第12話 書楼 祇陀林①
三月も半ばを過ぎた。
尾張谷家の一件があってから深村堂から足が遠のいている。相変わらず金策に追われてはいるがそんな気分になれないのだ。
求人サイトを眺めていると、人間を安く買い叩いた仕事しかない。だから僕は自分の尊厳を守るためにもなるべくコスパのいい仕事を求めていた。
でも現実はどうだ。
高報酬をポンと寄越すような連中はみなどこか汚れていたではないか……そしてその事実から目を逸らして、穢れた金を受け取ってきたのが僕だ。
別に金で自分の尊厳を売ったわけじゃない。だけど……橘人を救えたのではないかというたらればが頭から離れないのだ。
勿論、僕にポジティブな変化もあった。意識的に遠ざけていた「誰かに何かを教える仕事」が案外楽しくて、この際やってみてもいいという気持ちになれたことだ。
ただ、それは気持ちだけの話で……実際に家庭教師や個別指導の求人を眺めていると、どうしても橘人のことが頭をよぎる。
京都の大物である、四方田大観が怪我をした件については続報はない。犯人と目されている橘人は未だに逃亡中なのか……。
あいつ、餓えてないかな。まさか死んでないとは思うけど、どうしてるんだろう。
しかしいくら考えようが、一般人である僕はその答えを得ることができない。
……仕方ない。行くか。
僕は久々に深村堂を訪ねることにした。
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深村堂の引き戸を静かに開けると、店の奥から苛立ちを帯びた声が聞こえてきた。
「……ですから何度も言うてるやないですか。そちらの流儀は分かってます。せやけど、それはいくらなんでも殺生ですよ」
声の主はこの店の若き女主人、深村魔美さんだった。
定位置である帳場で通話をしているが、こちらには背を向けているので僕にはまだ気づいていないようだ。いつもはどんな相手だろうと手玉に取りそうな深村さんが通話相手に手こずっている。それもかなり一方的にだ。
「そもそもそんなに店を空けられへん状況ですし、こっちにも都合ちゅうもんが……ああ、もう!」
通話が終わったようだ。驚くべきことに深村さんは舌打ちまでした。
「……ああ、いらっしゃい」
僕が店に入ってきたことに気づいた深村さんはスマートフォンを座布団の上に放り投げる。彼女の虫の居所が悪いのはもう明らかで……僕は踵を返したくなった。
「……何か、あったんですか?」
それでも恐る恐る尋ねると深村さんは大きなため息をつき、僕の存在を忌々しげに、しかし同時に何かを思いついたような目で見た。
「祟。あんた、ちょうどええとこに来たわ」
「はあ」
「今、電話してた相手、誰やと思う?」
そんなことを訊かれても解る筈がない。深村さんは僕の返事を待たずに続けた。
「書楼 祇陀林や」
書楼……ぎだりん? 聞いたこともない名前だった。どこかの大きな問屋だろうか。
僕がきょとんとした顔でいると深村さんは心底呆れたように言った。
「知らん? 京都で一番古くて、一番厄介な古本屋や」
「古いってどのくらいですか?」
深村さんは指を五本開いてみせた。今回ばかりはそれでもう答えが解った。
「ご、五百年……?」
「正確にはもうちょっと長いらしいけどな。まあ、日本最古の古本屋と呼んでええやろ」
文字通りの老舗ではないか!
「ほんで祇陀林の店主は創業してから一度も代替わりしてへん、っていう話や」
日本の最古の古本屋、そして五百年以上生きている店主……にわかには信じがたいがこの京都という街ではそういった与太話が時として真実味を帯びる。
橘人の消息を尋ねに来た筈なのに、気づけば僕は書楼祇陀林の話を聞きたくて仕方がなくなっていた。
自分の薄情さに嫌気が差すが、反省は後だ。
「その祇陀林と何の話をしてたんですか?」
「太いお客さんから『どうしても手に入れてくれ』って頼まれた本があってな。どう考えても祇陀林にしか残ってへん稀覯本や。せやから買い取りの交渉しよう思うて、電話したんやけど……」
深村さんは心底うんざりしたように、こめかみを押さえた。
「何て言うたと思う? 『欲しけりゃ自分で引き取りに来い。ついでに溜まってる貸しも返せ』やて。ふざけとるやろ、あのババア!」
ババアなんて普段の彼女からは想像もつかない言葉遣いに僕はまた驚いた。
「貸しを返せですか? なんでまた……」
「嫌がらせや」
深村さんは吐き捨てるように言った。
「祇陀林のババアは全部憶えとるんや。深村家のご先祖様が過去に何をやらかしたか、どんな大きな借りを祇陀林に作ったか。そういう何百年も前の話を事あるごとに蒸し返すんや」
「……ご先祖様の借り?」
「そうや。ご先祖様のやらかしにきっちり現代の貨幣価値で利子を上乗せして、子孫のウチに払わせようとしてくるんや。かといって無視してるとどこからか家の恥になるような情報を吹聴しよる。ほんま、厄介極まりない相手なんや」
なるほど。怖いもの知らずに見える深村さんにもこんな弱点があったのか。いつもは僕が彼女にやり込められる側だが今はその力関係が逆転している。その状況に僕は少しだけ面白くなってしまった。
しかし僕の口元が微かに緩んだのを深村さんは見逃さなかった。
