第10話 ヨモツミハシラ④
仰向けに倒れた僕の目に映ったのは、闇に溶けるヨモツミハシラの上層階と、そこから僕を見下ろす、月光に照らされた少女の白い顔だった。
間違いない。
橘人の部屋に飾られていた写真、あの双子の姉弟の片割れ――尾張谷檸香。去年、事故で亡くなったという彼女だ。
彼女は地面に転がる僕を見つめていた。ただその瞳には微かな驚きの感情が浮かんでいるような気がする。
「ねいか……?」
名を口にした途端、その顔はふっと音もなく闇の中に引っ込んだ。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように。
幻覚か? 椅子ごと倒れた衝撃で、ほんの一瞬夢でも見たのか?
だがあの鮮烈な像は網膜に焼き付いて離れなかった。橘人が言っていた「死んだ人間が蘇る」という言葉が現実味を帯びて頭を侵食していく。
僕は痛む背中をさすりながら、椅子を起こして再び座り直した。ギリギリ振り返らなかった自分を褒めてやりたい。だが先ほどとは比べものにならない重圧が背後から押し寄せてきていた。
その時だった。
――カサリ。
落ち葉を踏む音。僕たちが来た山道の方角から、ゆっくりと近づいてくる。
「小一時間するとこの道を歩いて、妖怪がやってくる」
そんな橘人の言葉を思い出して、心臓が肋骨の内側を叩き割る勢いで脈打った。振り向くな。目を合わせるな。何度もその言葉を繰り返す。
足音は規則正しくはなかった。杖を突くような不規則でかすかな足取り。老人のように小さな影が、提灯の明かりに一瞬だけ映った。
腰の曲がった小柄な老人――。
僕は固く目を閉じ、ただ通り過ぎる気配をやり過ごした。
ぎぃ、と重い扉が開く。気配はヨモツミハシラの奥へと吸い込まれていった。
息を止めていたことに気づき、肺の奥から細く息を吐き出す。
あれが妖怪? ただの爺さんにしか見えなかった。いや、人ならざるものが人の姿を取って現れることだってある……。
耳を澄ますと中から微かに声がした。
橘人の声。そしてしわがれた老人の声。
何を話しているのかは聞き取れない。ただ確かに二人の会話らしきものが続いていた。
だがその会話が途切れると、代わりに妙な音が聞こえるようになった。
痰を絡ませたような湿った音。苦しんでいるようでもあり、歓喜しているようでもあり、どちらともつかない生命の奥底から漏れ出す冒涜的な音。
気持ちが悪い。魂を削られるような音。耳を塞ぎたかった。逃げ出したかった。だが――振り返ってはいけない。その一点が僕を縛り付けた。
聞こえる筈もないのにモーターの駆動音まで聞こえてきた。幻聴かもしれない。前だけを見ているはずの視界の端が暗く滲み、思考が白濁していく。
「振り返るな」と繰り返すうちに、意識はいつしか闇に引きずり込まれていった。
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ぎぃ、という扉の軋む音で覚醒した。
顔を上げると目の前の暗闇に、小さな灯りがゆらゆら揺れながら遠ざかっていくのが見えた。提灯を下げ、山道を下る小柄な老人の背中だ。
その光が闇に溶けて消えるまで、僕はただ凍りついたまま見送った。
そして静寂が戻る。
そういえば橘人はどうなったのだろう。出てくるのを待つべきか、それとも言いつけを破ってでも様子を見に行くべきか……。
僕の葛藤はほどなく終わった。背後から声がしたからだ。
「……帰ろうか、センセ」
橘人の声。僕は橘人伝わるよう、ゆっくりと大きく肯く。そして振り向かない。
無言で立ち上がり、自分の提灯を取り上げる。気配で彼がすぐ後ろについてきていることを確認しながら、僕は道を一歩ずつ進んだ。
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しかし来た道を戻るというのはこんなに大変なのか。暗い中、下り道を歩くのは思いの他気力を使う。
