SHARE

殺されて当然と少女は言った。|MF文庫J発売前4タイトル特別試し読み!

2025/11/14

『作者取材』


【7月18日】

 面白くない事件だった。
 殺害されたのは県会議員で、遺族による記者会見が行われている。
 面白さとは世の中に影響を与える現象のことだ。県会議員一人死んだところで、よほど有名な人物でもない限り、人々は飯食って歯を磨いている間に忘れてしまう。
 そう思っていたのに。
「りっ、りお……りちゃん? うそっ……嘘よね?」
 娘の言葉に母親が取り乱している。議員の妻としての会見では見せなかった顔だ。
 周りの記者たちの消化試合を見ていたような表情も、最高潮を迎えたライブに向き合うものへと変わってきている。
「おねがい理央! 嘘だと言って!」
「お母さん。落ち着いて」
 思わず吹き出してしまった。最高だ。
 落ち着けという言葉が、「現実対虚構」以上の文脈で使われる日がくるとは。
『報道、というのは真中議員による学生時代のいじめの件でしょうか?』
 他の記者がセンスの欠片もない質問をしている間に、真中理央について調べる。
 ざっと見た限りでは、特定可能なSNSはやっていない。検索して出てきたのは、先の発言を受けて沸いてきたインプレゾンビばかりだった。
 今回の事件で、殺人犯・隅田良生の名は、犯罪史に刻まれることになるだろう。
 一方で、被害者・真中理人に残る余地があるとすれば、被害者の娘・真中理央の影響によるほかない。
 議員だからでも、殺されたからでもなく。
 父親だからでもなく、真中理央が娘だったからだ。
被害者は同情されるべき。心に傷を抱えたまま生きてくべき。
べき、べき、べき。
 こうした同調圧力は過去のものとなるだろう。家族を殺した犯人を憎んでいるが、それだけではない。殺される前にしたことを考えれば道理はあるのだと。
 家族という神話、聖域が崩壊した現在だからこそ、浸透するに至った現象。
これから先、犯罪被害者やその家族が、自由に意見を表明できる空気が醸成されていくことは想像に難しくない。
 隅田良生は虐めを受けていた中学時代から、真中理人殺害の決意をしていたと表明している。彼が発端となった『幸せの絶頂であいつを殺そう!』キャンペーンは、上流階級の不幸を蜜の味とする国民性も相まって、ネットで盛り上がりを見せていた。
 だが、ブームはすぐに下火となるだろう。
 真中理央の放った業火に、跡形もなく焼き尽くされるから。
 タイムラインを追うと、真中理央に対して否定的はともかく、誹謗中傷を浴びせるような投稿をした連中が次々と晒されている。数の暴力で叩きのめされている。
「…………もう嫌ぁ! もうやめてぇ!」
「今日はここまでにしましょう」
 耳を疑った。最後までまともな質問をする記者はいないのか。
 誰もやらないのなら僕がやる。真中理央の伝道師となることを、これから先の至上命題として位置付けていた。
 重要なのは、どうしてこの会見を選んだのか。そこに真中理央の真意があり、世の中に浸透させるべきアイデアがある。
 地上に舞い降りた天使が、戯れに歌うその声に。
 僕は生まれて初めて、傍観者ではいられないことを自覚した。

『北条リオ』


【7月18日】

「報道が事実であれば、父は殺されても仕方ないと思います」

 テレビに映る恋人の姿に、北条リオは出会った日のことを思い出す。
「真中理央です。よろしくお願いします」
 クラス替えに伴う自己紹介のこと。意識がうとうと春の温かさに負けそうになっていたら、突然自分と同じ名前を呼ばれてびっくりしてしまった。
 柔らかな栗色の右目と、異邦の輝きを放つ左目のオッドアイ。
 目と口で緩やかに弧を描く彼女は、思わず見惚れてしまうほどの美少女だった。笑顔を装っていても、その奥で全く笑っていない瞳の深淵を覗きたくなるぐらいには。
 なんて感傷的な回想に入っている場合ではなかった。たった今投下された爆弾の影響を測らなければならない。
 夕方のニュースで全国中継されたせいもあり、#真中理央は早くもトレンド世界1位になっている。
 逃亡中の殺人犯よりも、炎上した被害者よりも、真中理央について呟いている人の方が多かった。恋人の父親をエゴサ―チするのも、なかなかマッドな状況ではあるが。
 とはいえ、マナはSNSを一切やらないので、恋人であるリオが情報収集に努めるしかなかった……うそ。少しでも役に立ちたくて自ら志願した。
 暇を持て余した人類の呟きをスワイプしていくと、そのほとんどが「頭のおかしいやべー奴」という意見に占められていた。激しく同意する。人類の歴史を見ても、殺人事件の遺族がカメラの前に立って、殺されても仕方ないと述べるのは前代未聞だろう。
 でも、この頭のおかしさはあくまで絶対評価で、マナがこれまでしてきた奇行の数々と比較すれば、常識の範疇というものに収まるのかもしれない。
 彼女なので、身体の隅々のようにマナの表も裏も知っている。高校生のお付き合いとしてはいかがなものかと思われそうだし、自分でも思っているけれど。
 彼女なので。彼女なので。頬を赤く染めるその言葉を、何度も飲み込む。
 そうでもしないと、状況を受け止められなかった。テレビの前で起こっていることではない。何度でも言うが、そんなものは氷山の一角に過ぎない。