「なあ、ちょっとおつかいを頼みたいんやけど……ギャラは10万で」
そして深村さんは黒曜石のような瞳をすっと細めると、こう続けた。
「ウチの代わりに祇陀林まで行って、その古本取ってきてくれへん?」
それはまるで僕の心を完全に見透かしたかのような提案だった。
たとえ10万円貰えようが、行くべきではないのは解っている。深村さんがあれだけ忌み嫌う以上、きっと祇陀林には何か裏がある。下手をすると帰ってこられない可能性だってある。
だが断ってしまえば五百年以上生きているという祇陀林の店主の謎を解明する機会はもう来ないだろう。この先、死ぬまでその答えが解らないことに悩まされるのは目に見えている。
いや、それでもそんな理由で怪しい仕事をするべきではない……そう頭では解っていた。
「はい。やります」
悪魔は囁き一つで人間の曖昧な決心などたやすく吹き飛ばせる……そんなことを思い知った。
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翌日、深村さんに指定された集合場所は四条河原町の交差点だった。
午後二時、デパートのショーウィンドウの前。僕は行き交う人々の波に飲まれそうになりながら約束の相手を待っていた。
確かにこの辺りは古本屋が多いのだが、「書楼祇陀林」という店はネットでいくら検索してもその存在を示す情報は一片たりとも出てこなかった。
京都の中心部に実店舗がない老舗……どういう存在なのだろう。
「神田祟さん、ですね?」
突然背後から低い声で呼びかけられた。振り返るとそこにいたのは上等な黒いスーツに身を包んだサングラスの男だった。その体格の良さと隙のない佇まいは明らかに堅気のものではない。
僕がこくりと頷くだけで精一杯なのを確認すると、男は顎で近くの路肩を指し示した。そこには黒塗りの高級車がまるで周囲の喧騒など存在しないかのように、静かに停車していた。
「目的地までお連れします」
男は抑揚のない声で言った。
「ただし場所は極秘ですので。あなたのスマートフォンを一時お預かりします」
拒否権などある筈もなかった。僕は唯一のライフラインであるスマートフォンを大人しく男に差し出す。
「乗り込んだらこれを装着して下さい」
そう言ってさらに男は懐から黒い布を取り出した。目隠しだった。
ギャンブル漫画でしか見たことのない展開で、自分がとんでもない仕事に手を出したことをようやく理解した。このまま国外に送られても自業自得だ。
……いや、もうどうにでもなれ。
そう思いながら僕は目隠しを受け取った。
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一体どれくらいの間、車に乗っていただろうか。
目隠しによって視覚を奪われた僕の感覚はすっかり狂ってしまっていた。エンジンの振動と、時折身体を揺らすカーブだけが移動しているという事実を教えてくれる。
走行時間から場所を割り出せるか?
一瞬そんなことを考えたがすぐに無意味だと判断した。相手はプロだ。移動距離を誤魔化すために、わざと速度を調整したり、同じ場所を何度も周回したりしている可能性が高い。僕は思考を放棄し、ただ身を任せることにした。
やがて車の振動が止まる。
重いドアが開けられ、外の空気が流れ込んできた。ひやりと冷たい、濃密な植物の匂い。黒服の男に腕を取られ車から降ろされると、ようやく目隠しが外された。
眩しさに目を細めながら僕が見たのは鬱蒼とした木々に囲まれた深い山だった。
「こちらへ」
黒服の男はそれだけ言うと、苔むした石が転がる道を進んでいく。
僕は必死にその後ろをついていった。移動中も場所を特定できるような情報は得られず、鳥の声と風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
どれくらい歩いただろうか。上り坂の終わりで、不意に男が足を止めた。
「……祇陀林です」
僕は息を少し切らしながら、男の隣に並ぶ。両膝に手を置いて疲れた身体を支えた後、息を整えて顔を上げる。
そこにあったのは山の斜面をくりぬくようにして建てられた巨大な寺だった。それは古本屋というより、歴史ある名刹そのものの威容を誇っていた。
……なんというか、祇陀林という存在を舐めていた。山の一部をくりぬき、これだけ大きな建築物を建てられる存在が弱い筈がない。下手をすれば四方田大観なんか問題にならないほどの権力を持っている可能性がある。
粗相があれば最悪消されるだろうし、そうでなくても生きて京都市に戻れない可能性はある。
それでも……この建物の主の顔を拝んでみたい。可能なら不老不死の理由も訊いてみたい。他にも訊いてみたいことが沢山ある。
「……どうしました?」
黒服の少し困惑したような声で、僕は自分が嗤っていることに気づいた。好奇心が恐怖を僅かに上回ったのだ。
「いえ、自分の小ささを思い知りまして……」
僕がそう答えると、祇陀林の門の扉がぎぃと音を立てて開かれた。
中から現れたのは白髪の小柄な老女だった。簡素な墨染めの衣を身にまとっている。そして何より一際目を引いたのは彼女の目に巻かれた真っ白な布だった。
目隠し……この人は目が見えないのか?