ふと妙な匂いがすることに気づいた。獣の匂いとは少し違う。なんだろう。生臭いというか、野性的というか……。
ただ、その匂いの源が東山の森なのか、それとも背後をついてくる橘人なのかは解らない。
そもそも死んだ人間を蘇らせる儀式というのだから、得体の知れない素材をかけたり、燃やしたりするのだろう。不快な匂いが発生しない筈がない。
当然、そんな儀式をやらされる橘人が一番厭だろう。
行きとはまるで空気が違う。
森の静寂は変わらないが、ヨモツミハシラの中で行われた不可思議な儀式によって、僕らの間には今は息も詰まるような重い緊張感があった。
それでも僕は決して振り向かない。
それが僕に課せられた最後のお役目だった。背後を歩く橘人がどんな様子なのか……橘人が何に苦しんでいるかさえも知ってはならないのだろう。
だけど僕は橘人の家庭教師だ。
こんな状況でも橘人のために何かできることがある筈だ。橙史さんは心のケアを求めていたし、振り向かなければ越権行為にならない。
「ねえ、橘人」
「……何?」
よかった。機嫌はあまりよくなさそうだが、応答はしてくれるようだ。
「僕は四年間を棒に振ったって言ったけど、遡れば田舎にいた時から虚無の中にいたよ。なんというか、かなり前から間違ってたんだ」
橘人は返事をしない。
「今になって思えば、誰かに助けを求めてたら何か変わってたのかもしれない。でもそれはできなかったんだ。子供にだって自尊心はある。一時救われても、泣きながら大人に頼るような奴はみんなから馬鹿にされる……だから無理だった」
ああ、そうだ……僕はこれを教えたかったんだ。失敗した先輩として。
「でも選択肢まで消すことはないんだ。必要なら選んだっていい」
僕は橘人の言葉を待つ。
「……憶えとくよ。俺には関係ないけど」
僕は橘人の心の壁を崩せなかったことに落胆する。でも僕が彼の立場だったら、同じことを言ってたかもしれない。
「そういや、話変わるんだけど」
橘人は話題を変えた。でもコミュニケーションを続けてくれていることは拒絶されたわけではないということだ。
「さっきの妖怪、先生も知ってるかもしれない」
「え?」
「四方田大観って言うんだ……」
その名前に僕は息を呑んだ。深村さんに聞かされた通り、四方田大観は尾張谷家に出入りしていたのだ。
「あいつは……昔から檸香をひどく気に入っていたんだ」
橘人は僕の背中に向かってぽつりぽつりと、呪いの言葉を吐き出すように続けた。
「ウチの家が傾きかけた時も助けたのはあいつだった」
しかし"あいつ"というのは恩人に向ける呼び方ではない。
「……何か条件があったとか?」
「檸香が十六になったら……あいつと結婚するって……」
説明するのも耐え難いという口ぶりだった。
僕も言葉を失った。政略結婚。旧家ならばありえない話ではない。だが相手は孫ほども歳の離れた少女だ。
「檸香は全部解ってた……自分の身を捧げる覚悟もとっくに決めていたんだ。この家を守るためだって……でも檸香は事故で死んだ。十六になる少し前にな」
なんと痛ましい話だろうか。
「檸香は覚悟を決めていた。家族のために自分を捧げる覚悟が。それに比べて俺は……」
声がそこで途切れる。橘人の自己嫌悪が痛いほどに伝わってきた。
尾張谷家は檸香の死によって大きな窮地に立たされたわけだ。だからあのヨモツミハシラで、橘人が死んだ檸香を蘇らせることで四方田を繋ぎ止めているのか。
ただ、それがどんな儀式かは部外者の僕に知らされることはない。
「俺は檸香が守ろうとしたものを……こんな形でしか守れないんだ。金が必要だからって何やってんだろうな……」
その声は震え、気を抜けば聞こえなくなりそうなほど語調も弱い。橘人にとって死んだ姉の魂を利用し続けるのは耐え難いのだろうか。
「センセの言った通りだよ。金がいくらあっても……もう買い戻せないものが沢山できちまったよ……」
心のケアが必要というのはそういう意味か。
僕は前を向いたまま、橘人へこう語りかけた。
