第20話 百歩の家③
百歩の家に入った僕たちを迎えたのはごく普通の昔ながらの日本家屋の玄関だった。
靴を脱ぐための三和土たたきがあり、その先には磨き上げられた上がり框あがりかまちがある。しんと静まり返った玄関は埃と古い木の匂いに満ちていたが人の気配はない。
「ほら。ぼさっとしてんと」
僕は深村さんに促されるままに履き物を脱ぐ。そして上がり框に上がってようやく違和感に気づいた。
本来ある筈の、上がり框から続く板張りの廊下のようなスペースがほとんどないのだ。普通は玄関から各部屋へと通じる廊下が奥へと伸びている筈だ。だが僕の目の前には、襖がもう壁のように立ちはだかっていた。
「……町屋っていうか、昔の長屋みたいですね」
僕がその奇妙な構造を怪訝に思っていると、深村さんが襖にそっと手をかけた。
「ここからが本番や」
彼女はそう言うと襖を開け放した。僕は目の前に現れた光景に息を呑んだ。
襖の向こうはやはり和室だった。だがその畳の上にはありとあらゆる種類のモノが、まるで嵐が過ぎ去った後のように乱雑に散らばっている。古い壺、読みかけの本、子供の玩具、洋物のティーカップ……。
しかし僕が本当に驚愕したのはそこではなかった。
部屋の向こう側にもまた襖があり、その襖もまた大きく開け放たれていた。そしてその向こうには、またモノが散乱した和室が続いている。さらにその奥の部屋の襖も、また開け放たれて……。
まるで合わせ鏡の中に迷い込んだかのように、同じような部屋がどこまでも、どこまでもまっすぐ奥へと続いているように見えた。
意図的に照明を落としているのか、部屋は奥に行けば行くほど深い闇に沈んでいく。はたして五部屋あるのか十部屋あるのか……その正確な数をここから見通すことはできない。
思わず隣の深村さんの顔色を伺ってしまうが、深村さんは余裕そうな表情でこんなことを言う。
「最初から襖が開け放たれてるなんて、かなり優しいな。調整でも入ったんかな?」
まるでゲームの話でもしているかのような呑気さだ。
「こんなこともあろうかと持って来といてよかったわ」
そう言って深村さんは高くて丈夫そうな懐中電灯を取り出すと、点灯して奥の方を照らした。
「ほら、見えた。全部で六部屋やな」
用意周到にも程がある。
「でも暗いせいで、具体的に中に何があるのかは部屋まで入らんと解らんな」
そして僕に懐中電灯を渡してくれた。自分の目でも見てみろということだろうか。
「基本的には奥に行くほどええもんが落ちてる可能性が高い。だけど何も考えずに歩くと帰りの歩数がなくなる」
僕も懐中電灯で照らせる範囲を照らしてみてはいるが、そもそも目利きのできない僕が転がってる物品を見たところで大した意味はなさそうだ。
「やっぱりゲームみたいですね」
軽い相づちのつもりだったが、口にしてすぐに後悔した。深村さんのお父上は文字通り、ゲームオーバーしてしまったのだから。
「……そうやな。でもゲームと思えばこそ、手前の方にお宝なんか落ちてることないんも解るやろ?」
彼女が気分を害したのかどうかは僕には判断できなかった。
「でも一人と二人では難易度が大きく違いませんか?」
「まあ、当然やな。でも一人用と二人用でちゃんと調整してあるらしいわ。今回は二人用やから、相方の歩数を上手く使わんとクリアできへんようになってる」
やっぱりゲームなのでは?
ただ、そこで疑問も生じる。仮に百歩の家が怪異の類いだとして、適切な難易度調整なんてできるものだろうか?
