第14話 書楼 祇陀林③
祇陀林で一ヶ月も働く?
寝耳に水の提案に僕は狼狽した。確かに祇陀林に興味があったのは事実だし、実際に働けるなら書楼祇陀林の秘密にも迫れるだろう。
「あの……一ヶ月働く場合、スマートフォンは触れませんか?」
「駄目に決まっておろうが」
僕の言葉は祇陀林に一蹴された。
まずい。ソーシャルゲームのログインが途切れるし、イベントも消化していない。
いや、ソシャゲ断ちの良い機会かもしれないが今じゃないんだ! お別れは自分のタイミングで言いたいのに!
……という冗談はさておき、僕には他に切実な理由があった。
四月になったら学部の窓口に休学届を出すつもりだったのだ。現時点では学費を一括で払えるほど貯金がないのもあるが、あと2単位取れば卒業だし、とりあえず前期だけでも休学しておこうかと思ったのだ。
今から一ヶ月後ならまだ休学届を受け付けている可能性はある。だが学部の窓口というのは時に学生の想像を超える事務処理をする。最悪なのは学費の支払いが確定してしまい、そして支払えなくなることだ。
……できれば、そんななし崩し的な中退だけは避けたい。
僕は必死で頭を回転させ、この絶望的な状況を打開するための光明を探した。
そうだ、祇陀林はこう言った。「案内もなしに目的の書を見つけられた者は一人もおらぬ」と。それは裏を返せば……。
「……あの」
僕は震える声で一つの可能性を提示した。
「もし僕があなたの案内抜きに、自力で『洛東巷説顛末』を見つけ出せたなら……その場合は一ヶ月働かなくてもいいんですよね?」
僕のその言葉に祇陀林は初めて少しだけ困ったような、哀れなものを見るような顔をした。
「……ふむ。確かにそれも一つの選択肢ではあるが……だが、わしはお主を見殺しにしたいわけではないのだが……」
「やっぱり死にますか」
現実感がなくて、つい他人事みたいに訊いてしまった。
「確実に迷うからな。いや、迷うように作ってあるというべきか」
そう言って祇陀林は入って来た扉を指差す。
「そこの扉から書庫に入るとな、丁度真南を向くようになっておる」
そして祇陀林は身体の向きを真南に修正して、懐中電灯で先を照らす。
その先には書棚に挟まれて、どこまで続いているのかも定かではない通路があった。
「そしてここの書棚はきっちりと向きを揃えて並べてある。従ってここの縦軸と横軸の通路はそれぞれ南北と東西に伸びておるわけじゃ」
「つまり通路が碁盤の目状になっているということですか?」
「……書棚は碁盤の目ほどゆったりとは並べておらん。せいぜい格子状じゃ」
言われてみたらそうだ。馬鹿だと思われたかもしれない。
改めて背後を見る。流石に降りてきた階段の分の空間までは誤魔化せなかったようで、凝視すれば天井から柱のように伸びているのが解る。仮に迷っても、この柱さえ見つけることができれば扉は見つけられそうだ。
そんな僕の内心を見透かしたのか、祇陀林は釘を刺す。
「この階段さえ見つければ……と思うじゃろ? でも離れると案外見えんからな。そういう風に作ってある」
僕が思いつくぐらいのことは対策してあるというわけか。でも逆に言えば、この扉の位置さえ見失わなければ帰れるということではないか?