だが僕の困惑はすぐに驚きに変わった。
彼女は石段をまるで平地を歩くかのようにひょいひょいと軽やかに降りてくるのだ。とても目が見えない人間の動きとは思えなかった。
やがて僕たちの前に降りてきた老女はこう告げた。
「よう来ましたな。ここからはわしが案内しましょう」
その言葉を聞いた黒服の男は肯くと、僕たちに背を向けて元来た道を戻っていった。
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僕は謎の老女に先導されて祇陀林の石段を上がっていた。やはり老女の足取りには一切の淀みがない。
僕がそのあまりに不可解な光景を訝しむように見つめていると、老女は石段を上りながら笑った。
「わしの足取りがそんなに不思議ですかな?」
「い、いえ……」
心を読まれた気まずさに、言葉が出てこない。
「この石段は段数や幅が日々変化するわけでもない……足が憶えさえすれば、眼で見なくても歩けますぞ」
そりゃ……理論はそうだがそんな恐ろしいこと、できる気がしない。
「案外できますよ。まあ、わしの場合は時間だけはあったので」
この人は心まで読めるのか。なんだか妖怪と喋っているような気分だ。
やがて石段を上り終え、祇陀林の玄関に辿り着く。
僕が靴を脱いでいると、彼女は更にギョッとするようなことを口にした。
「わしは石段だけではなく、この祇陀林の建物全体を憶えております」
「そんなことが本当に可能なんですか?」
失礼は承知で思わず尋ねてしまう。だが彼女は気分を害した様子もなく、こう答えてくれた。
「人間というのは面白いですぞ。五体満足に生まれついてもその能力ちからのほとんどを使わずに死んでいく……実に勿体ないことです」
目の見えない人にそう言われてしまうと、僕なんかは何も言い返せない。
そういえば彼女が深村さんの言っていた「祇陀林のババア」なのだろうか。
「あの、失礼ですが、あなたのお名前は?」
「名前を尋ねられるなんて久しぶりですな。"いつい"とでも呼んでくだされ」
いついさんか。少し変わった名前だ……。
僕はいついさんの案内に従って、どこまでも続くかのような板張りの廊下を進んだ。外観から想像していたよりもこの建物は遥かに広大でそして複雑な構造をしているようだった。まるで巨大な迷路だ。
やがて老女はひときわ大きく、荘厳な彫刻が施された襖の前で足を止めた。
「書院です。どうぞ」
そう言うと彼女は音もなく襖を開け、僕を中に促した。
通されたのは木張りの床の広い部屋だった。
天井は高く、壁は巨大な書架で埋め尽くされている。そこに収められているのは和綴じの本や、巻物、唐本、そして異国の革張りの本まである。
部屋の中央には一枚板で作られた巨大な机が置かれ、部屋全体が古い紙と墨、そして香木の甘く乾いた匂いに満たされていた。
ここが祇陀林の心臓部なのだ。僕は直感的にそう理解した。
でも、これで仕事の本題に入れる。
そう思った僕はいついさんに向き直り、口を開いた。
「あの、深村堂さんから聞いてると思いますが、本を取りに来まして……」
しかしいついさんは僕の言葉を遮るように、静かに首を横に振った。その反応の意味を考える間もなく、叱責の声が飛んできた。
「無礼じゃぞ。小僧」
この場に似つかわしくない可愛い声が聞こえてきた。
「わしの機嫌を損なったら、二度とここから帰れぬとは思わんのか?」
声は書架の裏の方からする。そうか……彼女は最初からこの部屋の中にいたのだ。
固唾を呑んで待つと書架の影から声の主が現れる。だがそこに立っていたのは着物姿の少女だった。
歳の頃は中学生ぐらいだろうか。日に焼けたというのとは違う、生まれつきのものであろう滑らかな褐色の肌と尼削ぎにされた銀の髪は僕の目を捉えて離さなかった。
そして何よりも僕の視線を奪ったのはその瞳だった。琥珀のように透き通ったその瞳はとても十代の少女が持つものとは思えない、五百年の時の流れを、ただ静かに眺めてきたかのような深い光を宿していた。
その圧倒的な存在感を前に声も出せずにいる僕にその少女はこう言い放った。
「よう来たな。わしが祇陀林じゃ」