「誰かのために役目を果たす……そんなことができなかったがために僕は一人ぼっちになった。だから橘人は僕なんかよりずっと偉いよ」
「……偉くなんかねえよ。本当はこんな役目も家も捨てて逃げてえんだ」
「だったら逃げればいい。寂しいかもしれないけど、案外死なないよ」
僕の言葉に橘人は何も応えなかった。
ただ背後で彼が息を呑む気配だけがした。僕の言葉が彼の心に届いたのか、それとも的外れな慰めだと呆れられたのか。僕には解らない。
提灯の光が僕の足元だけを、ぼんやりと照らしている。
「ごめん。励ましたつもりだったんだ。でもこれだけは解ってほしい。僕にとって橘人は眩しいんだ。可能性に溢れていて、望めば何にでもなれるんだから……」
突然、背後から提灯が飛んできた。橘人が投げたのだ。
「……俺なんかが……眩しいわけないだろ!」
静かな森の中で、橘人の叫びがこだました。
「センセ……こっち向けよ」
「駄目だ。僕は言いつけに背けない」
火がついたまま転がった提灯はそのまま燃え上がり始めた。
「こんな俺を見ても……まだ眩しいなんて言えるのか?」
振り向くことを強いられるなんて、まるで黄泉比良坂のイザナミの逆だ。だが振り向いたって事態は決して好転しない。なんとなくそんな気がした。
「断る」
「またそれかよ。そんなにクビが怖いのかよ!」
僕の肩に橘人の手がかかる。振り向かなければ首を絞めてきそうだ。でもその手からは何故か怒りと哀しみが伝わってきた。
だから僕は橘人に絞め殺される覚悟で口を開く。
「僕は橘人を連れて帰るまで絶対に振り向かないから……」
僕は一度言葉を切り、こう続けた。
「……今はどんな顔したっていいんだよ」
肩から橘人の手が外れた。
これまで必死に抑え込んできたであろう、嗚咽が微かに漏れ聞こえてきた。
それは次第にしゃくり上げるような、子供のような泣き声に変わっていく。
僕は何も聞こえないふりをして歩を進めた。
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二日後の午後、自宅のアパートで過ごしていたら電話がかかってきた。発信元を見たら、「尾張谷」とあった。僕は少しだけ緊張しながら、通話ボタンを押した。
「尾張谷です」
「はい。次の日程調整ですか?」
「一方的な通告で申し訳ないが、もう仕事は結構です」
橙史さんからの唐突すぎるクビの通告に僕は言葉を失った。
「え……」
「これまでの報酬は深村堂さんへ渡しておきます。ですので……もう尾張谷家のことは忘れてください」
どうしてとは訊けなかった。理由は絶対に教えてくれないだろうと電話越しに分かったからだ。
けれどひとつだけ、どうしても譲れない思いが口をついて出た。
「……せめて、橘人君にお別れを言わせてください」
受話器の向こうで一瞬だけ沈黙があった。何かを飲み下すような、重苦しい空気。
「それは無理です」
橙史さんは短くそう告げると、通話は無情に切れた。
スマートフォンを握り締めながら、僕は座布団の上で膝を抱え込んだ。
狐につままれる、というのはこういうことか。普通に続いていたはずの関係が突然なかったことにされる。あの森の闇や楼閣の影よりもよほど現実の方が不可思議だ。
このままでは気が収まらない。僕はダウンジャケットを羽織り、深村堂へ向かった。
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「お、仕事クビになったんやて?」
店に入るなりそう声をかけられた。深村さんは帳場に煎餅とお茶を並べて、テレビを見ていたところらしい。
「なんで知ってるんですか?」
「そりゃ仲介料貰ってるからな。ウチにも報告してくるのも筋やろ」
そう言いながら、深村さんはテレビを消音にする。
「突然電話で『もう忘れてくれ』って……クビの宣告って慣れませんね」
「そら災難やなあ。で、祟は何を見てきたん?」
深村さんは報酬入りの封筒を揺らしながら、そう訊ねる。