『しばらくの間、犯人を匿おうと思って』

 ニュースを見て事件を知り、何度も電話をかけ続けた恋人への第一声だった。
 マナのことだから、きっと常人には想像もできない理由があるはず。真っ先にそう思考している時点で、リオもその奇行の一端を担い始めていた。
 どうして犯人と繋がっているのか。そのままの状態にしているのか。尽きない疑問符を飲み込んで、家族で所有する別荘の鍵を殺人犯に手渡した。
 それから一週間経っても、マナの口から理由を語られることはない。
 それどころか、変わらない日常を謳歌している。教室では普通に話して、放課後になるとちょっとエッチなことをしたりして。
 それでも、意識の端には、報道された卒業アルバムの写真が浮かぶ。
 恋人との幸せな人生を脅かす、数十年来の殺意を抱くことになる少年の顔が。
 匿うと言っても長くは続かないだろうと予想していた。鍵を使って出入りをすれば警備会社に通報されることもないだろうが、生きるために必要な電気・水道・ガスを使用した記録は、ひと月も経てばリオの父親の知るところとなる。
 逆に言えば、それまでに決着をつけることを見越して協力していた訳だが……。
『……もしもし、リオちゃん?』
「もしもし、マナ」
 ほんの数分前まで、テレビに出ていた人と電話するのは不思議な気分だった。
『愛してる』
「他の人の居ないところで言って」
『近くにいるのは……お母さんとか祥子さんとか』
「やめなさい」
 ちょうど聞こえないぐらいの距離はあるから。とか何とか言っているが、そういう問題だろうか。家族を殺されたことを理由に、恋人が記者会見するのも初めてだから、軽口を叩く以外にどんな接し方をすればいいか分からない。
 というリオの心配をよそに、その美声からは生き生きした表情が伝わってくる。リオの胸の中で涙を流していたあの時と、どちらが本物のマナなのだろうか。
 恋人には「リオちゃん」と呼ばれていた。
 子供扱いに意義を唱えたいところではあるが、マナのお母さんが彼女を「理央ちゃん」と呼んでいた影響かもしれない。
 指摘すれば「私は誰の影響も受けないよ。君を除いてね」とでも返されそうだが。
『なにしてたのん?』
「テレビに映る恋人を見ていたの」
『どうだった?』
 どうだった? と聞かれたから「輝いて見えたよ」と答える。
 マナの可憐さについては今さら説明することでもないので、フラッシュの光に包まれた神々しさについての感想だった。
「お母さんは大丈夫?」
『祥子さんが付いてくれているから』
「そう……」
 実は最近、他の女の匂いがする。事件を担当する女性刑事とのことだが、マナが彼女の名前を呼んでいるときの声が、普段よりも若干高くなることに気づいていた。
 下の名前で呼んでいる時点で、気づくも何もないのだが。他人に心を許すことの少ないマナに頼りにされるのなら、将来刑事を目指してみるのも悪くないかもしれない。
 空欄のままになっていた進路調査票のことが、ふと頭に浮かんだ。
『いやはや、愛されているって実感するね』
「心を読まないで」
 胸の内に秘めた奥ゆかしさというものを、ことごとく台無しするマナだった。
『時に、今からそっちに行っていいので?』
「なんで洋画の字幕風? お母さんと一緒にいてあげなくていいの?」
『そのお母さんとは、これから揉める予定でして』
 これから揉める予定って何? 恋人相手ならいくら軽口を叩けても、その家族について触れるのは憚れるものがある。
 マナの母親・由依さんは、年不相応に若々しい人だった。失礼な言い方になるかもしれないけれど、未だに世間を知らない箱入り娘みたいな雰囲気を感じていた。
 それがたった数日で、別人ではないかと思うぐらいに老け込んでしまった。娘が連れてきた同性の恋人にかけてくれた笑顔は、葬儀ではその痕跡すら残っていなかった。
 傷心の母親を追い詰める以上、やむを得ない理由があるはず。
 その確信はあった。加えて、リオは一つの仮説を組み立てている。
 マナは、憎しみによって由依さんに活力を与えようとしているのではないかと。
 そうすることで、最愛の夫を奪われた由依さんの生活にハリというか、緊張感をもたらそうとしている。そのためのヒールを演じているのではないかと。
 由依さんに対する、世間の注目を逸らそうとしていることも考えられる。考えたところで、実行に移すには幾重ものハードルを乗り越えなければいけないが。
 そもそも深層の令嬢然とした、薄幸の美少女でなければ成立し得ないプランだ。
 漆黒の髪、純白の肌、真紅の唇。そして何よりも、エメラルドグリーンに光輝く瞳から放たれるオーラが、ただの怨恨殺人に唯一無二のオリジナリティを演出する。

『お母さんには内緒にしてね』

推理を披露すると、マナは満足したみたいに短く息を吐いた。
 リオの役割は、SNSを中心とした世間の反応を見ることだった。マナが投下した爆弾が燃え広がってゆく様を、客観的に観察して報告する。
 そうやって想い人の役に立てることは望むところだが、いかに完全無欠のマナとはいえ殊に恋愛においては、経験の少なさが新たな火種を生んでいると気づいていない。

「そんな風に自分を消費して、わたしが何も感じていないと思う?」

 うぐぐ、と生唾を飲み込む音がスピーカーから聞こえる。
 世間に何を言われても盤上の駒の動きとしか捉えていないマナは、リオといるときだけ理性を手放す。
 そのことに優越感を抱いていないと言ったら嘘になる。真中理央という存在が世間一般に知られるようとなった今では、殊の外。
「じゃあ、待っているから」
「ん」
 これ以上声を聴いているのもよくないと判断し、一度電話を切り上げる。由依さんとも揉めなきゃいけないみたいだし、疲れて帰ってきた恋人のオアシスになろうと決めたところで。
 待っている間どうしようか。
 うち、今日親いないんだよね……な状況である。
 オアシスになると決意しておいてどうかと思うが、声を聞いてからずっと身体が疼いていた。マナ曰く、女性には月に一回程とても性欲の強い日があるらしい。
 よりにもよって、リオにはそれが今日だった。