「じゃあ……例えばそこのドアノブにロープを結わえて、もう一端を握って歩くというのはどうですか? いざとなったらロープを辿れば帰れます」
「それもあまりオススメはせんな」
そう言うと祇陀林は懐中電灯を近くの書棚に向ける。
「古そうな本が詰まってますね」
「見るべきは本ではなく書棚じゃ」
促されたので照らされた書棚に近づいてみる。
なるほど、木製で納められている古本に負けず劣らずの年代物だ。
「ここの書棚も老朽化が進んでおる。何かの拍子でピンと張ったロープが書棚に触れたら、倒壊するやもしれぬぞ?」
「倒壊させた結果、元のルートが塞がれて帰れない可能性もありますもんね……でもあまりに怖すぎませんか?」
「痛いところを突かれたな。実はその内直そうとは思っているのじゃがなあ……引っ越すのとどっちが楽かのう」
暗闇の迷宮ゆえにメンテナンス性が悪いとは。まあ、そこまで慎重にならないと秘密は守れないのだろう。
「……歩きながらパンくず落としたらダメですか?」
「ヘンゼルとグレーテルか? 虫が湧くわ!」
そう言いながらも表情は少し緩んでいる。面白がってくれたようだ。
「……でもわしについて学べば、じきに書庫を一人で探索できるようになるやもしれんなあ」
一ヶ月の強制労働か、書庫の中で孤独に死ぬか、か……思わず深村さんを恨んだ。おつかいと言いつつ、僕をいいように使ったわけだ。
僕はその二択を前に何も答えを出せずにいた。だから、こんな提案をしてみた。
「……すみません。少し考えさせてください」
「は?」
「とりあえず保留でお願いします」
僕がそう言うと祇陀林はやれやれと呆れたように肩をすくめた。
「わしがここまで譲歩しておるのに、呆れた奴だ……」
「すみません」
「まあよい。何も説明しなかった深村堂の小娘も悪いからの。一度、上に戻るぞ」
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再びあの長い階段を上り、書院へと戻った僕たちをいついさんは出迎えた。
「祇陀林様。そろそろ夕餉の時間にございます」
その言葉に祇陀林はそれまでの神のような尊大さをすっと消し、ぱっと顔を輝かせた。
「おお、そうじゃったな! 小僧、腹は減っておるか?」
僕は首を縦に振る。
「では行くぞ。ついてこい!」
書院の外に駆けだした祇陀林を追う。先ほどまでとは違って軽快な足取りで、板張りの廊下をタタタと走っている。五百年以上も生きたら関節もすり減っていそうなものなのに、僕なんかよりずっと元気だ。
祇陀林に連れられて辿り着いたのはキッチンだった。巨大な業務用冷凍庫がいくつも並んだ、殺風景な部屋だった。
「何でもあるぞ。何がいい?」
祇陀林はまるで宝物庫でも見せるかのように得意げに冷凍庫の扉を開けてみせた。中にはステーキ肉、ハンバーグ、魚の切り身、餃子など、ありとあらゆる冷凍食品がぎっしりと詰まっている。
山奥だから仕方ないとはいえ、歴史ある古本屋の食事がこれなのはちょっとシュールだ。近くに炊飯器があるところを見ると、米だけは都度炊くらしい。
「そうですね……」
僕は「なんでもいいです」と続けかけて、思いとどまった。
祇陀林の瞳が冷凍庫の中の一点――分厚いサーロインステーキの箱――に釘付けになっていたからだ。その琥珀色の瞳は純粋な食欲で輝いている。それは不老不死の怪物の目ではなく、カロリーを求める十代の少女の目だった。
ああ、そうか。冷凍食品は賞味期限に融通が利くとはいえ、栄養のバランスを考えたら毎日好きなものを食べるわけにもいかない。でも今日は僕という来客がいるから、多少崩してもいいのか。
僕はそんな彼女に配慮して言葉を変えた。
「ステーキなんか嬉しいかなと」
その瞬間、祇陀林の表情が歓喜に満ちたものに変わった。
「なんじゃ、ずうずうしい奴じゃのう」
僕の不躾を咎めながらも、その声は妙に嬉しそうだった。
「でも足りないかもしれませんので、できれば他にも選んでいただけると助かります」
「わしにフルコースを選べと? 仕方ないのう……」
祇陀林は冷凍庫に頭を突っ込むようにして選別を始めた。
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しばらくして僕と祇陀林といついさんの三人だけの食事が始まった。
電子レンジで温めただけの味気ない冷凍食品だと思っていたが、なかなかに美味しい。そして間違いなく僕の自炊よりは栄養がありそうだった。
「うまいのう」
祇陀林は上機嫌で肉を頬張っている。その様子を見て、日頃気の利かない僕にしてはなかなか良い機転だったなと思った。
そんな僕の視線に気づいたのか、祇陀林は肉を飲み込むと食事の手を止め、僕に尋ねる。
「ところでつかぬことを訊くが、お主にはどんな友人がおるんじゃ? 世間の若者がどんなことをしているのか少し気になってのう」
僕は即答する。
「え、友人はいませんけど……」
一瞬、祇陀林が狼狽する。五百年以上生きた者とは思えない顔をしていた。
「いや、おらんということはないじゃろう……仮にも大学生じゃろ?」
「嘘じゃないんですよ。本当に友人ができなくて四年間ひとりぼっちで過ごしました。そして、そんな大学生活ももうじき五年目に突入します」
いついさんまで絶句しているのを見て、僕は自分のやらかしにようやく気づいた。
祇陀林が知りたかったのはあくまで今の若者の暮らしぶりであって、僕に友人がいないことではない。反応するべきところを間違えてどうする。
「すみません。コミュニケーションが下手なもので……こんなだから、ひとりぼっちなんでしょうね」
しかし祇陀林はそんな僕を蔑むわけでもなく、ただこう漏らした。
「……お主も孤独なんじゃな」
お主も?
