の猶予もない。
僕はベッドのフレームをギュッと握る。
男が腰を折る。ベッドの下を覗き込むためだろう。
フローリングに手や膝を着いてからでは遅い。狙うはその前だ。
僕は下半身全てを使って、男の両スネを思いっきり払った。不意を突かれた男は訳も解らずに転倒する。その隙に僕はベッドから素早く這い出し、立ち上がった。
不意打ちは申し訳ないが、交渉には何らかの優位が必要だ。立ち上がっている僕に対して、男がまだ立ち上げれていないからこそ話ができる。
そして僕は害意がないことが伝わるように、ゆっくりと話しかける。
「あなたは……」
こちらを見上げる男の顔には見覚えがあった。
「姫川雄一さんですね?」
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「……神田か」
低く抑えた怒りの声。
「ええ、奥様から依頼を受けた者です。今夜は兼備くんの部屋に泊まりこんで……」
「聞いてない! 兼備はどこにいる!」
室内の空気がビリビリ震えるほどの大声だった。明らかに素面の怒りだった。
夏子さんの話では酔っていてもおかしくなかったのだが……アテが外れた。酔っ払い相手ならなだめて時間を稼げると思ったのだが、素面でこれほど怒っているのではまず頭を冷やさせないと話ができない。
「今夜は学会の方々と祇園で飲んで、そのまま一泊と聞いてましたが……その様子では飲んでいないようですね?」
「お前、何故それを……」
雄一氏が物凄い形相で僕を睨む。時間を稼ぐために真っ先に目に付いたおかしな点を指摘したつもりだったが、逆効果だったかもしれない。
このままでは飛びつかれるかも……。
そう判断して一歩下がりかけたタイミングで、雄一氏のスマートフォンが振動する。
雄一氏は相手を見て顔を顰めながら出る。
「……私だ。一体どうなって……解った。大人しく待っているから急いで来てくれ」
おそらく夏子さんだ。通話状態にしておいたスマートフォンが拾う会話から異常を察知してくれたのだろう。イチかバチかの策だったがどうにか成功したようだ。
通話を終えた雄一氏だが依然として僕に心を許していないようだった。夏子さんが来てくれるとはいえ、この雰囲気のまま過ごすのは耐えられない。
僕は無視されないように愛息子の名前を出すことにした。
「兼備くんが耳鳴りを訴えていたのはご存じですよね?」
「当たり前だ! 私は医者だぞ? ちゃんと兼備の聴力検査もした」
「だから医学以外のアプローチが必要だと、僕が呼ばれたんです。夏子さんは幽霊の仕業じゃないかと」
雄一氏が一瞬動揺した気がした。
「下らないことを……幽霊なんている筈がない。ましてや……」
そして何かを言いかけて、打ち消した。僕は雄一氏の心中が解ったが、今は敢えて指摘しないことにした。
「ええ、でも幽霊の仕業でもなかったようですね」
「その口ぶりだと兼備の耳鳴りの正体が解ったのか?」
僕は肯いて、答える。
「モスキート音でした」
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人間の聴覚は加齢と共に衰え、特に高周波の音から聞こえなくなっていく。
モスキート音の正体は17キロヘルツ前後の非常に高い周波数の音波だ。
個人差は大きいがだいたい二十五歳を境に聞こえにくくなると言われている。
「そして兼備くんの部屋にいる間は聞こえ、廊下に出ると聞こえなくなった……部屋の中にモスキート音の発生源があるのは明らかです」
そして僕は天井のスピーカーらしき場所を指差す。
「あそこでしょう」
雄一氏は答えなかった。だから僕はもう少し続ける。
「でも本来、モスキート音の発生装置は深夜に騒ぐ若者を追い散らすために開発されたものです。この装置は兼備くんをノイローゼにするために取り付けたわけではないですよね?」
「当たり前だ!」
雄一氏は僕を一喝した。そしてしばしの逡巡の後、説明を始めた。
「……あれは最新鋭のバイタルセンサーだ。様々なセンサーで吸気の微細な乱れや、寝返りの運動を拾い、室内の人間の様子をリアルタイムでモニタリングしてくれる。ただ、その中には超音波も含まれていた」
「つまりバイタルセンサーからモスキート音が発生していたことには気がつかなかったと?」
雄一氏は苦い表情を浮かべた。
「本来は高齢者の見守り用の装置なんだ……ただ、子供の聴覚に有害かどうかを見落としていた」