「……マナ」
『リオの髪が、とても好きだよ』
「どの口が言うか」
『私よりも柔らかくて』
「自分じゃ分からないし」
『肌だって、ずっときめ細かい』
「分からないよ」
『唇も……ね』
「マナ、ダメ……」

 一度果てる頃には、撫でる手が夢想か幻想の産物か分からなくなっていた。
 疼きは収まってきたが、唯一再現することの出来なかった唇の感触が恋しい。重なり合うことでしか生まれないから、恋人の不在をはっきりと認識させられる。
 リオは目を閉じて、現を侵食する夢を受け入れる。これだけ想っているのだから、眠っている間ぐらい会えないと納得できない。
 マナはこの惨状に何を思うだろうか。握り締めたシーツは皺だらけで、下着には自分で自分を愛した跡がうっすらと残ってしまっている。すぐに気づいて、耳元で愛を囁くのだろう。想像しただけで身体は疼きを取り戻して、熱を帯びていく。
 まぁ、でも。
 きっと抱き寄せて、同じ沼に沈めてやるのだ。

【6月17日】

「嫌ならやめるよ」
 そう言って少女は、リオの唇を塞いだ。
「んっ……んんっ!」
唇を塞がれた状態で、どうやって意思表示すればいいのか。
 脳に供給される酸素が足りずに思考が浅くなる。絡みつく舌を噛み切って徹底抗戦したいところで、かえって相手を喜ばせてしまいそうなぐらい万策尽きかけていた。
 それぐらい、リオの上に跨って貪る少女は常軌を逸していた。
「ふぃーちょっと休憩」
 少女が、羽のように柔らかい身体を預けてくる。
 胸の上で休むなと抗議しようにも、呼吸のための気道の確保で精一杯だった。脳を巡る空気が一周してようやく、リオはずっと息を止めていたことに気づく。
「キス……初めてしたけど結構難しいね。ちゃんときもちよかった?」
「な、ん……」
 リオにとっても、これがファーストキスだった。
 キスする気満々だった少女と違って、どうしてこうなった? 以外の感情を持ち合わせていない。衝撃は比べるべくもないことを申し上げておく。
「フフ、確かに」
 息も絶え絶えに、ようやく回るようになった舌で懸命に抗議した結果が、たった一言で返されてしまう。
「うぅ」
 初めてのキスは高校の修学旅行の夜。相手は同じ女子だった。
それだけ聞くと多様性の時代に相応しいロマンスかもしれないが、問題の方が山積みで多岐に渡っている。
 最たるものを挙げるとすれば、ここが四人部屋の片隅であることだろうか。
 リオが同室の女子だったら、気づいても見て見ぬというか寝ているふりをする。
 というか、夢だと思うかもしれない。というか、同性しかいない仮にも修学の場で夜這いなんてあるはずないし。というか、さっきからというかというかうるさい。
 あれれー意外と問題ない? 一個解決しただけで大丈夫そうに思えてくる辺り、だいぶ少女の毒牙にかかってしまっているのかもしれなかった。
 きもちよかったかと聞かれると、悪くなかったと答える自分もいる訳だし……。
「……ってちぇーい!」
「あたっ」
「どさくさに紛れて胸を揉まないで……あんっ」
「だって北条さん、黙っちゃって暇なんだもんっ」
「暇だと人の胸を揉むのかな君は?」
「そこに山があるのに何で登らへんねん!」
 どうして関西弁? そして山を愛するすべての人に謝るべきでは。
 心も体も一ミリも包み隠さない少女は、それにしてもすごい身体をしている。
 気安く触れるのも憚られる、透明感の塊のような柔肌。小ぶりだが形のいいバストという、使い古された表現を一新する無垢の膨らみ。エトセトラエトセトラ。
 圧倒的美が、闇夜に光るエメラルドの瞳の引き立て役に徹していた。
「じゃあ、いいかな?」
「あちょっ!」
「ちゃんと聞いたじゃん!」
「お話しようお話」
「いいけど、後でしっかりよろしくね」
「えー」
 後でしっかりよろしくされてしまった。
 同級生の女の子に胸を触らせる約束をしながら話を進めるというのも、経験がないのでどう受け止めたものか分からない。
「それで、いつからなの?」
「いつからとは?」
「わたしのこと、好きって」
 少女……はもういいか。真中理央の名誉のために状況を整理しておくと、一応きちんと告白された上でこうなっている。
「返事をもらう前に一度だけキスしたい」と言うから受け入れてみたところ、びっくりするぐらい舌を入れてきて抵抗の術なく今に至っていた。
「他人の身体に興奮したのは初めて」
「誰が身体の話をしろと言ったの」
 本当に、一発ぐらい殴っていいと思う。思うのだけれど、あれよあれよという内に人の腕を枕にしたり脚を絡めたりしてきて手も足も出ない。
 ほのかに汗の混じる女の子の香りが、リオから暴力性を削いでいった。
「好きになったきっかけを聞いているの」
「それはもう、ずっと前からですよ」
「具体的に言ってほしいな」
「この修学旅行の……同じ班に誘ってくれたときから」
 そんなに前から私のこと……? と感激したいところだが直近が過ぎる。まだ一ヶ月も経っていないのではないだろうか。
「初めて人を好きになったから、この一ヶ月はすごく長く感じたよ」
「正気かなぁ」
 また恥ずかしげもなくそういうことを言う。一つの枕を二人で共有するぐらいの近さで囁かれるのも刺激が強過ぎていた。
顔を逸らしたら、その隙に後ろから胸を鷲掴みにされそうで直視するしかない。
「赤くなっちゃって。可愛い」
「誰のせいだと」
