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殺されて当然と少女は言った。|MF文庫J発売前4タイトル特別試し読み!

2025/11/14

殺されて当然と少女は言った。






「生きている限り、世界と無関係でいることなんてできない」





『プロローグ』


【7月11日】

 夫は滅多刺しにされていた。
 真中由依がボランティアから帰宅すると、リビングは血の海。そこにぷかぷか水死体のように浮かんでいたのが、二十年間連れ添った夫だった。
 例えに死体が用いられるほどの死。どこからどう見ても死んでいた。
「り、りひとさん……」
 惨状を生み出したと思しき男は、血まみれの包丁を握りしめたまま正座し、天を仰いでいる。先に帰宅していた娘の理央は、尻餅をついて亡骸となった父を眺めていた。
「りっ…………りおっ!」
 娘の名前を叫ぶと、左右で異なる色をした瞳が由依を捉える。
 見つめ合う前に抱きしめていた。重なる心臓は異なる速度で鼓動を鳴らす。娘の胸から規則的な音が伝わるまでの間に、由依の心臓は二度も三度も激しく波打っていた。
 今すぐ白磁のような手を引っ張って、走り出さなければならない。逃げなければいけなかった。
それなのに、脚に力が入らない。
だから、抱きしめる。
 背中越しに、足音が近づいてくるのが分かる。由依は呼吸を浅くした。今さら息を潜めても、透明になれる訳ないのに。
 男が背後で静止する。終わりの見えない地獄は、由依から確実に気力と体力を奪っていた。空気中の酸素を上手く取り込めず、だんだん意識が遠のいていく。
「私はどうなってもいいから、娘には手を出さないで!」叫びたいのに、声が出ない。
無力に震える由依の瞳を、エメラルドグリーンの左目が見つめる。抱きしめられ、庇われていたはずの娘が、由依の肩を優しく掴んでいた。
 そして、微笑む。赤子をあやすように。
 それから、語りかける。赤子を慈しむように。
「大丈夫……だよ」
 薄れゆく意識の中では、耳鳴りの音しか聞こえない。視界は涙で滲んで、宝玉の輝きを頼りにするしかない。
 家族代々受け継がれてきた、栗色の瞳とは異なる、オッドアイ。
 それが、由依が気を失う前に見た、最後の光景だった。