僕の知っているゲームというのは、世に出るまでテストプレイヤーが何度も遊び、バグを修正しながら難易度を調整していくものだ。でも怪異がそんなことをする筈もないだろうし、第一怖くない。
待てよ。例えばローグライクゲームだとダンジョンは自動生成されるが、ローグライクゲームはこちらに不利な条件が重なってクリア不可能ということもあるではないか。
深村さんは吟味するように
観察している。それは必死にクリア方法を模索しているように見えた。
邪魔をしたら悪いとは思いつつ、僕はどうしても訊ねたいことがあった。
「深村さん。答えられる範囲でいいので教えてください」
「なんや?」
深村さんは考え事を邪魔するなというまなざしを僕に向けながら返事をした。
「この百歩の家がゲームだとして、確実にクリアできる方法が用意されていてそれを探すものなのか、それともクリア保証がない状態で最善を尽くすものなのか……どちらですか?」
「……そら、前者や」
深村さんは事もなげに言い放つ。だが知りたいのは答えよりもその根拠だった。
「どうしてです?」
「クリアできるかどうかも解らんもんに挑んで失敗したかて、そこまで笑い者にはならへんやろ。クリアできる方法があったのに失敗するからこそ、強い呪いになるんや」
理屈は解らなくもない。
「……ウチのざっくりとした目算やと、一番奥の部屋まで50歩以上かかるな」
「つまり普通に行くと歩数がオーバーするようになってるってことですね」
「ただ、歩数がキモならそれを踏み倒す方法が用意されている筈なんや」
深村さんはそう言うと僕の肩に手をかけ、そのまま僕の身体を裏返す。
「ちょっと、深村さん?」
「祟、実験や。気張りや」
次の瞬間、僕にかかる重力が増した。
そして熱を持った蔓に上半身を締め上げられているような感覚が襲ってくる……深村さんが僕の背中に飛び乗ったのだと遅れて理解した。
「いきなり乗らないで下さいよ!」
咄嗟に深村さんの両脚を抱えたが、バランスを取るのに必死で余計なことを考える余裕もない。何より、みっともなくよろめいて歩数を消費することだけは避けたかった。
「ええからこの状態で一歩だけ進んでみて」
僕は言われるがまま、一歩を踏み出す。すると深村さんが自分の腕の百歩計を僕の前に差し出した。
「あー、アカンな。これやと祟の一歩もウチの一歩としてカウントされてまう」
そう言うと深村さんは僕の背から降りる。残念とかそういう感情はなく、ただ苦役からの解放の喜びしかなかった。
僕が肩で息をしていると、深村さんの両手が差し出された。
「はい。今度はちょっと二歩か三歩引っ張ってみて」
次の実験というわけだ。もうちょっと休ませてほしいが……。
僕がおずおずと手を差し出すと、深村さんはがっちりと指を搦めてきた。僕も最初は腕を掴もうか悩んだが、僕の虚弱な握力ではすっぽ抜ける可能性がある。正しい判断だ。
深呼吸をして二歩ほど後退すると、滑らかな板張りの上を深村さんの身体がズズズ……と移動した。大きなカブを引っ張る気分というのはこういう感じだろうか。
「どうです?」
僕の質問に深村さんは腕の百歩計を見せてにっこり笑った。
「カウントされずや。この作戦で行こう」
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「ほらほら、頑張り」
かくして、僕は深村さんを引っ張りながら部屋の奥へ進んでいた。
木の廊下と畳では滑らかさが違うから上手くいくか心配したが、最初の部屋に転がっていた丈夫そうなテーブルクロスの上に深村さんをのせることで解決できた。
最初からこういう用途を想定して用意された小道具なら確かに謎解きゲームだ。
僕が引っ張っている間、深村さんはその部屋に転がっている品物へ目配りをする。
「こんなところにはお宝はないやろうけど、念のためな。あ、祟は気にせんと引っ張ってや」
しかし引っ張ればちゃんと滑りはするのだが、如何せん僕が貧弱なために一歩ごとに全力を振り絞る感じになっている。休み休みやれば最奥まで到達するだろうが、それでもしんどい。
「もうへばったん?」
深村さんはからかうようにそう言うが、笑顔で応じている余裕がない。
「あの……何か喋って下さい。少しでも気を紛らわしたいので」
深村さんは僕のそんな申し出に少し考え込んで、再び口を開いた。
「織田信長が地球儀を持ってたんは知ってるか?」
おお、予想もしてなかった話題で脳が上手く騙されそう。
「確かイエズス会から献上されたんでしたっけ」
「そうそう、それ」
あくまで創作上のイメージだが、進歩主義者として織田信長を描く時は地球儀を配置されがちだ。日本統一のその先まで見ていたというのが視覚的にも解りやすいからだろう。
「天主輿図儀てんしゅよずぎ、三国さんごくの玉、スファエラ・デイ神の天球……あの地球儀の呼び名は色々伝わってるけど、実は所在が不明なんや」
それは知らなかった。てっきりどこかの博物館に所蔵されているものだと思っていた。
「まあ、本能寺の変とかありましたからね……」
「だからそんなもんが見つかったら高値で売れるやろうな。いや、仕入れて商ったという事実自体がもう深村堂にとって箔になる」
なかなかに夢のある話だ。僕に50万円も前渡しする気持ちだって理解できる。
「でも可能性はあっても、そんな代物がここにあるとは限らないんでしょう?」
僕の問いに深村さんは微かに笑う。
「確かに百歩の家のお宝はこれって決まっているわけやない。けど、オトンの敵討ちに来たウチにイケズするんやったら……一番奥に天主輿図儀を置いとくんやないかな?」
そんな話をしている間に最後の部屋に到達しそうだ。
俄然緊張してきた。僕の百歩計の針はとうに半周を超えた。一番奥まで後何歩か解らないが、もう一人では脱出できない。
何より……この最後の部屋には何が集められているんだろうか。
僕は我慢できずに後ろを振り向いた。
そこは一際異様な空間だった。珠、玉、球……大きなものから小さなものまで、部屋中にあらゆる球体が転がっていた。ビリヤードの白い球を思いっきり打ち込んだら、さぞ気持ちいいことになるだろう。
そしてその中には当然のように古い地球儀も混ざっていた。ただし一つや二つではなく、おまけに僕には全然区別がつかなかった。
「なんだかボーリングしたくなりますね」
しかし僕の冴えない冗談は深村さんの耳に届いていないようだった。深村さんは転がっている地球儀たちを真剣に見定めていた。
深村さんと言えば手に取っての鑑定というイメージだったが、彼女の目利きはこの距離でも力を発揮するのだろうか?