 理央はさらにぐいっと、具体的にはリオの鼻息が理央の長い睫毛を揺らしてしまう距離まで顔を近づけてくる。宝玉を敷き詰めた瞳の輝きが、リオを真っ直ぐに捉えていた。
 そっと両肩を掴まれて、本物の恋人たちが醸し出しそうな雰囲気に当てられる。
 またキスされるのかな? 困惑したのは、それも案外悪くないと思い始めた自分自身にだった。
「…………ぺろっ」
「ひゃうんっ」
 覚悟していた刺激と違う。理央が長い舌を出して鼻先をひと舐めしてきた。
「大きな声出さないで。みんな起きちゃう」
「頭おかしいんじゃないかなっ?」
 真面目にやろうとしたらこれだ。そっちがその気なら、後ろから揉みしだかれようが何されようがそっぽを向いてやる。その旨をジト目で訴えて、無防備な背中を晒す。
 脈打つ心臓が落ち着いてくると、時計の音がいやに大きく聞こえる。どのくらいの時が経ったのか分からないが、理央から指一本触れてくる気はないようだった。
 基本的にふざけてしかいないが、嘘だけはつかないようである。
「嫌ならやめる」という最初の約束を、律義に守り続けているのだった。
 それもまた、手のひらで踊らされているようで面白くない。それ以上に、理央がどんな表情をしているのか気になった。もしかしたら、こちらの動揺など知らずに寝息を立てているのかもしれない。
 寝返りをうつふりをしながら、理央の方に向き直る。リオが薄く目を開くと、瞳は信じられないものを捉えていた。
 エメラルドグリーンに輝く瞳が、リオを見つめている。
 こうなることを最初から見通していたような、完璧な視線で。
「……キライっ」
「あぁん」
 再びそっぽを向こうとすると、後ろから抱きしめられる。揉みしだかれると思っていたのは幻想で、縋るように無垢の膨らみを押し付けてきたのが現実だった。
 リオの薄い背中から、二人の心音が重なり合う。とても平常心でいられないが、理央の方が僅かに早い。その鼓動だけで、高揚感と自尊心を取り戻すには十分だった。
「惚れたのはね、同じ班に誘ってくれたときの顔が綺麗だったから」
「結局顔なの」
「人としての、最低限の良心に基づいて行動したんだよね?」
「何が……言いたいのかな?」
「可哀そうな人に見えた?」
「そんなことはないけれど、真中さんだけ班が決まっていなかったから。どうするつもりだったのかなって」
「クラスの女子は全部で16人。一班につき4人編成なのだから、何もしなくてもどこかに入れてもらえるよ」
「誘われて迷惑だったってこと?」
「ううん。嬉しかった」
 抱きしめる力が強くなる。言葉を重ねる度に心拍の数が逆転していった。
 激しく脈打つ心臓には、人肌の温度は暑苦しいぐらいだ。それでも、距離を取るのは逃げた気がして、負けた気がして、リオはあらためて理央に向き直る。
 振り向いた瞬間、火照った額に薄い唇が触れる。ふわっと甘い香りが広がった。
 キスの時は夢中で気がつかなかったが、間近で見るエメラルドの瞳は暴力的なぐらいに眩しく輝いている。
「結果的には同じでも、一人だけ余って仕方なく入るのと、誰かに誘われるのでは違うと思うんだ」
 それが人としての最低限の良心だというのなら、きっとそうなのだろう。
 何か大きな理由があってそうした訳ではない。後になって色々ほじくり返されるぐらいなら、やらなきゃよかったと後悔しているぐらいだ。
「クラスの人たちや、先生への心象も?」
「そんなことまで考えていなかったよ」
「そうだね。考えるまでのことでもなかったよね。でも……ふっ」
「あふぅっ」
 理央が、耳の穴に息を吹きかけてくる。
 我慢していた声がいとも簡単に漏れ出てしまう。後ろからくるものだと思って油断していた。舌が届かない距離を保ってきた努力も、水泡に帰してしまった。
「こんな風に執着されるとは、考えなかったのかな?」
「考えなかったことを、今は後悔しているかも」
 口元がキスの形になったことに気づき、リオは咄嗟に指で押さえる。
「むぎゅ」
 理央から余裕以外の表情を引き出せたことに満足するも、これはとんでもない悪手かもしれないとすぐに後悔した。
 理央ならば、リオの指を取って舐め回すぐらいのことはしてきそうだから。
「……ふ」
「……ふふっ」
「指舐められると思った?」
「思ったよ」
 すかさず、唇に接着していた指を離す。
ひと段落したと思ったら梯子を外してくるのが理央のやり口だと、リオは短くも濃密な時間の中で学習していた。
 あぁん、とまた情けない声をあげながら空を舐めている。舌をしまうと、何が面白いのか自分の腕を抱いてずっと笑っている。
 余裕を浮かべただけではない、本物の彼女がそこにいる気がした。
「私が知りたいのは、どうして執着されるリスクを考えなかったのかってこと」
「そんなの、いちいち考えるものなの?」
「考えるものだよ。少なくとも私はずっとそうしてきた」
 何とも生きづらそうな人生だなとリオは思う。休み時間、ほとんど誰とも話さずに文庫本に目を落としている美少女の秘密は、思いがけないところにあった。
「でも、阿南君とはたまに話しているよね」
「アナンクン?」
「何とかチャンネルの」
「あーいたね、そんな人も」
 そんな理央でも時折会話をしている姿を見かけることがあって、相手は決まって阿南というクラスの男子だった。リオの興味の対象ではないが、いわゆるイケメンと呼ばれている生徒であり、高校生ながら動画投稿者としての収入もあるらしい。
