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京都市民限定で求人が出ているとあるバイトについて|MF文庫J発売前4タイトル特別試し読み!

2025/11/14

第21話 百歩の家④


 不思議なぐらい心は凪いでいた。
 深村さんに裏切られたという事実は単に頭の中を滑っていくだけで、怒りは湧いてこない。
 最初から深村さんと僕は利用する者、される者の関係だった。だから損得の天秤が反対側に傾いた時に売られることは覚悟していた。
 でも覚悟していたその時が想像よりもずっと早く来た寂しさのようなものはある。利用されていようが深村堂は僕と世界との唯一の接点で、深村さんの斡旋する仕事をしている間だけは孤独ではなかったのだから。
 強いて言えば、手切れ金の50万が妥当な額なのか解らないことだけが引っかかる。約二ヶ月の関係の精算なら高いし、天主輿図儀を入手するための必要経費としては安い。
 ……そうか。僕は手切れ金なんかよりも、深村さんにとって何者だったのかを気にしているのか。
 そこまで考えても、やはり怒りは湧いてこない。
 何かで読んだことがある。怒りとは自己の尊厳を不当に侵された際に発動する、極めて健全な精神の防衛反応なのだと。
 だとしたら怒れない理由も明白だ。
 僕には守るべき自尊心なんてものが存在しないし、侵されて怒るほどの価値が自分にあると思えたことがない。
 きっと自分のために怒れない僕は生物として欠陥があるのだと思う。
 でも怒りがないからこそ、頭は冷静だ。だから今すぐにでもこの百歩の家に関わっている他の人間の視点から捉え直すことだってできる。
 僕は分析のために頭を切り替える。きっとこうした方が寂しさだって紛れるだろう。

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 確かに僕は深村さんに裏切られ、更に自力では百歩以内に帰れない状況にある。
 だが冷静に考えてみれば、僕のような持たざる者の破滅なんか見て面白いわけがない。特定の誰かがなくしてはいけないものをなくすから面白いのだ。
 そうだ、何かストーリーがいる……。
 僕のプロフィールぐらいは金持ちたちに伝わっているかもしれない。でも僕はちょっと特殊な過去を持つけど、所詮はただの学生だ。あくまでメインは深村さんだろう。
 例えば……そうだな。かつて百歩の家に挑んで失敗した深村堂の店主の娘がリベンジに来るとなったら、金持ちたちは喜んで迎えるだろう。
 今のところ、深村さんは相棒の僕を裏切ったお陰で、文字通り勝利への道を順調に歩いている。勿論、深村さんが成功するのが親子二代の物語としては美しいが……やはり失敗した方が盛り上がると思う。
 そこまで考えて、ようやくある事実に思い至った。
 入る前に僕の腕に百歩計を巻き付けた「卒塔婆」という男、生き証人と名乗っていたが、実際の役回りは裏方・運営だろう。
 では出資者である金持ちたちが卒塔婆から百歩の家の結果報告を受けるとして「こういう展開になって、挑戦者は失敗しました」とだけ聞かされて面白いだろうか?
 僕は周囲に視線を配る。ここまで余裕がなさすぎて気づかなかったが、目を凝らすと部屋の薄暗さは隠された人工的な光源によって作られているようだった。
 一つ隣の部屋の中すら見えないほど暗ければ、挑戦を諦める者だっているだろう。そうさせないために家の中の光量を調整しているのだろうが、なかなかに悪趣味だ。そして理想の光量を割り出すためにテストプレイをしたであろう卒塔婆のことを考えて、厭な気持ちになった。
 でも探していたのは光源ではない。
 僕は薄暗い部屋の中、ある筈のそれを目で探す。
 これだけ準備に高い金を払っているのだ。どうせなら誰かを裏切った場面や失敗する瞬間を見たいというのが人情ではなかろうか?
 ……あった! きっとあれだ。
 天井にある四隅の入り口側、部屋に入った瞬間には絶対に意識がいかない箇所に筒のようなものが固定されていた。更に目を凝らすと、筒からコードが下に伸びている。
 あれは筒に偽装されているがカメラだろう。
 流石に深村さんはカメラがあることを承知していた筈だ。そして金持ちたちが悲劇的な展開を期待していることも解っていた……だからあの時、カメラを意識して僕に対して過剰に露悪的に振る舞ったのではないか?
 そう思えばあの豹変も説明できる。
 ……いや、違うな。今のは推理じゃなくて、そうあってほしいという僕の願望だ。頭では割り切ったつもりが、無意識ではまだ深村さんに未練があるらしい。
 私情を排して、推理を進めよう。
 さて……百歩の家には二人で参加したが、メインは深村さんで僕はおまけだ。だからどうせ僕の内心になんか誰も興味がない。
 しかし「出会って約二ヶ月の大学生との縁を失う」というのがどれだけの代償なのか。僕にとっては寂しい別れでも、そう取ってくれる人間がどれだけいるというのか。
 百歩の家に参加する話がいつから動いていたのか知るよしもないが、金持ちたちにしてみれば僕なんて「最初から百歩の家で捨てるつもりで懐柔していた学生」にしか見えないのではなかろうか。
 だとしたら……こんな決着で満足するだろうか? たったの二ヶ月と50万の代償を払っただけの深村さんに数百万か数千万の価値がある美術品を持って行かれて面白いか?
 何より僕がその性格の悪い金持ちなら、録画ではなくリアルタイムで観たい……。
 閃くものがあった。僕はスマートフォンを取り出し、接続可能なWi-Fiを検索してみた。
 これか。
 案の定、「100STEPS」というふざけた名前のWi-Fiを発見できた。流石にパスワードがかかっているのでアクセスはできないが、今回のために用意したものだろう。
 きっとこのWi-Fiで今も動画をどこかに飛ばしているのだ。
 ただ、リアルタイムで観たい者がいるなら、送り手である卒塔婆たちも当然何か趣向を凝らしているのでは?
 そこまで考えた瞬間だった。
「きゃあ!」
 数部屋向こうから女性の悲鳴が聞こえた。