「祇陀林様も孤独なんですか?」
「うっさい、孤独じゃないわい!」
祇陀林は声を張り上げて否定する。だがあまり怒っているようには見えなかった。
「……祇陀林は孤高なんじゃ。そこのところ、間違えるでないぞ」
それから祇陀林はまるで鳥の雛のように僕に外の世界のことを質問し続けた。
今、流行っている音楽は何か。スマートフォンで遊ぶゲームとは、どんなものなのか。学校とは楽しい場所なのか……。
僕はその一つひとつに拙くも誠実に答えた。彼女の問いは五百年の記憶を持つ賢者のものではなく、世界から隔絶された一人の少女の切実な渇望のようだった。
もしかして……そういうことなのか?
やがて僕は自分からの質問をしてみることにした。
「ところでこの書庫には何でもあるんでしょうか?」
「物にもよるが、お主が知っているような本ならあるかもしれんな」
僕の問いに祇陀林は茶碗を片手に、自信満々に答えた。
「では……『黄母衣内記きぼろないき』という本に興味があるんですけど、こちらにあったりしますか?」
僕の質問を受けて、祇陀林はしばらく宙の一点を見つめていた。だがその目は次第に泳ぎ始める。
「ええと……どこじゃったかの……」
その言葉はこれまでと打って変わって、曖見で中身がないように聞こえた。そして何よりも奇妙だったのは祇陀林がそう言った瞬間、ちらりと隣に座るいついさんの顔色を窺ったことだ。
僕がその様子を訝しんでいると、いついさんは穏やかだが有無を言わさぬ口調で言った。
「五百年以上生きていると咄嗟には思い出せないことも増えますな。人の脳とはそういうものです」
いついさんの助け船に飛び乗るように、祇陀林は尊大にこう言い放つ。
「うむ。そうだ……また思い出したら教えてやる」
そしてそんな祇陀林の頭をいついさんは慈しむように撫でた。
「祇陀林も人の子。また思い出されるのを待ちましょう」
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夜。僕は目覚めた。
あてがわれた客間には良い布団が敷かれていたが、僕は敢えて畳の上で寝ることで、深夜の中途覚醒を促したわけだ。
祇陀林はもう寝た頃だろう。
僕は静かに起き上がった。そして部屋の隅に備えつけられていた懐中電灯を手に取ると、音を立てないように客間を抜け出し、書院に入る。
幸いにして書院にも奥の扉にも鍵はかかっておらず、書庫への侵入自体はスムーズに行えそうだった。ただそれは裏返すと、不埒な侵入者が入ったところで目的地には辿り着けないと祇陀林が考えているということでもある。
書庫へ続く階段を降り始める。
今夜、僕は『洛東巷説顛末』を自力で回収するつもりだ。僕の読みが正しければ一時間程度で戻って来られる筈……勿論、何の確証もないが。
階段を降りて、扉を開けると、書庫のひやりとした空気と墨のような闇が僕を出迎える。僕は懐中電灯のスイッチを入れ、せめて闇だけでも切り裂く。
夕方、この場所で祇陀林が少し自信なげに口にした言葉を思い出す。
「確か、とりの花見はなみに、うまの夫婦箸ふうふばしじゃったな……」
あれが何かの符帳だったのは間違いない。ただ、冷静に考えると凝りすぎた符帳は運用が非常に面倒臭い。だから案外シンプルなのではないかと思っている。
例えば「とり」と「うま」、これは干支の酉と午と解釈できる。そしてこれらは方位を示す言葉でもある。酉は西だし、午は南に対応している。
ということはこの花見や夫婦箸は距離を示していると推測できる。
素直に解釈するなら花見ははなみ873で、夫婦箸はふうふばし2284か。ではこの数字が何かといえば……歩数なのではないかと思う。
根拠は祇陀林が「運が良ければ一時間で戻って来られる」と言っていたことだ。人間が一時間歩いた時の歩数が5000~6000歩だそうだが、『洛東巷説顛末』の在処まで約3000歩だから往復だとそのぐらいになっても不思議ではない。
ただ、この解釈が正しいかどうかはまだ解らない。でも閃いたからには試したい。自分の読みに運命を委ねてみたい。
こんなこと、以前の僕では考えもしなかっただろう。成長しているのか、それとも馬鹿になっているのか……
問題は歩幅だ。僕の歩幅で歩いたのではおそらく行き過ぎる。
僕は自分の歩幅を調整し、慎重に一歩を踏み出した。