ある程度話さないと渡してくれなさそうだな。まあ、守秘義務はあったけどもう関係ないか……。
そう自分で理由をつけて、僕は一気に吐き出した。あの黒い楼閣、ヨモツミハシラ。そこに現れた小柄な老人。死んだはずの檸香の顔。そして橘人の"お役目"。
「死んだ檸香さんに会いたい四方田大観のために、尾張谷家が死人を蘇らせる儀式を続けていたんです。おそらく橘人はシャーマンのような役をずっと任されていたようで……」
そこまで言って深村さんの表情をうかがった。だが彼女は噛み砕いた煎餅を退屈そうに呑み込んだ。
「はあ? アホなこと言うなや。死人が蘇るわけないやろ」
「でも僕は見たんです……」
「それは橘人の姉ちゃんに似た誰かかもしれへんし、儀式ってのも尾張谷家が勝手にそう呼んどるだけや」
きっぱり斬られると、僕の中の確信はぐらぐらに揺らいだ。
「そもそも尾張谷家がそんな家系いうんも初耳やわ。京都に古い家はようけあるけど、死人蘇らせる伝承持っとるとこなんか聞いたことない」
僕は膝に視線を落とした。やっぱり全部、僕の思い込みなのか。
けれど深村さんは続けてこう言った。
「ま、仮にそうやったとしてやで」
軽く煎餅の粉を払ってから、言葉を継ぐ。
「橘人が辛い思いして“お役目”やってるんやったら、なだめすかす人間が必要やった。家出されたら元も子もないもんな」
心臓を掴まれたように息が止まった。
あの時、橘人がどんな表情をしていたのか知らない。でも僕は振り向かなかったことをこの先ずっと悔いるのだろう。
せめて橘人が救われていたらいいのだが。
「まあ、もう終わったことや。バイト代出たんなら儲けや儲け。深く考えんとき」
深村さんの声は再び軽い調子に戻った。だがすぐに訝しげな表情になる。
「どうかしましたか?」
深村さんは返事の代わりにリモコンでテレビのボリュームを上げる。おそらくは深村さんの表情を変えた原因が映っているのだろうと思い、テレビを見る。
ちょうどニュース速報が流れていた。
《速報です。元衆議院議員・四方田大観氏が自宅近くで何者かに襲われ、重傷を負い緊急搬送されました。容疑者は若い男性とみられ、現場から逃走。警察ではテロの可能性も含めて行方を追っています――》
僕は凍りついた。
「……祟がクビになった理由、これやろな」
深村さんはそう言って煎餅をまたかじる。まるで天気予報でも見ているみたいな呑気さだったが、僕に気を遣ってくれたのかもしれない。
僕は心の奥で最悪の想像をしていた。
橘人を励ますつもりが、悪い方向に背中を押してしまったのではないか……そして檸香の尊厳を奪った老人に刃を向けさせてしまったのでは……。
「助けを求めていたのに、手を差し伸べられなかった」
無力感でうなだれてしまう。薄汚れた靴のつま先が見える。
「あのなあ……元大物政治家が絡んだ話や。祟に何ができんねん」
深村さんが呆れた口調でそう言う。
「でも……」
「橘人が酷い目に遭うとまだ決まったわけやない。四方田側に表に出せない事情があるなら、続報なしで終息するかもしれんしな」
気休めかもしれない。でも深村さんの配慮が温かかった。
「落ち込んでるんか?」
「落ち込んでいるのとは少し違うんですけどね。上手く言葉にできなくて……」
「左様か」
嘘だ。もう言語化は済んだ。けど、誰かに話す気分じゃなかっただけだ。
ふと橘人の「センセ」という呼び方が脳裏をよぎる。そしてノートに書かれた歳に似合わない達筆な文字や、正答を褒めた時の屈託のない笑顔が芋づる式に蘇った。
もうお前に授業をすることもないんだな。
これは深村さんにも伏せたことだが……僕は橘人に出会うまで自分が他人に助けを求められない人間だったことに気づかなかった。自分と同種の人間と出会ってようやく気づかされたというべきか。
そうだ……お前が教えてくれたんだ。
僕は橘人の家庭教師だったのに……。
深村さんが目の前にいるのに、思わず涙がこぼれそうになる。
……僕が橘人から教わったんだ。