「もしかして嫉妬?」
「はぁっ? どうして?」
「私が男の子と話しているのが気になるんだ。可愛いなぁ」
 ふふんと得意げに鳴らす様は、その男子との会話からは見て取れないものだった。
 遠目から見た印象としては、声音も口角も状況に対して最適となるようにチューニングされたものでしかない。本当はどう思っているのか想像に難しくなかった。
 リオには想像したくないものだった。それにしても、今のは重い彼女みたいだったなぁと顔の中心に熱が集まってくる。
 遠目遠目を装っていても、思い返してみると結構な頻度で見つめていたのだ。
「なぁに? じっと見つめて」
「ないから」
 見つめていたのだろうか。告白されて意識するのは正常な反応だと思う。
 とはいえ、その前から遠目に見つめていたということは少なからず意識していた訳でもあって…………なんてことを考えれば考えるほど、頭の中が混沌という名のカオス。
「話を戻すとね、真中さんの言っていたリスクのことだけど」
「あーあったねぇ、そんな話も」
 いくら何でも適当過ぎる。
今の理央は採算度外視でリオを振り回そうとしているようにしか思えない。その理由は想像に難しくないし、想像するのも悪くはなかった。
「もしも真中さんが本当は誰かに声をかけてほしいと思っていたら、修学旅行を少しでも楽しみにしていたのなら、わたしはリスクを取ってよかったと思っているよ」
 だけど、特別な拘りはなかった。少なくともあの時には。
 それならどうして、今はよかったと思っているのだろうか。
「…………やば」
「わたしは多分、自分にそこまでの価値があるとは思っていないんだ」
「そこまでって?」
「あらゆるリスクを回避しても、自分を守りたいと思えるほどの」
「他人に執着されて、人生を脅かされてもいいの?」
「それで真中さんが満足できるのなら、ちょうどいいバランスなのかなって」
 バランス。口をついて出た言葉が案外真実であるような気がした。そこに自分はないというか、全の中の一に過ぎないというか。
「バランス、ねぇ」
 蕩けた瞳で、艶めく唇が呟く。
 刹那、保ってきたはずのそれがガラガラと音を立てて崩れ去るような気がした。
「私が本当に望んでいるなら、このままキスしてもいいってこと?」
「あーうん。そうなるかもね」
 もうどうにでもなれというスタンスが、今の北条リオだった。
「一応確認しておきますけど、リオちゃん彼氏とか」
「いると思う?」
「いても気持ちは変わらないけど、しょうもない修羅場に巻き込まれるのはちょっと」
「いないしいたこともないけれど……え、今それを確認するのは遅くないかな?」
「フフ、確かに」
 ちなみにさっきのがファーストキスだと告げると、ぱあっと笑顔が華やいだ。
「までも女の子同士だし、減るもんじゃないし別にいいか」
「それ、わたしの台詞なんだよなぁ……」
 女の子同士なら、どんなにイチャついても妊娠はしないし何とでもなるとか。
 女性としての品格も、名誉も、プライドもない軽口を叩き合っていると、雰囲気がもう一度キスしたい様相を帯び始めてくる。
「…………するよ」
「…………うん」
 …………うんって。エメラルドの輝きに見惚れていると、唇同士が触れる。覚悟をもって受け入れたのだから、これが正真正銘まごうことなきファーストキスだった。
 う、うわぁー柔らかぁー、がファーストインプレッションだった。
 おしゃべりの余韻でカサついた薄皮は初々しく、唇を重ねる度に湿り気とムードが高まっていく。動悸が早まっていく。
「きもちいい?」
「ん」
「付き合おっか」
「へ?」
 目を閉じキスに浸っていると、理央が既成事実を最大限利用しようとしてくる。
 付き合う。その発想はなかった。仮にも告白されている訳だし、そういう発想もあって然るべきなのかもしれないというかそれしかない訳だが。
 ここでファーストキスだけではなく、ファーストラブも捧げることについて。
 恋人という存在は、自分の感情よりは優先させてもいいとしていた有象無象からの逸脱を意味する。それが本当にいいことなのか考えなくてはいけない。
 少し考えてみる。優先させてきた他人の中に、自分を捧げたいと思える人は存在したのだろうか。実は彼女の前にも、何度か告白されたことはあった。
 彼らは逸脱しなかった。
 思い返しても、男の人とキスしている自分を想像できない。もしかしたら自分は同性愛者なのかもしれない。返事を待たせている間に、ふとそんなことを考えていた。
 結論、違和感しかなかった。
 性ではなく愛に。それはもっと、自分とは遠いところにあると思っていたから。
「リオちゃん?」
「そうだね……」
 エメラルドの瞳が緊張に揺れている。受け入れられないかもしれない不安を、余裕綽々を纏った声で覆い隠そうとしているのが見て取れる。
 初めて見せる、理央の脆さだった。
 いつものクールな姿とのギャップに、思わず興奮してしまう。熱がまたじわじわと身体の内側に集ってくるのを感じていた。
「ま、いいか」
 その瞬間、雲の隙間から太陽が現れたように、リオの瞳に閃光が差し込まれる。
 何も言わずに唇を重ねる。
何度も、何度も。
 甘く溶けた口の中で、お互いの舌を探し求める。生まれて初めて他人に侵される、制御不能な快感に蕩けてしまう。事前に示し合わせてもないのに、愛し合う恋人みたいに指と指を絡ませ合っていた。
