第13話 書楼 祇陀林②
今回の仕事先である「書楼祇陀林」についてはネットでいくら調べても一切の情報が得られなかったが、実は副産物もあったのだ。
まず祇陀林という単語そのものを知ることができた。
祇陀林とはもともと祇園精舎の正式名称である祇樹給孤独園精舎の略称の一つらしい。祇園精舎といえば仏が多くの教えを説いた、仏教における聖地中の聖地だ。
そしてかつて京都には祇陀林寺ぎだりんじという、そのものの名前の寺があったらしい。そこには評判の茶磨師がいて、「祇陀林」という言葉が茶臼の代名詞になるほどだったそうだ。
僕が祇陀林寺について解ったのはそれぐらいだ。室町時代末期にはまだあったらしいが、今ではその存在を記す文献もほとんどなく幻の寺とされているのだという。
だから僕にできたのは調べ物を終えた後に抹茶を飲んで、茶磨師の仕事に思いを馳せることぐらいだった。
だがこの知識はここに来て意味を持ち出した。
書楼祇陀林の五百年以上という歴史と膨大な蔵書。そして寺のような外観とその名前……。
もしかしたら、書楼祇陀林の初代店主はなくなった祇陀林寺に縁があった者だったのではないだろうか? 例えば焼失した寺の蔵書を命からがら持ち出し、それを守るために古本屋という形でその知の聖域を再興したとか。
やがて長く営業している内に蔵書は次第に膨れ上がり、市街地に置く場所がなくなって、やがて人里離れた土地に店を移した……。
以上が僕の考察だ。 何の学術的裏付けもないただの切り貼りなので、妥当性は保証しない。
ただ、そう仮定することにより不必要に怯えたりしなくても済む……これが幽霊だの死者の蘇生だのに惑わされて来た僕なりに編みだした対応策だ。
「なんだ、その顔は? 何か気に食わないことでもあるのか?」
目の前の褐色の肌の少女からそう尋ねられて、僕は言葉に窮する。
書楼祇陀林の来歴をいくら想像したところで、深村さんから聞かされた「店主は五百年以上代替わりしていない」という部分にはまだ説明がつけられていない。更に、目の前の少女が祇陀林を名乗ったことで余計に解らなくなった。
まず彼女の言葉をどう受け止めればいいんだ。
僕は助けを求めるようにいついさんに視線を送った。だが、いついさんは微かに微笑んだだけで何も答えてはくれなかった。
そう、深村さんが口にした「祇陀林のババア」という呼び名が、いついさんを指したものならまだ解る。でも祇陀林を名乗ったこの少女はあまりにもそのイメージからかけ離れている。
僕は覚悟を決め、目の前の少女に向き直った。
「失礼ですが……どうしてあなたが祇陀林を名乗っているんですか?」
僕の問いに少女はまるで出来の悪い生徒に語りかける教師のようにこともなげに答えた。
「祇陀林とは屋号であり、店主の名でもある……わしが名乗ったら変か?」
「ですがあなたはどう見ても……」
とはいえ若い少女の姿を不躾に眺めるものではない。僕は彼女の右上の虚空に視線を漂わせながら、そう言った。
「ああ、この見た目のことか」
少女……祇陀林は自分の小さな手を眺めながら続けた。
「わしは五百年以上生きておるだけじゃ。だが、その間にこの国で起こったこと、この場所に持ち込まれた書物の記憶、そのすべてがこの頭の中にある」
これまでの仕事で僕は数々の不思議な出来事に遭遇してきた。そのおかげで常識では計れない物事への耐性は多少なりともできているつもりだった。
だが流石に目の前の少女が室町時代から生き続けているという言葉を鵜呑みにするほど僕は純粋ではなかった。
きっとこれは何かの試験なのだろう。僕がこの仕事に値する人間かどうか、その器量を試しているのだ。
ならばこちらも試させてもらう。
「……解りました。では一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんじゃ?」
僕は歴史好きの人間なら誰もが知る有名な俗説を口にすることにした。
「もしあなたが本当にそれほどの時を生きているのならどうか教えていただきたい。明智光秀がその後南光坊天海として生き延びたという説があります。その信憑性についてあなたのご見解を……」
言い終えないの内に祇陀林はそれまでの静かな雰囲気を一変させ、雷のような声で一喝した。
「無礼者ッ!!」
その声は子供のそれとは思えないほどの威圧感を持ち、書院の空気をびりびりと震わせた。
「お主、わしを試そうとしておるな?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「言い訳は聞かぬ!」
そして祇陀林は立て板に水という調子でまくし立てる。
「わしにとって古い記憶を訊ねられるということは、衆目の前で己の秘所を見せろと言われるのと同義じゃ。五百年余りの記憶はわしの一部。それを何故会ったばかりの素性も知れぬお主に切り売りしてやらねばならぬのじゃ!」
その剣幕に僕は完全に気圧されていた。だが同時にこうも思った。
それはズルくないか……そのロジックが通るなら、こちらの質問から逃げ放題ではないか。
僕のそんな内心を読み取ったかのように祇陀林はふっと表情を緩めると、実に楽しそうな声でとんでもないことを言った。
「まあよい。ならばお主が喜びそうな話を一つ、教えてやろう」
「え?」
「羽柴秀吉はな、二人おったんじゃぞ?」
「……は?」
僕の思考は停止した。
羽柴秀吉が二人? どういうことだ?