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 そう、予感はあった。
 僕の破滅なんか観たって面白くないわけだから、当然金持ちたちは深村さんの破滅を用意していたに決まっている。
 そしてあの天主輿図儀とかいう地球儀……明らかに重かった。しかし地球儀というのは中空と相場が決まっているし、別に中身が詰まっている必要もない。
 多分、何かが入っていたのだ。例えば相方を裏切り、勝ちを確信して戻っている挑戦者の心をくじくための仕掛けが……。
 きっと入り口から数えて二部屋目か三部屋の入り口近く、天井のカメラからベストアングルで撮影している筈だ。何より挑戦者が絶望の表情を浮かべるのが保証されているのだから、一番よく撮れる場所に仕掛けるだろう。
 僕は目を閉じ、耳を澄ませる。何かに奮闘しているような息づかいや、「なんでやの」という情けない小声が聞こえてきた。何より泣き声を必死に我慢しているような気配も感じられる。
 なんとなく違和感があった。
 僕の知っている深村さんならこんな時でも超然と構え、何ならさっき裏切ったばかりの僕に「100万出すから手伝って!」ぐらい大声で言いそうなものである。
 まるでたった数分で深村さんがおかしくなってしまったかのようだ。やはり百歩の家には変な魔力があるのか? いや、百歩の家は怪奇現象ではなく、人間の悪意の結晶というのが結論だった筈ではないか。
 いや、ひとまず目標ができた。深村さんを助けに行こう。経緯はどうあれ、向こうが困っているのならこちらに交渉材料はある。
 だが、僕はもっとも安直な「歩数を無視して向かう」という手を選びたくはなかった。
 人間のかける呪いなんか恐れる必要はない。けれど、ここから向こうのルールを呑んだ上で呪いにかからず帰還できたのなら、今度は向こうが僕を恐れるのではないか?
 まず攻略すべきはこの百歩計だ。
 百歩計は見たところ、本体は木製で、流行のスマートウォッチのように生体センサーなんかも付いていないように思える。
 百歩計が巻かれた手首を返して確認する。何の変哲もない皮製のバンドに見える。その気になれば自分でも外せそうだし、ズルだってできてしまいそうだ。
 ああ、そうか。だからカメラがあるのか。
 歩数に関するズルをするのは難しくない。例えば入り口近くで百歩計を外し、置いてくる。あとは悠々と奥まで行き、戦利品を回収しつつ、戻り際に何食わぬ顔で巻き直せばいい。
 だが一部始終を録画しているのなら、疑わしい結果が出た時は確認すればいい。映像を見れば実際の歩数が解るわけだから、参加者だって反論できない筈だ。
 実際の百歩計がスマートウォッチのように生体センサーを搭載していてもおかしくはない。Wi-Fiでどこかとリンクしているのなら、外した瞬間にアウトだ。
 ひとまず、まだそのままにしておこう。
 百歩の家のことを一度忘れて、僕は改めて部屋を観察する。何度見ても珠、玉、球、と大小様々な球体が転がっている。
 そう。球体なら転がる。非力な僕でも簡単に動かすことができるわけだ。
 僕はあるアイデアを閃いた。そして近くに転がっている球体からやや大きめの地球儀を手に取る。そして何かギミックがないか確かめる。
 しめた!
 その地球儀は北半球と南半球でパカッと割れて、南半球部分が物入れになるタイプだった。僕は物入れの蓋である北半球だけ手に取り、南半球部分は台座ごと放り投げた。
 僕はカメラのある側に積もっている球体たちの中から比較的小さいものを北半球で掬い、隣の部屋に向かって捨てた。
 球体たちはゴロゴロゴロ……と音を立てながら、どこかへ転がっていく。
 要は大きめのボウルで室内の邪魔な球体たちを掻き出しているようなものだ。これを何度何度も繰り返せば……ほら。
 ようやくお目当てのコンセントが姿を現した。口が二つあって、一つはカメラと繋がっている。
 僕の目的はこのカメラの電源を抜くことではない。むしろ空いている方のコンセントに用があったのだ。
 まずはコンセント経由でブレーカーを落とす。一時的にカメラも照明もWi-Fiもない空間にするにはそれしかない。
 僕は持ち歩いていた目薬を取り出す。
 確か……漏電でブレーカーが落ちた時は建物全体の電気が落ちるんだったな。
 僕は感電しないように、注意深く作業に取りかかる。