「…………ぷはぁー、ちょっと休憩」
 息をするのも忘れてリオを貪り尽くしていた理央が、身体を起こし口元を拭う。手指に滴る残滓を舐める仕草に、リオの疼きは一向に収まらない。
 一息入れたことで、理央は再び余裕で固めた笑顔を浮かべる。エメラルドの輝きに反射していたのは、追い縋るような自分の表情だった。
「さてと、そろそろいいかな」
「なにが?」
「なにがって、後でしっかりよろしくしてもらおうかと」
「あーはい。胸ね」
「その言い方は、ちょっと風情が足りないかも」
 オブラートに包んでも欲望しかない状況に呆れていると、胸に鋭い刺激が走る。
 理央の細く冷たい指先が、リオの膨らみの上を摘んできていた。
「ちょっとまって……あんっ」
「声出したらみんな起きちゃうから」
 こいつ、マジか? そう声に出ていた。
確かに触っていいと許可したが、真っ先に一番弱いところを攻めてくるなんて一体誰が思うのだろう。
 その旨を必死に抗議している間も、理央は夢中でいじくりこねくり回してくる。
「あぅ……だから本当に、ダメだって」
 抵抗する腕を抑えられる。摩擦によって熱を帯びた部分は、外気に触れるとゾクゾクとした刺激を感じて……っておい。
 乱れた浴衣からこぼれた先端は、直接触れられた訳でもないのに身を固くして……ってこれ以上やられたらどうにかなってしまう。
「よろしくって言ったのに。ぶー」
 押し返されて、理央は不服そうにしている。
 心なしか、瞳のエメラルドも濁っているような気がした。濁るな。
「先っぽ以外は好きにしていいから」
 何を言っているんだわたしは? しかし背に腹は変えられない。
 理央はあっさり切り替えたようで、闇夜に縁取られた指先を伸ばしてくる。
 そのまま膨らみを一揉みされる。冷静に考えてなかなかの図だった。今夜は冷静に考えておくべきだった状況が多すぎる。誰かが目を覚ましたとき、リオの上に誰かが跨っているというシルエットは隠しようがなかった。
「ふぉぉぉ、や、やわらけー」
 感想がエロオヤジのそれである。リオも理央の唇に触れて同じことを思ったが、こうも情けなさみたいなものが極まってくるとは。
 一心不乱に揉みしだく様を見ていると、羞恥心が塊となって迫り上がってくる。
「腕がじゃまだよ。ちょっと上にしていて」
「あ、はい」
 どうして大人しく従っているのだろうか。約束を反故にできない自分の弱さが憎い。
 とはいえ、マッサージみたいな刺激に心地よくなっていく。身を委ねていたいと思ったところで、手指はじりじりと禁止されたエリアに近づいてくる。
 あえて直接は触れずに、焦らすような手つきに同じ場所が疼き始めてしまう。
「んっ……ふぅ」
「触ってないからね」
 確信犯かい。と冷静に反論できる状態ではなかった。仰向けに組んだ手の間でシーツを握りしめることしかできなくなっている。
 なるべく反応を薄くして、理央を満足させるまで耐え抜くしかなかった。
 ……ガサッ。
 突然、隣の布団から衣擦れの音が聞こえてくる。
 理央の手指がぴたりと止まり、リオの心臓はあまりの速さに息を続けられないぐらいの鼓動を鳴らした。
「うーん……」
 やばい、本当に起きちゃう。この状況ではこんもりしている布団を見られることが最大のリスクだと判断し、理央を咄嗟に胸元まで抱き寄せる。
「ちょっと、まだ途中なんだけど」
「それどこじゃないから。本当に起きちゃうから」
 互いの心臓の音ぐらいしか聞こえない距離まで密着して、二人で身を潜める。
「バレたらどうしようドキドキするね!」とでも言いたそうな笑顔が眩しい。とりあえず他の子が寝静まるまでは大人しくしていてくれと、リオは敏感になったままの胸を理央に押し付けていた。
「…………だいじょうぶかな?」
「…………たぶん?」
 さて、一度中断してしまったがどう再開しようか。
 リオとしては、このまま中止するというのもやぶさかではない。
「……キス、しよっか」
「……うんっ」
 なにが……うんっ、だよ。肉体を離れ魂だけの存在となった自分が待ったをかける。
 だけど、キスは一人では出来ないから。艶めく唇を近づけられたら目を閉じて、自分をそっと葬るしかない。
 そしてそのまま、何度目か数えるのもやめてしまったキスを…………しない。
 厳密に言えばしているのだが、理央が唇を重ねていたのはリオの唇ではなかった。
「えぇぇっ? ほんと? うそでしょ?」
「ホント? ウソ? どっち?」
 理央が甘噛みするように、リオの敏感な部分に優しく歯を立ててくる。
 こんなの我慢できるはずない。リオが鋭利な刺激に身体をくねらせていると、そのまま舌を使って撫で回される。ぴちゃぴちゃと、自分の身体からするはずのない音が響く。
「だめっ……本当に声が出ちゃうっ」
「ホントの方だったんだ」
 ふふんと息を鳴らした理央が、胸元に顔をうずめてくる。
 リオは全身の身体が抜けた状態で、額に手を当ててなすがままにされていた。
「布団がこんもりしていたら怪しまれそうだったから」
「だからって、乳を吸うなぁ」
「乳を吸うって、その言い方はちょっと」
 この期に及んで言い方に難癖ってお前本当に何なんだよ? と怒る気にもなれない。
きもちいい? と何度も囁いてくる声をやり過ごしていると、ひくひくと揺れるリオの耳元に秘密を閉じ込めてきた。