雄一氏はそう言って自分のスマートフォンの画面を僕に見せてくれた。よく解らないグラフが沢山表示されていた。内容はともかく、心を許してくれたのだろうか。
「……昔馴染みと一杯やろうと思ったら兼備のバイタルが消失していたんだ。慌てて帰ってきた」
その心配に僕は心当たりがあった。
僕は近くのドアに手をかけながら、雄一氏に訊ねる。
「それは"しんいち"くんと関係がありますね?」
雄一氏の顔色が変わる。踏み込みすぎた自覚はある。ただ、これを訊かずに仕事を終えることになったら気持ちが悪い。
だが雄一氏は吐き出す相手を求めていたのか、彼のことを語ってくれた。
「……真まことの一ひとつと書いて真一だ。私にとっては長男だ」
真一……そうか、こういう字を書くのか。
「勿論、真一の存在は妻も知っている。前妻との子だからあれもこれも……とはいかんがな」
雄一氏はそれからゆっくりと目を閉じた。沈黙の長さがこの家の年輪の厚みを示しているように思えた。
「ここは真一の部屋だった」
短く落ち着いた声。僕は無意識に背筋を正した。
「身体の弱い子だった。それでも大事に育ててきた……それがある朝、冷たくなっていた。私は医者でありながら真一の変化を見落としたんだ」
それが深刻なトラウマになったということか。
「だから二度とそんなことがないようにバイタルセンサーを取り付けようと思いついたんだ。兼備がもうじき七歳というのも大きいな。真一は七歳で逝ったから」
一見、立派な成功者の雄一氏もこうして眺めるとただの心配性な中年男性だ。なんでも必要以上にスペアを用意していたのもこの心配性ゆえだと思えば納得だ。
「だからバイタルが消えたことで、血相を変えて帰ってきたんですね」
「……四年前の悲劇を繰り返したくなくてな」
雄一氏は深く息を吐いた。彼にとっては亡き長男のことを思い出すだけで負担なのかもしれない。
「脅かしてすまなかった」
「いえ、こちらこそ……」
僕も息を吐く。胸の中の糸が一つ弛む。余計なお世話かもしれないが、兼備くんのために言っておかないといけない。
「兼備くんのことが心配だったのは解りますが、子供の立場からしたら黙ってそんなことされたら厭ですよ。まるで呪縛みたいじゃないですか」
「ああ、配慮が足りなかった」
雄一氏は素直に肯いた。その様子を見て、僕は心が温かくなった。
「でもその愛情は羨ましいです」
「……ありがとう。救われたよ」
階下で音がした。夏子さんたちが帰ってきたようだ。
「我々も降りよう」
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それからリビングで仕事の報告を兼ねた話し合いの場が持たれた。
とは言っても宿泊先で寝ていたところを叩き起こされた様子の兼備くんはすぐにソファで寝てしまった。
お陰でこちらも真一君に触れながら、事情の説明ができる。
「もう……だったら早く言ってよね」
夏子さんはバイタルセンサーに関して雄一氏から相談がなかったことに不満を示しつつも、兼備くんのための行動だったということで納得はしたようだ。
「すまん……真一のことがあったからつい」
「兼備が心配なのは解ったけど……ああ、どうしよう。兼備になんて説明したらいいの……」
僕はおずおずと手を挙げる。
「どうしたの神田さん?」
「兼備くんを納得させられたらいいんですよね? それならどうにかなるかと思います」
姫川夫妻は僕の申し出に半信半疑といった様子だったが、それでも寝ている兼備くんを起こしてくれた。
「んー……お兄ちゃん、幽霊はどうなったの? 僕、あのままだと眠れないんだよ」
眠そうに擦りながらも、口調は真剣だ。もしかすると久々の安眠だったのかもしれない。
「幽霊はいたよ」
兼備くんは僕の言葉に目を輝かせる。
「退治できた?」
僕は首をゆっくり横に振る。
「悪い幽霊じゃなかったよ。君のことが心配で何度も様子を見にきてくれたみたい」
僕の嘘を聞いた夫妻が息を呑んだのが解った。
「でさ……これからは静かに見守るってさ」
「そっか。わかった」
兼備くんはソファを降り、力強く宣言する。
「おかあさん……僕、これから幽霊と寝るね」
そう言って兼備くんはパタパタ走り出し、それを追うように夏子さんが続く。
この子が早世した腹違いの兄の存在を知る日がいつになるのか……その時に今日ついた嘘を恨まれないといいなと思った。