 パァン!

 やがて何かが弾けるような音が響いた瞬間、建物全体が闇に包まれた。アキレス腱が切れる音だと言われたら信じてしまいそうだ。
「いやぁ!」
 数部屋先からまた情けない声が聞こえてきた。今度ははっきりと深村さんのものだと解る。
 もしかして僕はまた何かを見落としているのか?
 いや、その前に解決するべきことがある。
 暗闇の中を歩くのは困難だ。おまけに帰り道の畳の上には僕が撒き散らかした球体が散乱しており、うっかり踏めば転倒の危険性すらある。
 僕はすぐ近くにある襖の表面を撫でたが、かなり丈夫そうだ。試しに指を突き刺そうとしてみたが、破れなかった。和紙ではない素材を使っているのだろう。
 この襖を隣の部屋の畳の上に置き、更に襖の上に僕が乗って、手で畳を掻くようにして進む……畳の上を襖で泳ぐサーファーみたいな感じだ。普通なら畳の上に置いた襖が滑ることはないが、今回は畳と襖の間に沢山の球体がある。
 勿論、球体の大きさにはばらつきがあるので簡単ではないが、襖の直下の球体が転がることでコロのような働きをする可能性がある。
 上手くやれば歩数を消費せずに帰れるかもしれない。
 僕は一度深呼吸をし、そして一息で襖を外した。

