第11話 呪いについての貼雑
2024/09/05
シジマ機構に関するヒアリング
ヒアリング対象:澤村さわむら孝宏たかひろ
住所:京都市上京区笹屋町四丁目XX-X
職業:西陣織屋『澤村屋』9代目店主
俺は生まれも育ちも西陣だ。
この街で細々と継いだ家業を続けている。だからこの街の空気というか、呼吸みたいなものが体に染み付いてる。千本通のどの路地を抜けたら早いとか、船岡温泉は何時に入ったら気持ちいいとか……そういう情報なら任せとけ。
最近、そんな俺の世界に異物が混じり始めた。
シジマ機構とかいう、白い着物に袴を穿いた妙な連中だ。パッと身には神職に見えるが、どこの神社もあいつらを受け入れやしないだろう。
最初に感じたのは不快感な音だった。
毎晩、夜中に聞こえる低いハミング音。古い冷蔵庫みたいな、気味が悪い単調な音がどこからか響いてくる。
ある日、俺はその正体を突き止めた。近所のボロアパートだよ。喉から絞り出すような、あの気色悪いハミングが別々の部屋から出て、共鳴してたんだ。狂ってる。
あいつらはボロアパートとか、事故物件とか、普通の人間が嫌がるようなところに棲み着くんだ。どうやらいつの間にか湧いていた薄気味悪い新興宗教らしい。
それからだ。連中の行動が目に付くようになったのは。
俺の通勤経路に、十字路があるんだ。人通りが少ないから急ぐ時はダッシュしたりな。
そんな十字路の真ん中で円になって、連中がただじっと空を見上げてる時がある。しかも、まるで俺がいないかのように微動だにしない。あの無神経さ。あれはもう意図的な挑発だ。
一番気味が悪いのは路地のいけず石だ。
この辺りの狭い道には、家の角を守るために石が置いてある。この前あいつらが数人で囲んで、じっと見つめていた。
あいつら、何をしたと思う?
いけず石を静かに回したんだ。位置は変えずにただ向きだけを変える。まるで街の結界を一つずつ、静かに外しているかのような気持ち悪さだった。俺は声も出せずにその場を立ち去った。
とにかくこの街は暗黙の了解で秩序が成立してきたんだ。そういう繊細な文化をあいつらはゆっくりと土足で踏み荒らしている。これはもう静かな侵略だよ。
まるで呪いだよ。俺の京都の街を侵す、呪いみたいな連中だ。
どうやったらあいつらを追い払えるのか……何か情報があったら教えてほしい。
【はかなブログ ヤナギタがキタより】
HN:厭なヤナギタ
ID:kuroinu_lab
プロフィール文
京都の大学院に在籍中。修士論文を書いています。
ただし現状は指導教官から「掘り下げが足りない」「これでは研究にならない」と毎度のように差し戻しを食らい続けています。正直腐ってます。
とはいえ、もし京都の現場でフィールドワークをさせてもらえる家や場所にアクセスできれば私の着想はそれなりに実を結ぶ筈だとも思っています。つまり今の失敗は環境のせいで、アイデアそのものは間違っていない──そんな風に思い込んでいるところもあります。
このブログは業績にもならないし公式にも残せない「灰色の草稿」を置いておくための場所です。アイデアを取られて困るほど完成度は高くないので、公開しても差し支えないと思っています。
2023-12-07
《ゴシップ・ブロックチェーン(抜粋版)》
京都に住んでいると噂や怪談がただの雑談以上に機能していることを実感する。たとえば「○○町の角の家は昔から不幸が絶えない」とか「△△商店の娘さんは縁談がことごとく破談になる」といった話。
誰が最初に言い出したのか不明なのに時間が経つにつれ事実のように流通し続ける。これはまさに分散型台帳の特徴を持っている。私はこれを「ゴシップ・ブロックチェーン」と呼んでみたい。
ブロックチェーンの肝は「非改竄性」と「合意形成」である。京都的世間話もまた一度流布された噂が容易には消去されず、複数の人々による繰り返しの言及が「真実らしさ」を高めていく。
町内会の井戸端会議や親戚筋の集まりは、それぞれがノードとして機能し、そこでやりとりされる話はトランザクションのようにチェーンへと追加される。
もっともこれは比喩に過ぎず、学術的にはまだ言葉遊びの段階を出ていない。たとえば以下の点は技術的なブロックチェーンとは決定的に異なる。
・発話者が不明確であるため署名(公開鍵基盤)が存在しない
・伝承が変容・分岐しやすく、フォークが頻発する
・誇張や虚偽が容易に混入しビザンチン障害に相当する事象が日常的に起こる
要するに京都のゴシップ・ネットワークは「誤り訂正符号を持たない分散台帳」に近い。だがその不完全さが逆に都市伝説や怪談といった多様で矛盾したナラティブを生み出す原動力になっているとも考えられる。
