第19話 百歩の家②
仕事当日。僕は錦市場の東側で深村さんを待っていた。
昼過ぎの錦市場は観光客と買い物客でごった返している。これから呪われるかもしれない仕事に向かうには不似合いなほど生命力に満ち溢れていた。
「詳しい話は明後日、歩きながらでもするから」
できれば事前に情報を得て、百歩の家への対策を練りたかったのだが、深村さんにそう言われては問い質すわけにもいかない。
百歩の家……はたして僕らは呪われずに出てこられるだろうか。
そんなことを考えていると、背後から肩を叩かれる。振り向けばブルゾンにジーンズ姿の、サングラスをかけた若い女性が立っていた。
はて、誰だろう?
脳が画像検索を始めかけた瞬間、女性がサングラスをずらす。瞳を見せて貰ってようやく、僕は彼女の正体を理解した。
「深村さん?」
「そんな大声出しな。恥ずかしいやろ」
「すみません。でもイメージと違ったもので……」
これまで着物姿しか目にしていなかったのもあるが、洋装の深村さんはこれまでよりも随分と大きく見えた。おそらくだが骨格も肉量も、同世代の女性の平均よりはずっとありそうな気がする。
……別に不埒な思いで言っているのではない。今ここで僕と深村さんが争ったら、おそらくチビでガリな僕は圧殺される予感がしたからだ。それぐらい肉体的なスペックが違う。
「……こういう時は『似合ってる』とだけ言っておけばええのに」
まさか僕の内心が伝わった筈もないが、深村さんはため息を吐いて、サングラスを元の位置に戻す。
「案内するわ。ついといで」
そして深村さんは踵を返すと、僕を先導するように歩き始めた。
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「すごい人ですね……」
僕が錦市場を行き交う人混みを掻き分けるのに苦労しているというのに、深村さんはすいすいと先に進んでいく。
「まあ、海外からのお客さんも増えたしな。地元のウチらももうここではよう買い物せえへんよ」
確かに左右を見回すと海産物や牛肉の串焼きが結構な値段で売られている。深村堂の仕事で稼いでいる僕でもあまり買う気はしない値付けだ。
「じゃあ、地元の人は魚とかどこで買うんですか?」
「ん? 大丸の地下」
それが本気なのか冗談なのか判断しかねていると、深村さんは右の方を指差す。
「こっちやで」
そう言って深村さんはアーケードの中程で右折する。
「待って下さいよ!」
深村さんを見失いそうになった僕は慌て、錦市場の人混みを不格好なバタフライで泳ぎきった。
「鈍くさい奴っちゃなあ……」
一応、僕を待っていてくれたらしい深村さんは、京都の街に毛細血管のように張り巡らされた名もなき路地裏へと入っていく。
いや、名もなきというのは嘘だな。この街ではあらゆる場所に名前がついているのだから。
そして僕らは黙々と歩き続ける。だが僕はその沈黙を破るように、ずっと気になっていた質問を口にした。
「……百歩の家って一体何なんですか?」
「その口ぶりやと、調べはしたんか?」
「図書館やインターネットで調べてはみたんですが……断片的な情報しか集まらなくて、かえって謎が深まった感じです」
実際に調べたのはもっと前だが、嘘はついていない。何よりここで荻浦さんや仁科さんの名前は出す必要性もないと思った。
「せやろな。あれについて語れるのは当事者だけや」
深村さんは前を向いたまま、静かに語り始めた。
「特定の場所を百歩の家と呼ぶわけではないけど……まあ、京都市内の空き家がそうなりやすい」
なりやすい……自然発生的なアレなのか?