「ねぇ、リオちゃん…………イッてみたくない?」

 その後のことは、あまり覚えていない。
 真っ白な闇に浮かんできたのは、不敵を超えて邪悪に笑う悪魔だった。
 リオをおかしくした舌づかいを思い出させる仕草で、手指に滴るものを舐めている。
 理央の指も、舌も、リオの身体から離れたというのに性感が満ちていく。身体を抱えてうつ伏せになるしかない。
すべてを曝け出したとしても、隠したいものがあった。
「嬉しい。泣くほどきもちよかったんだ」
 痛いところをつかれて振り向くと、涙の痕を正確無比に拭われる。
 この夜してやられたどんな敗北よりも、その仕草をされたこと悔しかった。
「きもち……わるいし」
 悪魔を前にして生き残るためには、天邪鬼になるしかない。
「……ひゃうっ」
 残念ながら、天邪鬼とはかけ離れた悲鳴を上げてしまったが。
 浴衣の隙間から手を入れられている。湿り気のある指によるフェザータッチに、リオの感度は再び限界まで引き上げられそうになる。
「ごめん……もう本当にむりだよ」
「今日はもうしないよ。可愛いなぁ」
 今日は、というのが気になったが、それからの理央は別人のように優しかった。赤子をあやすみたいに背中を撫で続け、心地よいまどろみだけを与えてくれる。
「……落ち着いた?」
「……うん」
 背中をぽんぽんと叩くのが、終わりの合図だった。もっと撫でてほしいと上目を遣っていると髪の間に指を入れてくる。
「リオちゃんの髪が好き」
「どの口が言うか」
「この口だね。ふがふが」
「口に入れないの」
「それで、さっきの返事だけど」
「よろしくお願いします」
「ありがとう。大切にするね」
 背中越しに鼓動を鳴らす心臓が、トクンと跳ね上がった。負け続けてきた夜でも最後に勝てばよかろう。というところで手を打ちたい。
「そろそろ寝ようか。明日も修学旅行だし」
「本当に、どの口が言っているのかな」
 口を出さずにはいられなかった。誰のせいで修学とは全くかけ離れた状況になっているのか。諸々の不満をまとめて、後ろで鼻息を荒くしている理央に頭突きする。
 恋人同士で戯れ合うぐらいの力強さで。
 意識すると、耳の裏まで熱くなるのが分かった。
「くんかくんか。いい匂いなのだ」
「耳の裏なんて嗅がないで」
 指を離してからもずっと、理央はリオの頭髪にご執心のようである。
 抱きしめる力を強くすると、華奢ながら柔らかな膨らみが当たっている。散々いじられたばかりなのに、意識すると背中から汗ばんでくるのが分かった。
「真中さんばっかりずるい」
「真中さんかぁー」
「じゃあ、理央さん?」
「それだと、どっちのことを言っているのか分からないね」
 確かに、理央とリオのカップルって周りから見てややこしいかもしれない。
 そうでなくても、色々と思うところを生じさせるのは明白だろうし。
「私のことは、マナと呼んで」
 あっさりと自分の名前を捨てる理央。リオの苗字である「北条」ではいい感じの愛称にするは難しいとはいえ、こんな美少女からオリジナルを拝命していいのだろうか。
「リオちゃん」
「マナ」
「私たちだけの秘密だね」
「ふふ」
「私のことも撫でてよ」
 宵闇よりも深い黒髪に指を通すと、甘い香りだけを残してこぼれていく。
 気にならなかったと言えば嘘になる。触ってみたかったと言えば本心になる。頭の上に手を乗せると、理央が生きていることを伝う体温にたまらなくなる。
「明日の自由行動だけどさ」
「ん?」
「真中さ……マナの行きたいところに行こうよ。二人で」
 一日目、マナは人畜無害な顔をして班行動についてくるだけだった。裏でスケベなことばかり考えていたことが明らかとなって、心配して損した訳だが。
 もしも、この旅行に何か期待していたものがあって、それを誰にも伝えられなかったとしたら。
「リオちゃんと一緒ならどこでも……あ、でも」
「ん?」
「旅行中一回ぐらい、お風呂でエッチなことしたてみたいかも」
 一度だけ、本気の頭突きを食らわせた。
 愛ゆえに。