僕が混乱していると祇陀林は勝ち誇ったように言った。
「ほら、見ろ。わしがこうしてお主の知らぬ歴史の真実を語ってやったところで、それが本当のことなのか、作り話なのかお主には判別できまい?」
「……確かにそうです。申し訳ありませんでした」
反論できなかったので素直に謝ることにした。
本当は羽柴秀吉の詳細を訊きたいところだが、今の彼女が教えてくれる筈もない。
そして僕は本来の目的を思い出した。
「あ……そういえばスマートフォンっていつ返していただけるんですかね? おつかいの詳細はそちらに記録してしまったもので」
だが祇陀林は心底呆れたような顔で、こう言い放った。
「お主……ここへ来る時どうしてスマートフォンを取り上げられたのか解っとらんのか?」
「いえ、場所が極秘だからとだけ……」
「はあ……深村堂の小娘もしっかり説明しておけというのに……」
僕が正直に答えると、祇陀林はまるで理解の遅い生徒に言い聞かせるように説明を始めた。
「この祇陀林には五百年以上かけて集めた無数の蔵書がある。その中には歴史の表舞台から消されたもの、時の権力者にとって都合が悪いせいで葬られたはずのものが少なからず含まれておる。わしが誰にもこの場所を明かさぬのはそれらを守るためじゃ」
その言葉に僕の心臓は高鳴った。
「……それはつまり禁書も扱っているということですか?」
「だからそう言うておるだろうが」
祇陀林はさも当然のように言い切った。
禁書……その甘美で背徳的な響き。僕は不覚にも胸がときめいてしまうのを感じた。
高校生の頃、図書館や古本屋の隅で誰にも見向きもされないような本を手に取るのが好きだった。「どんな本だって世に出た以上は著者も読者もいる」という事実がなんだか嬉しかったのだ。
あるいは誰にも見向きもされない本を友達のいない自分に重ね合わせていたのかもしれない。そんな僕にとって「禁書を管理する、五百年以上の歴史を持つ秘密の古書店」という存在はあまりに魅力的すぎた。
「深村堂から頼まれておったのは明治十五年刊、東山隠士の『洛東巷説顛末』じゃな。これならお主のスマートフォンは要らぬじゃろう?」
祇陀林は苦も無く諳んじてみせた。
「ちなみにどのような内容なんですか?」
「幕末の祇園を舞台にしたちょっと下世話な娯楽読み物じゃが……かなりその内容は実話に近く、明治政府の要人にとっては不都合なものが多く含まれていたとかですぐに狩られてしもうた。まあ、幸いにしてウチには数冊残っていたがの」
確かに歴史マニアなら垂涎の本だ。なんなら僕だって読みたいぐらいだ。
「あの……」
僕はほとんど衝動的に身を乗り出していた。
「なんじゃ?」
「本は僕が自分で取りに行きますので、どうか書庫に入らせていただけませんか」
今の時点で深村さんのおつかいは割とどうでもよくなっていた。あんなものは失敗したところで10万円が手には入らないだけだ。
それよりも人間の知と闇が眠る書庫をこの目で見てみたくなったのだ。禁書だって中身まで読めなくてもいい。ただ、どこかに納められている様子を見たい……。
だが僕の言葉を聞いた祇陀林はそれまでの尊大な態度を崩し、腹を抱えて笑い出した。少女の甲高い笑い声が書院中に響き渡る。
「くくっ……あははは! 面白いことを言う小僧じゃ! お主、自分が何を言うておるのか解っておるのか?」
ひとしきり笑った後、彼女は涙の滲んだ目で僕を見るとこう言った。
「書庫に一人で行くじゃと? そりゃ、わしとしても手間が省けて良いが……死ぬぞ?」
「……はあ?」
書庫で死ぬとはどういう意味だろう。
「ついてこい」
祇陀林はそれだけ言うと、僕に背を向けて部屋の奥にある扉へと向かう。 僕が慌てて後をついていくと扉の先には地下へと続く、長い階段があった。