しかしそんな疑問は解消されることはなく、僕たちは人通りの少ない道を歩いていた。錦市場から目と鼻の先なのに、静かすぎる気がする。
「百歩以上歩いたら呪われるというのは本当なんですか?」
いくつも質問すると嫌がられると思い、優先度の高い疑問を口にした。
「ホンマや」
深村さんはきっぱりと答えた。
「百歩の家はな、中に入った人間を試すんや」
「試すというのは?」
「ある時の百歩の家は国宝級の骨董もただのがらくたも全部ごちゃ混ぜになって、平等に置かれとったそうや。その中から百歩という限られた歩数で宝を見つけ出し、外に出なければならん」
深村さんの声にはいつになく重い響きがこもっていた。
「せやけど、欲に目が眩んだ人間はそこで『どれが一番高いのか』みたいな計算を始めてしまう。そうやって右往左往しているうちに、百歩なんてあっという間に過ぎてしまうんや」
やがて深村さんはある一軒家の前で足を止めた。目の前にあるのは少し古いが、小綺麗に手入れされていそうな平屋建ての町家だった。
「ここや」
「え?」
しかし僕の疑問には答えず、深村さんはその町屋をまっすぐに見つめている。
「祟、中入ったら一歩たりとも無駄に歩くんやないで」
深村さんは有無を言わさぬ口調で言った。
「そりゃ、まあ……お金がかかってますからね」
冗談めかしてはみたが、深村さんの緊張が緩む気配はない。そんな緊張に耐えかねて、僕は単刀直入に切り込んでしまった。
「深村さんが真剣なことは解りました。でも何故わざわざ危険を冒そうとするんですか?」
このまま「あなたのお父上のような一流の目利きでさえ、破滅させられた場所なんでしょう?」という言葉を続ける筈だったが、かろうじて呑み込んだ。それはまだ知らないことになっている。
「……オトンは百歩の家で死んだ」
僕の問いに深村さんは目の前の町家から一度も視線を逸らさずに答えた。その横顔は僕が今まで見たことがないほど脆く、そして悲しげに見えた。
「え……」
「かつてのオトンは当代きっての目利きやった。どんな品物でもその値打ちを一目で見抜くことができたし、何よりその自分の目に絶対の自信を持っとった」
彼女の声が微かに震える。
「だから試したんやろな。自分の目が百歩の家でも通用するんかどうかを。せやけど百歩の家はそんなに甘なかった……オトンは粗相をして、そして見事に呪われた」
ここだ。深村さんは呪いを自明のものとして喋っているが、あらゆる意味で部外者の僕はどこまで信じていいのか解らない。
とはいえ、まず呪いがあるという前提で話を聞かなければ先に進まない。
「百歩の家から戻ってきてからは悲惨やった。店は傾き、客は離れ、オトンの心は日に日に壊れていった。自分の子供たちの前では気丈に振る舞ってはいたけど、影では『何をやってもアカン』って嘆いとった」
その先は知っていた。だが、知らないフリをして聞かなければならない。
「そして数ヶ月後、失意の中、事故に遭って死んだ。ウチは自殺ではないと思うけど、注意力はあってないようなもんやったやろうし、きっとはよ楽になりたいとも思ってた筈や」
「だったら尚更じゃないですか。無理して挑まなくたって……」
「……あのホームページ、あるやろ?」
そう言われて、僕は肯く。
「昔は深村堂の看板とオトンの信用で勝手に売れたんや。でも今やオトンが買いつけたもんなんか誰も買わん。買い叩こうとする輩以外はな。だからあんなカタログで商売せなあかんのや」
その口ぶりで理解できた。あのWebカタログは深村堂の醜聞を知らない誰かに売るための方策なのだ。そして、そこまでしても売り上げは芳しくなさそうだ。
「オトンが死んでも、深村堂の看板は呪われたまま……ウチはお情けで紹介された厄介な仕事を仲介して食いつないでるようなもんや」
深村さんの壮絶な告白に、僕はかけるべき言葉を見つけられずにいた。
深村さんはサングラスを外して、僕の方に向き直った。その瞳にはもはやいつものような人を食った光はなく、ただ一つの強い決意だけが宿っていた。