教授からは「面白いけど、せめて具体的な噂話のフィールドワークぐらいして来なさい」と言われた。確かにバックボーンが弱いのは自覚している。
ただ私はこのアナロジーを気に入っている。なぜなら京都の怪談や都市伝説が「なぜそこまでしぶとく生き残るのか」を説明する道具として、それなりに腑に落ちるからだ。
コメント欄
ID:kissa_meguru
うーん、研究の才能ないんじゃない? 理論だけ先走ってるというか。小説ならそれでいいんだけどね。
ID:datsu_ryoku_kei
私は面白いと思ったけど、そもそも教授ってあなたのこと嫌ってない? まずは関係を改善することをオススメするよ。
【食べグロ 口コミページより】
店名: らーめん梔子くちなし
タイトル: 呪いの一杯
訪問日: 2023年2月28日(火曜日) 18:00頃
投稿者: 夢をカタルーニャ
☆: 1.5
らーめん梔子。
その名は京都という街が共有する、甘くも切ない原風景と同義だった。
銀幕の俳優が、孤高の作家が、ターフを駆けた名馬主までもが「我が青春の一杯」と公言して憚らない。彼らが語る梔子の物語はいつしか我々自身の記憶と混じり合い、この店のラーメンを神話の域へと押し上げていた。
火事による全焼、移転、店主の代替わり、そしてレシピの変更……名店にとっては死の宣告にも等しい変節の数々。噂は風聞を呼び、不安が京都を覆った。
だが梔子の魂は死ななかった。器が変わり、作る人間が変わろうとも、あのスープに宿る理念は不変なのだ。
私自身、らーめん梔子の敬虔な信者の一人だった。
そんな私だったが、久々に梔子の暖簾をくぐった。
折悪しく持病の副鼻腔炎がわずかに悪化し、鼻の奥に鈍い靄がかかっていた。それでも店の前には変わらぬ行列。信者たちの巡礼の列だ。
やがて着丼。
これこそが我々の愛した梔子の姿だ。琥珀色に澄んだスープ。潔いほどにシンプルな盛り付け。
私はレンゲを手に取り、まずはスープを一口、静かに口に含んだ。
……なんだ、これは。
空気がパンパンのボールを壁に蹴り込んだのに、ハネ返ってこないような不安。
旨味という名の柱が抜け落ちている。かつて鶏ガラの慈愛と豚骨の力強さが織りなすはずの重層的な味の構造は、見る影もなく崩れ落ちていた。
勿論、私の鼻や舌が正常でなかった可能性は否定しない。副鼻腔炎というフィルターが、味の精妙なニュアンスを削ぎ落としてしまったのかもしれない。
だが私は気づいてしまったのだ。
むしろ逆で、この鼻詰まりこそが私を真実へと導いたのだ。
私の鼻はこれまでスープの香りとともに無意識に吸い込んでいた伝説や追憶を今日に限って濾過してしまったのだ。そして純粋な味覚情報だけが私の脳へと送られた。
その結果がこれだ。
周りを見渡す。客たちは皆、恍惚とした表情で麺をすすっている。
彼らはラーメンを食べているのではない。らーめん梔子という名の甘美な物語を味わっているのだ。スープが薄まろうが、麺のゆで加減が甘くなろうが、彼らの舌はそれを補正し、記憶の中にある最高の味へと自動的に変換してしまう。
それはもう呪いと呼んでも差し支えないのではないか。
この店に満ちる「美味い」という集団幻想こそが、梔子の亡骸を今もなお人気店として動かし続ける、恐ろしい呪いの正体なのだ。
退店前、常連と店員の雑談が聞こえた。
どうやら人手不足で、近々外国人のアルバイトを雇い入れるという。
店主、場所、レシピ、そして作り手。
らーめん梔子という存在を構成していた要素をどこまで抜けば崩壊するのだろうか。
全てのピースが入れ替わった時、信者たちはようやく、自分たちがただの虚無をすすっていたことに気づくのだろうか。
かつての信者として定点観測してみようと思う。
【はかなブログ ヤナギタがキタより】
2023-12-12
《ノセボ効果としての呪い(抜粋版)》
京都で語られる呪いは多くの場合ノセボ効果で説明できる。
つまり「自分は呪われている」と思い込むことで身体的・心理的に不調が現れる。臨床的には薬理作用のない偽薬で副作用が出るケースが知られているが、それを文化的・社会的に拡張したものが京都的な呪いと言えるだろう。
ただし京都の呪いには社会的合意という独特の要素が加わる。本人が信じていなくても、周囲が「あの人は呪われている」と認識すれば、その人の立場や人間関係に実際の影響が及ぶ。
信じる者が一人二人なら笑い話ですむが、十人百人と増えるにつれてコンセンサス強度が高まり、呪いは強制力を帯びてくる。私はこの仕組みを仮にコンセンサス強度依存ノセボ・モデルと名付けた。