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翌日。「少しでも暖かくなったら深村堂へ行こう」と思っていたのに一向にその気配がなく、結局夕方まで出られなかった。
お金に多少余裕はできたとはいえ「自分を甘やかすのはまだ早い」と思い、僕は御所の南の深村堂まで自分の足で歩いた。
深村堂の戸を開くと、深村さんが帳場に赤と黒の着物で腰掛けていた。手にはおそらく10万円入りの封筒、まるで僕が来ることが解っていたかのようだ。
「いらっしゃい、祟」
深村さんは僕を一瞥し、封筒で口元を隠して笑う。
「聞いたで。上手いことやったらしいやん」
僕は帳場の近くに腰を下ろした。
「昨日の仕事は……悪くなかったです。ちょっとスリリングな局面もありましたが、論理的に解決できましたし。何より家族の絆も深まったみたいでこう……」
「ホッコリした?」
僕は肯いた。なんというか、本当に胸が温かくなったのだ。
「こないな仕事ばっかりだったらええなって感じ?」
「そうですね。虫のいい願いなのは解ってますけど」
深村さんはにやりと笑い、帳場の引き出しから封筒を取り出した。
「ほな報酬。10万円、数えとき」
僕は封筒を受け取り、その札束の厚みに胸を撫で下ろした。これで破滅が少しだけ先延ばしになった……贅沢さえしなければ三月は無事に過ごせる。
ふと深村さんの方を見ると目が合った。だがその視線はなんだか生温かい。
「……僕の顔に何かついてます?」
深村さんは肩をすくめる。
「なあ祟。なーんか平仄が合わんところあると思わんか?」
「……え?」
そう言われると大きな見落としがある気がしてきた。いや、10万円を貰えている以上、仕事は達成している筈なのだが。
「雨降って地固まる……やったらどんだけ良かったか」
もしかして……あれのことか?
雄一氏は長男の真一くんが亡くなったのは四年前だと言っていた。しかし兼備くんはもう六歳だ。そして母親の夏子さんは後妻……計算が全然合わない。
「気づいたみたいやね」
「兼備くんは真一くんが死ぬ前に生まれてるじゃないですか」
これ以上僕が考えても仕方がないと思ったのか、深村さんは答えを教えてくれた。
「実は夏子さんが後妻に入ったんは三年前なんや。真一くんが亡くなった後、前の奥さんと縁を切るまで色々あってな……要は滅茶苦茶揉めたんやけど」
急激に喉が乾いてきた。
昨夜、雄一氏は真一くんを守れなかった後悔を語り、兼備くんを守るためにセンサーを設置したと説明した。あの内容が嘘とは思えない……だけど僕は肝心なことを見落としていた。
「後妻は後妻でも……愛人や。それも子供を産ませるためのな」
僕は夏子さんの顔を思い出す。あんなまともそうな人が……いや、人それぞれ事情というのものがあるのだろうが、それにしてもだ。
「真一くんのことが不安やったから……スペアを用意しといたってわけや」
「いや、そんなわけ……」
僕は咄嗟に反論しかけて、ストックされていた来客用の箸の新品や、兼備くんの部屋の収納スペースで見た様々な物品を思い出す。
「スペアって……他に言い方があるでしょう」
「だって……兼ねると備えるで兼備やで?」
そう言われてようやく気づく。
真一と兼備……並べるとグロテスクな命名則が一目瞭然だ。きっとあの男は幼い真一くんの身体の弱さをある程度解っていたのだ。
僕は俯いて、店の床に視線を落とす。
兼備くんに罪はないが……なんというか全然まともな仕事じゃなかった。
「落ち込んでるんか?」
「……せめて夏子さんぐらいは本当のことを話してほしかったですね」
自分の察しの悪さを棚に上げた物言いなのは自覚している。
「あんたみたいに自分の恥をわざわざ喋る人間ばっかりやないんや。また一つ賢くなったな」
ちゃぶ台にまつわる僕の恥を話させたのはあなたでしょうが。
そう言いかけて、また一つ妙なことを思い出した。
「あ、そういえば引っかかってることがあるんですけど……」
「なんや?」
「ご主人、僕の顔を見るなり『神田』って呼んだんですよね」
「神田を神田て呼んで何が悪いん?」
「いや、夏子さんはご主人に内緒で仕事頼んでたわけですから、僕のこと知らない筈なんですが……」
僕の言葉に深村さんは考え込むように天井を眺めていた。そして再び正面を向いた時にはもう微笑んでいた。
「さあ、なんでやろな」
察しの悪い僕にも解る。深村さんは答えを知っている。
「教えてくれないんですか?」
深村さんは僕の言葉に視線を少し泳がせた後、こう言った。
「その内解るって。二度あることは三度あるいうからな」