書院内の空気とはまた違う、ひんやりとした空気が僕の頬を撫でる。まるで冥界への入り口だ。
「ごゆっくり」
いついさんの言葉を背に受け、僕はゆっくりと階段を降り始めた。
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階段を降りきると、そこには扉が一つあった。
「騒ぐでないぞ」
祇陀林は僕に釘を刺して、扉を開ける。そしてどこからか取り出した懐中電灯のスイッチを入れる。
業務用なのか光量が凄く、空気中の塵を通った光がライトセーバーみたいに出力された。
「行くぞ」
祇陀林が照らしたものを見て、僕は目を疑った。
「うわ!」
扉の向こうには信じられないほど広大な地下空間が広がっていた。そして見渡す限り、どこまでも続く本棚の列があった。
思わず声をあげてしまった僕の腹部を祇陀林が肘で刺す。
「たわけ。騒ぐでないと言っただろうが」
「すみません」
深呼吸して周囲を観察する。
祇陀林が懐中電灯を持参しただけあって常設の照明はおろか非常灯もない。
祇陀林の懐中電灯の先には岩肌のようなものも見えるが、湿度が高い感じはしない。なんらかの設備によって一定の湿度と温度に保たれているのかもしれない。
「ここが祇陀林の書庫じゃ」
書庫を作るために山の中をくりぬいたのか、それとも大空洞を書庫に転用したのか……いずれにせよ、それはもはや書庫などというスケールでは納まらない、知の迷宮そのものだった。
「随分と暗いんですね」
「暗くても別にそう困らんからな」
そこまで言って、祇陀林は何かを思い出したようにこう言う。
「……いくら暗いからと言って、ライターや松明で明かりをとるでないぞ」
「本が燃えるからですか?」
「それもあるが……この書庫は火災を察知したら、酸素濃度を下げる仕掛けが施されておる。その場に出くわしたら窒息死は免れんだろうな」
水で消火しないのは本を傷めないためだろうが、徹底している。
「殺意が高いですね」
「当たり前じゃ。こんなところに火を持って入るやつは泥棒か放火魔しかおらん」
確かに禁書が存在する以上、そこまで想定していてもおかしくはないか。
「じゃあ、ここで遭難したらどうなります?」
「さあ、どうじゃろう。もしかしたらミイラか屍蝋になれるかもな」
それが彼女なりのジョークなのか、僕には判断をできなかった。
「で、『洛東巷説顛末』もこの書庫のどこかにあるという解釈で間違いないんでしょうか?」
祇陀林は何かを思い出すように一瞬宙を睨み、そして独り言のように暗号めいた言葉を口にした。
「確か、とりの花見はなみに、うまの夫婦箸ふうふばしじゃったな……」
言葉の意味は解らないが、そんな風に聞こえた。
「ふうふばし?」
僕が思わずそう復唱すると、祇陀林が一喝されたた。
「勝手に聞くな!」
狼狽したような祇陀林の声がこだまする。この書庫はどれだけ広いのだろうか。
「……まあよい。どうせお主には解らんだろうからな」
祇陀林は余裕を取り戻したように、僕の顔を下から覗き込む。
「さて、どうする? 灯りぐらいは恵んでやるが、これから一人で探しに行くか? 運が良ければ一時間で戻って来られるぞ?」
なんて意地が悪いんだ。一人で探しに行くなんて無理なのに。
僕が諦めた顔で首を横に振るのを見て、祇陀林は満足げに頷いた。
「そうじゃろうな。この書庫で案内もなしに目的の書を見つけられた者はこの五百年余りで一人もおらぬ」
そして彼女は僕に選択を突きつけてきた。
「さて……わし自ら案内してやってもよい。じゃがその場合は一ヶ月、ここでわしの労働力となってもらうがそれでも良いか?」