歴史的に「あの家系は呪われている」と言われ続けてきた場合、そのラベルは世代を超えて継承される。言い換えれば過去に書き込まれた「呪いのブロック」がチェーンに固定化され、子孫にまで影響を及ぼす。
本人がどれほど「呪いなど存在しない」と合理的に考えようとしても、周囲の合意形成が閾値を超えると、その否認は無効化される。
この段階で呪いは「環境埋め込み型ノセボ」として土地や共同体に縛り付けられる。外から見ると単なる迷信だが、内側にいる人にとっては社会的リアリティそのものであり逃れ難い。
教授は「そこを実証するならエスノグラフィーが必要だ」と言ったが、私にはまだそこまでの調査力はない。
ただ一点、結論めいたことを言えば、最も手っ取り早い解呪手段は「京都から離脱する」ことだ。ネットワークから外れれば、ノード間の合意は本人に届かなくなる。
とはいえ誰もが土地や共同体を簡単に捨てられるわけではない。そのため京都の呪いは単なる心理現象ではなく、社会的圧力と文化的記憶が織り成す「ソーシャル・ノセボ・ブロックチェーン」として機能し続ける。
教授には「面白いけれど、論文ではなくエッセイに近い」と冷たく言われた。確かにその通りかもしれないが、少なくとも私には「京都における呪い」のしぶとさを説明する比喩としてしっくり来ている。
コメント欄
ID:hibi_kore_koujitsu
ブログという媒体ということを差し引いても、大学院生にしては足りてない文章な気がする。諦めて就職活動した方がいいんじゃない?
ID:sound_of_silence
こんにちは。もしよろしかったら、我々のところへ調査へ来ませんか? きっとお気に召すと思います。
ID:kuroinu_lab
sound_of_silenceさん、ありがとうございます! 是非お願いします。ここでやり取りを続けるのも何ですし、お手数ですがプロフにあるメールアドレスまで連絡をいただけると助かります。
2024/02/20
シジマ機構に関するヒアリング
ヒアリング対象:澤村孝宏
住所:京都市上京区笹屋町四丁目XX-X
職業:西陣織屋『澤村屋』9代目店主
思い込みというものがいかに視野を狭めるものだったかようやく分かった。
自分の知らないやり方をただ異物として拒絶していただけだったのだ。まるで自分の物差しに合わないというだけで、相手を一方的に悪だと決めつけていたかのように。
ある時、俺は意を決してシジマ機構と名乗る彼らに直接話を聞きに行った。そして彼らの行動が俺の想像していたような害意によるものではないことを知った。
まず俺が見落としていたのだが、彼らは見えないところで街の清掃活動をしてくれていた。確かに目に見えてゴミが減っていたと思ったら、彼らのお陰だったのだ。
まあ、あまり理解できない行動もある。
例えば十字路の真ん中に立っていたのはこの土地の気に感謝を捧げ、邪気を祓い清める、彼らなりの静かな祈りだったそうだ。
路地のいけず石を回していたのも、街に澱む気の流れを整え、住む人々の平穏を願うための儀式なのだと、彼らは説明してくれた。にわかには信じがたい話だったが彼らの目はどこまでも真剣だった。
まあ街中で集会をするとか、強引な勧誘をするとかではないし、街の清掃は純粋に助かっているので怒りを治めることにした。
何より彼らの代表である教主を名乗る青年と話せたことが大きかった。
教主は想像していたような異常な人物ではなく、物静かで理知的な青年だった。白い着物に浅黄色の袴を纏った彼は同性の俺の目にも美しかった。
そしてこの教主は初見にもかかわらず、長年この西陣の地で家業を継いできた俺の苦悩を驚くほど正確に言い当てた。
「あなたはこの街を愛している。だが同時にこの街の変わらないしきたりや、目に見えない同調圧力に、ずっと息苦しさを感じていたのではないですか?」
彼のその一言に俺はハッとさせられた。その通りだった。
西陣の機の音は俺にとって誇りであると同時に、逃れられない呪いのようなものでもあったのだ。
指摘されただけでも、少し呪いを解いて貰えた気がした。
教主は更に続けた。
「我々はこの街を壊したいわけではないのです。古いものと新しいものがもっと自由に共存できる流れを作りたい……我々のやり方は世間からは少々奇異に映るかもしれませんが」
正直に言って今でも気味の悪さは感じる。彼らは彼らなりの理屈と信念でこの街と共存しようとしているだけなのだ。
今だって決してシジマ機構の教義に同調したわけではない。それでも、あの教主が作り替える街を見たくなったというのが本心だ。
だから彼の邪魔だけはしないでくれないか?