部屋の襖を開けて五分も経っていないと思う。深村さんは部屋の一点を指差す。
「……祟、あの地球儀取ってきて」
幾分疲れが混じった口調だった。僕は言われるまま、その地球儀を取りに行く。
「これですか?」
深村さんが肯くのを確認して、慎重に手を伸ばした。
重い。
スイカの大玉ぐらいだろうと思って持ち上げたが、中に金属でも詰まっているのかと思うぐらい重い。
いや、僕はここまで深村さんを運んだんだ。古い地球儀ぐらいなんだ!
僕は力を振り絞って深村さんのところまで運ぶ。
「持って来ました……」
「ありがとう。もうちょいよう見えるように抱えててくれへん?」
そう言われては仕方ない。僕は最後の活力を絞り出すようにして地球儀を掲げた。
「……きっとこれや。オトンの言ってた特徴と完全に合致する」
深村さんは地球儀を愛おしそうに撫でる。
「あの、深村さん……僕、そろそろ限界で……」
「ああ、ごめんごめん。引き取るわ」
僕は深村さんに地球儀――天主輿図儀なのだろう――を渡すと、その場にへたり込んだ。
深村さんをここまで引っ張ったのに続けてこんな重いものを運べば、限界も来ようというものだ。それでもどうにか腕を確認すると、百歩計は僕がもう70歩も歩いたことを示していた。
しかし腕の疲れが取れない。帰りは深村さんに引っ張ってもらうにせよ、腕が回復しないことには無理だ。
ふと僕は深村さんを見上げると、彼女は天主輿図儀を抱えていた。その姿を見て、僕は大事なことに気づいた。
「深村さん、両手塞がってませんか?」
「ああ、そうやな」
深村さんは冷淡な口調で答える。短い付き合いではあるが、彼女からそんな風に話された記憶がなかったので思わず自分の耳を疑ってしまった。
「ええと……つまりは僕はどうやって帰ったらいいのでしょうかという話でして……」
喋ってみて自分が動揺していることに気づいた。自分に優しくしてくれた人からつれなくされるのは想像以上に堪える。
「祟……アンタは何から何まで誤解しとるわ」
その口調はやはり冷たい。もしかして手の握り方が不快だったのか?
僕は弁解の言葉を必死に探していたが、深村さんは構わず話を続ける。
「百歩の家を怪異みたいに思てるみたいやけど、まずそれが大きな勘違いや」
「え?」
「百歩の家のはじまりは、京の都で荒稼ぎしとった強欲な商人を懲らしめるために仕掛けたいじわるな試しや」
僕は図書館の『みやこの説話集』で読んだ、百歩の家に足を踏み入れたという商人を思い出していた。確かにあれをそういう話だと解釈すれば辻褄は合う……。
「それがいつしか欲かいた商人をみんなで笑いものにするゲームに変わったんや。京都の旦那衆が金出し合ってるから、場所も品物も毎回変えられる……」
なんて悪趣味なゲームだ……いや、そんなものをゲームだなんて呼びたくもない。
深村堂の紹介で仕事をする前の僕なら信じなかっただろう。だが今の僕は深村さんの話に納得できてしまう。
僕が一連の仕事を通じて学んだ京都というのは確かにそういう世界だった。
「そういうわけでな。生憎やけど、ウチの腕は二本しかないんや」
僕は必死に言葉を探す。
結局、天主輿図儀を指を差してこう言うのがやっとだった。
「……それ、なんとか転がして運べませんか?」
深村さんの口から失笑のような空気が漏れた。
「相変わらず冗談は面白んないな。畳ん上転がされた天主輿図儀なんて誰が買うねん」
「50万……手切れ金のつもりだったんですか?」
「なんや、自分で気づけるんやないの」
その表情は酷薄で……さっきまで親しく喋っていた彼女と同じ人間とは思えなかった。
「なんで……」
「そんな下らんことより、まず呪いを解く方法を考えや」
そう言って彼女は僕に背を向ける。
「祟、アンタとはここでお別れや。」
そして彼女は入り口へ向かって、ゆっくりと歩き始めた。