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 暗闇の中を移動するのは存外難しくない。何より……暗闇の中の移動は祇陀林の書庫で経験済みだ。
 三部屋分ほど移動しただろうか。近くに誰かの気配を感じた。おそらくは息を潜めて、僕が通り過ぎるのを待っている。
 気配の主は深村さんだろう。さっきの今で気まずいのか、それとも本気で怖がっているのか。心外だけど後者かもしれない。
 しかしいきなり声をかけるのも余計怖がらせるだけだし、どうしたものか……。
 とりあえず気配のする方に少しでも近づこうとした瞬間、転んだ。すぐに何か重くて大きなものに躓いたことだけは解った。
 球体が転がっている畳に前のめりに転ぶと確実に痛い。しかし受け身は間に合わない。
 強い痛みを覚悟して倒れたが、意外なことに倒れ込んだ先は弾力のあるマットレスのような感触だった。しかし畳がこんな感触の筈もない。
 倒れ込んだ先が深村さんの身体と理解したのは彼女が絶叫するのとほぼ同時だった。

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 本気の絶叫……恐怖が深村さんの身体から絞り出したものだ。その迫真の叫びは、深村さんを包んでいた神秘のヴェールを剥がすのに充分だった。
 悩み悩んで、結果最悪の方法を取ってしまったことに気づく。深村さんにしてみたら、今一番会いたくない男に襲いかかられたのと同じだ。
 そもそも気配を殺して去るのを待っていた相手が突然、のしかかってきたら誰だって怖い。僕だって怖い。若い女性なら尚更だろう。
「いや! やめて!」
 全力で暴れる深村さんを僕が制するにはそれこそ馬乗りにならなければ無理だが、勿論そんなことするわけにはいかない。
 せめて言葉を尽くすしかない。
 僕は深村さんの身体から下り、すぐ隣に寝転がる。彼女と真面目な話をしたいのだが、なるべくなら誰にも聞かれたくないのだ。
「ごめんなさい、これはアクシデントです。あと信じて貰えるか解りませんが……助けに来ました」
「嘘や! なんで裏切ったウチを助けに来るんや! 仕返しに来たんやろ!」
「深村さんが上げた悲鳴は一番奥の部屋にも届きました。きっと何か困ってるんじゃないと思ったんです」
「誰もウチを助けてくれへんかったやん。今更そんなの信じられる筈ないやろ!」
「ブレーカーを落としたのは僕です。コンセントに目薬を差しました」
「……ふっ」
 深村さんの口から小さな呼気が漏れた。堪えきれずにいたものが出た感じだ。
 もしかして……笑ったのか?
「あの、深村さん?」
「目薬を目以外に差すなんて初めて聞いたわ」
 そういえば聞いたことがある。関西の人間は笑ったら負けだと。いや、こんな場面でも適用されるようなルールではないと思うが、笑ってしまったことで少し緊張感が弱まったのかもしれない。
「いや、ブレーカーを落としたのは運営側の監視を切りたくて……」
「……それにしても目薬はアホやな。いや、思い切りがええんか」
 僕の言葉を信じてくれたのか解らないが、口調からもトゲが減った気がする。
「でも裏切った相手を助けに来るんはもっとアホやで。全然信じられへん」
 疑り深い……というよりはどこか拗ねた口調だ。
「あなたが僕のちゃぶ台に高値をつけてくれた時、僕はとても嬉しかったんです。それだけじゃ理由になりませんか?」
 あの時の深村さんに感謝しているのは本当だ。それは彼女が僕を裏切っても変わらない。
「……あんなん、アンタの心を掴んで厄介な仕事をさせるための撒き餌や」
「ただの撒き餌なら捨てればいいでしょう? 良い物と思ってくれているから、カタログに入れてくれたんじゃないですか?」
 webカタログでは僕のちゃぶ台は6万5000円の値が付けられていた。
「ウチは……アンタが思ってるような人間やない。ホンマは助けられる価値もないんや」
 深村さんはそう言うと……静かに泣き始めた。暗くてどんな感情で泣いているのか解らなかったが、そのすすり泣く様はとても弱々しい。
 そんな深村さんの姿に橘人や祇陀林の姿が重なった。まるで大人たちの都合を押しつけられた子供が助けを求めている子供のような……。
 もしかして……そういうことだったのか? 
 僕は唐突に真実に辿り着いた。強引な結論なのは否めないが、ここまで見過ごしてきた違和感を説明するにはこう考える他ない。

 僕は返事を期待せずに深村さん……いや、魔美に尋ねた。

「お前が妹だったんだな?」

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