「ウチは深村堂の当代として、この家を何としてでも攻略せなあかん。そうでもせんとウチらにかかった呪いは解けないんや」
そして深村さんは僕に深々と頭を下げた。
「助けてくれへんか、祟。ウチ一人ではオトンと同じように欲に目が眩んでしまうかもしれん。だからアンタが必要なんや。骨董品とがらくたの違いも解らん、アンタのその目がな」
馬鹿にされているような気もするが、それは彼女の口から初めて出る悲痛なSOSだった。そんなことを言われて僕に断れる筈もない。
「……解りました。やりましょう」
「ありがとうな」
そう言って安堵する深村さんの姿はまるで少女のようだった。一瞬、僕が守ってあげないといけないほど、か弱く見えた。だがすぐに思い直す。
「念のためにこれだけは訊いておきたいんですけど、いいですか?」
「……なんや?」
「やる」と言った後に野暮な水差しをするなと言わんばかりの口調だが、圧に負けずに訊くことにする。
「仮にここで百歩を超えて歩いたがために呪われたとして……それを解く方法ってないんですか?」
深村さんは明らかに狼狽していた。
「……あるけど、今教えてる時間はない。呪われた時教えたるから、心配せんでええ」
「それなら大丈夫ですね」
そうは言ったものの、僕はある引っかかりを覚えていた。
百歩の家の呪いが家業を傾け、命を蝕むほどのものなら……お父上はどうして呪いを解かなかったのだろうか?
深村さんは誤魔化したが、きっと何か代償があるのだ。
でも……どんな代償を支払うことになったって、自分が死ぬよりはマシではないのか? 自分が呪いを抱え死にしないと、誰かに感染するならともかく……。
「なんや? まだ何か訊きたいことあるんか?」
深村さんがそう言う。僕の顔からはまだ疑問が消えていなかったらしい。
僕がその先に踏み込むべきか悩んでいたら、どこからともなく一人の男が現れ、僕たちに一礼した。
「深村様、神田様……お待ちしておりました」
黒いモーニングコートに身を包み、白い手袋をつけた執事のような正装の男。彼のい一礼はマナーに疎い僕の目にも完璧な所作のように見えた。
「あなたは?」
百歩の家に関係する人間なのは解っているが、つい訊ねてしまう。
「私奴わたくしめのことは卒塔婆そとばとお呼び下さい。あなた方の挑戦の結果を語る生き証人とでも思っていただければ」
「生き証人なんて……大袈裟な」
日頃出てこない語彙すぎて、思わずそんな言葉が口をつく。しかし男は心外そうな顔でこう返してきた。
「大袈裟? では誰が百歩以内に出たことを証明するのですか?」
「いや、自己申告制なのかなって……」
「ご冗談を。ゴルフという紳士のスポーツも他人の目がなければ不正をする人間が後を絶たないのですから」
そう言って男は手に持っていた木箱を開けると、中から腕時計のようなものを二つ取り出した。
「これは万歩計です。いえ、厳密には百歩しかカウントしないので百歩計とでも呼ぶべき代物」
その百歩計は金属ではなく黒檀か何かでできているようだった。文字盤に数字はなく、百等分されていると思しき目盛りと長針が一本だけ。百歩を計る以外の用途は思いつかなかったが、実用品には出せない美しさがあった。
「まず、百歩の家の入り口の前に立って下さい。そこからカウントしないと意味がありませんからね」
それを聞いた深村さんは百歩の家の入り口の前に歩を進め、そして右腕を突き出した。
僕も慌てて追随した。
男は僕たちの手首を取り、その百歩計を慣れた手つきで巻き付けていく。ひやりとした滑らかな木の感触が肌に伝わる。
「この先、何を持ち帰られてもご自由です」
男は抑揚のない声でそう告げた。僕は思わず間抜けなことを訊く。
「何でもいいんですか?」
「ええ……ですが、百歩を超える前に家から出て下さい」
「もし百歩を超えたら?」
「呪われます。そして呪われた者が何を持ち帰ろうと、そんなものを買う者はこの街におりません。ご注意を」
深村さんは僕の顔を見て肯いた。僕も強く肯き返した。
「行くで」
そして僕たちは挑戦の第一歩目を文字通り踏み出した。