【7月18日】

 マナが隣にいる。
 気づいたのは、滝のように流れる黒髪でも、雪のように透明な肌でも、彼岸花のような色の唇のせいでもなかった。エメラルドに光輝く、瞳に見つめられたからでもない。
 それらの特徴は、真中理央という少女を表した共通言語かもしれない。誰がどう見ても同じ比喩が思い浮かぶというか、鮮烈なイメージとして脳内に刻まれるのだ。
 それでも、リオにとって、マナを他の人間と分かつのは香りだった。
 出会ったその日に肌を重ねたようなものだから、脳内を通り越して神経に刻み込まれているのかもしれない。
 最近では、互いの家にお泊まりして同じシャンプーを使う日も結構あるのに、自分とは明確に違うものだから不思議なものである。
 ともあれ、マナが隣にいる。
 ベッドの際に浅く腰掛けていた。どことなく事後を感じさせる構図である。もぞもぞと動いて、華奢な腰に腕を回す。現実を掴むために。
 はずみでベッドから落ちそうになるマナ。それがリオを起こさないための気遣いだったと知って、恋人の好きなところがまたひとつ増える。
 目を落としていたのは、昼休みの教室にいるときのように文庫本ではなかった。
 スマートフォンの画面を埋め尽くす文字の羅列、情報の渦だった。マナはSNSを一切やらないので、参照していたのは「まとめサイト」と呼ばれるウェブサイトだ。
 話題の出来事についてSNSの投稿などから情報を集約し、一つのページにまとめて提供されるものである。アクセス数に応じて広告収入を得られるため、収益化を狙って実態とはかけ離れた過激なタイトルを付けられることも珍しくない。
「起こしてくれればよかったのに」
「お気になさらず。弟くんで遊んでいたから」
「せめて「弟くんと」にしてくれないかな」
 人の弟を狂わせるのは止めていただきたい。義理の姉と呼ぶにはビジュアルから何まで刺激が強すぎるマナちゃんである。
「私ごときに狂わされる弟くんではないよ。リオちゃんの弟だし」
「わたしをブラコン、ないしは弟をシスコンに仕立て上げるのはやめて」
「お姉ちゃんのことをどう評しているのか知っている?」
「聞きたいような、聞くのがこわいような」
「摩擦のない人だって。さすがよく見ているね」
「敵の影を見れば火を放つ人がよく言う」
「私がそうするのは、そうする他ないからだよ。もしもリオちゃんと同じ地平に立てたのなら、誰とも争わなくて済んだのだろうね」
 マナにしろ弟にしろ、人を大地の精霊か何かだと思っているのだろうか。森林浴が趣味ではあるが、そんな超常的な存在になったつもりは一ミリもない。
 ただ、思えば昔から他人と争い事になることは少なかった。マナに言われて気づいたことだが、それに気づかなかったのが「摩擦のない」という意味なのだろう。
 家族もみんな人と争わないから、それが普通のことだと思っていた。
 父は横浜でいくつもの店を構えるレストランのオーナーシェフで、母はパティシエとして父と出会った。人を幸せにする仕事に誇りを持っていて、不幸な人には手を差し伸べて当たり前だと思っている。そんな両親だった。
 今日うちに親がいないのは、由依さんのところに行っているからだ。
 マナを初めて家に連れてきた時、両親はすぐに恋人だと分かったと言った。折を見て話をしようと思っていたから拍子抜けしてしまった。
「リオは誰にでも優しいから、特別な恋人ができて嬉しい」話を聞いて最初にそう言ってくれたことが、今でも胸に刻まれている。
 今回の事件で、ネットに蔓延る差別や偏見を垣間見て、リオにとっての普通が世の中の普通ではないことを知った。争いのない世界にいさせてくれた家族に感謝して、それを守らなければいけないと心に誓った。
 情報収集はリオの役目だ。それが情欲に溺れていてはマナを守れない。下らないことを書き込む人たちにマナを触れさせたくない。
「気にしないで。リオちゃんにばかり損な役割をさせても悪いから」
 損、という言い回しがいかにもマナらしかった。それが「辛い役回り」であれば、同情が力になるかもしれないのに。端末を手に再び情報の渦に身を投じる恋人を、後ろから抱きしめることで人の温もりを与える。
 しばらく見ない間に、まとめサイトの空気は様変わりしていた。
 ほとんどを占めていた「頭のおかしいやべー奴」という論調は共通知となり、それぞれ好き勝手に持論を述べるカオスが生まれている。会見での発言についてリオはある仮説を立てていたが、必ずしも成功とは言えない状況ではないだろうか。
「世の中には色んな考え方の人がいる、とはよく言ったものだね。みんな小説家になればいいのに」
 リオに頬を擦り寄せながら、まるで他人事のように言うマナ。確かにその通りだ。ある人にとっては、真中理央は犯人とグルで、保険金目当てに父親を殺害した性悪らしい。
「どこかでテコ入れしないといけないかもしれないね。それはさておき……」
「……ってちょいちょいちょい」
「んー? どしたの?」
「どしたのって、どうして服を脱いでいるのかな?」
「どうしてって、リオちゃんがこんなになっていたみたいだから」
 スマホを放って横になったマナが、物的証拠を示すかの如くシーツを摘み上げる。
 夢で見たのと同じ、苦悶の跡が刻まれていた。というか、夢で逢う前に自分で刻みつけていた跡だった。
「という訳で……」
「てぇーい!」
「あたっ」
 止まらず制服のボタンを外そうとするマナを、すかさず空手チョップで止める。
「お話しようお話」
「えー」
 夢か幻のせいで、エッチへの耐性が初期値に戻ってしまったかもしれない。
 ということにしておく。不満げな瞳の可憐さも目に入らなかったことにして。
「うち、今日親いないんだ」
「それわたしの台詞なんだよなぁ」
「そうでしたね」
「今日は、そういうのはいいんじゃないかな」
「私のこと、哀れな被害者遺族だと思ってる?」
 生唾を飲み込む音が聞こえた。胃の底が重くなり、嚥下していたのは自分の喉だったのだと理解する。
 ずっと考えていた。マナのために何ができるか。何をしてあげるべきなのか。
 望みは分かっている。悲劇に立ち止まらず、悪意に振り回されずに、変わらない日常を謳歌すること。
北条リオは、それを真中理央と分かち合える唯一の人間なのだと。
 でも、いまは。
「わたしの前では、それでいいんだよ」
 そう言ってリオは、恋人の口を塞いだ。

【7月27日】

 クラスメイトの死に、それほどの衝撃は受けなかった。
 葬儀の間、リオは会見の日の夜を思い出していた。あれからマナは一言も発することはなかった。抱きすくめられるまま眠りにつき、リオはその薄い背中をさすり続けた。
「……お直りください」
 黙祷が終わる。光を取り戻しても、リオの目は恋人の不在を認めるのみ。
 誰にも裁かれることのないように配置したから。その手際を思い出すだけで。
「…………やば」
 葬儀場を出ると、曇天には陽光が差し込まれ始めている。
 おろしたてのスニーカーで、リオは大きく一歩を踏み出した。
「リオ? どこに行くの?」
「ちょっと……マナのところに!」
 マナ? 頭の上でハテナを浮かべるクラスメイトを置き去り、二歩、三歩と駆け出す。
 弾ませた足音は、この場では不適切だと理解していた。悲しみに暮れるため、あるいは悲劇を演じるために、集団が選んだ静寂を切り裂いている。
 リオがこうすることを、マナは望まないだろう。
 その他大勢と同じ、匿名性の高い存在でいてほしいと願っていて、だからこそ一人事情聴取を受けているのだから。
 マナが惹かれたのは、リオに執着がなかったからだ。
 他人を見れば、リスクが人のかたちをしていると見ていたマナにとって、相手の幸せと自分の不幸で天秤を吊り合わせるリオの価値観は衝撃だった。
 それでも、マナは見誤った。天秤はとっくの昔に壊れている。
 あの夜から。マナの前ですべてを曝け出した、あの修学旅行の夜から。
 見つめているだけで匂い立つ黒髪も、冷たさに火傷しそうになる白肌も、他の誰のものであっても代わりにならない。
 マナが愛してくれる、リオ自身のものだとしても。
 それほどの愛が、この世界にはあったのだ。

みんなにシェアしよう