『真中由依』


【7月18日】

「報道が事実であれば、父は殺されても仕方ないと思います」

 それは、由依が想像もしていない言葉だった。

 ―命を持って償ってほしい―
 ―父の命を奪った犯人を許しません―

 県警本部では、遺族による記者会見が行われている。
 娘が述べたのは、犯人に対する怨嗟の言葉ではなかった。

 ―仕方ない―
 ―仕方ないと思います―

「りっ、りお……ちゃん? うそっ……嘘よね?」
 娘は何も言わない。
「だって……理人さ…………お父さん、あなたのことあんなに大切に」
 娘は、何も言ってくれない。
 何も言わずに振り向く。かつて安らかな眠りに導いてくれた、由依たち夫婦からは望むべくもない異邦の輝き。あの時と同じエメラルドの瞳が、フラッシュの光に遮られることなく由依に注がれている。
「おねがい理央! 嘘だと言って!」
「お母さん。落ち着いて」
 落ち着いて? 目の前で夫を惨殺されて、ショックで気を失って。
 正しくは目の前ではない。帰宅すると夫は死体だった。死の瞬間を目撃した者がいるとすれば、それは平然とした顔で隣に座っている娘だけなのだ。
 それなのに、どうして。
 殺されても仕方ない。なんて言葉が出てくるのか。
『只今より質疑応答に入ります。ご質問のある方は挙手を……』
 由依が現実を受け入れられないでいると、司会者の声がフラッシュを沈める。代わりに蠢く無数の腕。由依が発言を終えた直後とは、会場の空気が一変していた。
『では……そちらの最前列にいるファーニットの女性の方、グレーをお召しの』
『首都新聞の……』
「名乗る必要はありません。あなたが何者か、私たち遺族には関係のないことです」
 娘が勝手にマイクを入れて答える。それを見て困惑する司会者の表情に、由依は共感の念を抱いていた。ついていけないのは自分だけではないのだと。
『報道、というのは真中議員による学生時代のいじめの件でしょうか?』
「そうですね」
 娘が淡々と答えると、凍りついていた会場が熱を取り戻す。この世で最も残酷と言える事象が、不特定多数の者たちによって拡散されていく。
『それって二十五年も前のことですよね?』
「報道が事実であれば」
『容疑者がいじめの被害者であれば、あなたはお父様を惨殺されても納得できると言うのですか?』
「納得ではありません。亡くなったことは悲しいですから。でも、理解はしています」
『理解、ですか?』
「こういうケースもあるという。だから仕方ないのです」
 一字一句が、由依の身体を巡る血から酸素を奪っていく。
「…………ハァ、ハァ」
 肩で息をしながら、由依は葬儀場での記憶に手をかけていた。
 娘の胸の中で気を失った時から、由依の意識は途切れるようになっていた。そんな親に代わり、娘が喪主としての役割を果たしてくれていた日のこと。
 娘には、余裕があった。
 滅多刺しにされた遺体の第一発見者でありながら、心穏やかに弔問客たちを迎え入れるだけの余裕があった。
「……化け物」
 遺族を前に涙を浮かべる人たちを見て、天使の微笑みをたたえていた。
「……やめて」
 振り絞られた悲鳴を気にも留めず、娘は記者たちとのやり取りに興じている。
 その声に当てられることを拒もうと、耳鳴りが由依の感覚を支配しようとしていた。
 涙で滲んだ視界も、すでに由依を守る機能として刷り込まれていた。それでもあらゆる感覚を閉ざして、安寧のままいられることは叶わない。
 聞いてしまった。娘が鳴らす鼻音を。
見てしまった。控えめに弧を描く口元を。
「…………もう嫌ぁ! もうやめてぇ!」
 絶叫が耳鳴りをかき晴らし、刮目が目の前の光景に向き合わせる。記者たちの息をのむ音がよく聞こえる。壇上を照らすフラッシュライトの光も、よく見える。
「今日はここまでにしましょう」と冷静に対処する娘がそこにいた。
 異変を察し、警護に当たっていた女性刑事が駆けつけてくる。地獄の中で、肩を抱いてくれたのは娘ではなかった。優しくも有無を言わせない力で、娘の皮を被った化け物から引き剥がされていく。
『最後に、一ついいですか?』
「どうぞ」
『この会見を選んで、お父様が殺されても仕方ないと言った理由を教えてください』
「あなたのお名前は?」
『フリーライター……いいえ、ノンフィクション小説家の西宮和義と申します』
「にしみやかずよしさん。お話はまたの機会に」
「会見は終わりだ! これ以上撮影するなら別室で話を聞かせてもらう!」
 会場の裏に出ると、張り詰めていた糸が切れる。ふらふらと自重を支え切れなくなった由依を支えたのは、怒号により記者たちを一蹴した女性刑事だった。
「祥子さん。お手数をおかけしました」
「あなた……何なのっ! きゃっ」
 その彼女を、娘は名前で呼んでいる。化け物の口を塞ごうと詰め寄っても、同じ女性とは思えない力に抑え込まれてしまう。
「すみませんお母様……お気持ちは分かりますが抑えてください」
「私は! 母親じゃないっ…………あの人の、妻です」
「祥子さんに八つ当たりしたらいけないよ。お母さん」
 エメラルドの瞳が静かに凪ぐ。並外れた美貌を持って生まれた娘を、さらに特別な存在する異邦の輝き。母親として誇らしいものを感じていたはずなのに、今は眺めているだけで深い海の底に沈んでいきそうになる。
『プルルルル。プルルルル』
 海底にいる由依を、着信音が目覚めさせる。娘にかかってきたものならば、相手は一人しかいない。真中理央にとって、特別な繋がりのある相手など。
「もしもし、リオちゃん?」
 娘には同性の恋人がいた。紹介された時は驚いたものだったが、多様性の時代に理解を示しながらも、親としては葛藤があるとかそういうレベルの話ではない。
 孤高の存在に手を伸ばした者がいる。性別なんて瑣末な問題に過ぎなかった。
「少し外します。祥子さん、母をよろしくお願いしますね」
 そう言って、立ち上がってからの足取りは軽かった。
 恋人との電話中、娘は別人になったように生き生きとしている。警護に当たる刑事たちが重苦しい雰囲気に包まれているのに、羽でも生えてきたみたいだった。
「……どうぞ」
 怒りの矛先を見失った由依が座りこけていると、祥子がお茶を出してくれる。凛とした仕草に同性として憧れを抱いてしまうが、警護中であっても「台所に立つのは女」という悪しき慣習に染まっている。そのことに場違いな憤りを覚えずにはいられない。
「あの……すみません」
「これは個人的に用意したもので、他の人には出していません」
 やはり刑事だけあって、人を見抜く才能があるのか。そんなもの必要ないぐらいに顔に出ていたのか。祥子は自分の分のお茶を手に取ると、長机を挟んだ対角線上に座る。
 娘は部屋の隅に立っていて、電話の声は聞こえない。由依に見えるのは、最愛の人との会話に胸を弾ませる横顔だけだった。
「……おいしい」
 出されたお茶を一口含むと、豊かな香りが広がる。エメラルドよりも深い色合いをした液体は、覗いているだけで荒み切った心を落ち着かせてくれる気がした。
「旅行先で見つけて。私のお気に入りなんです」
 祥子の声は涼やかで、顔立ちは凛々しかった。一つにきゅっと結ばれた黒髪は、由依と同じ色とは思えないぐらい瑞々しさがある。
「すみません、取り乱してしまって。今もその……失礼な態度を」
「気にしないでください」
「ですが」
「あなたは……こんな言い方は失礼かもしれませんが、立派な方だと思います」
「立派?」
「このような状況になっても他人を気遣うことができる。誰にでもできることではないと私は思います」
「それなら、娘は……」
 祥子の瞳が、微かに瞬く。
 何かに思いを馳せているようで、澄んだ目の奥には揺らぎが生じていた。
「り……娘さんは、そうですね。私の少ない経験から言っても初めてのことです」
 言葉を選びながらも実直に述べる姿に、由依は好感を覚える。女性刑事というだけでも珍しいのに、大学生と言われても不思議はでない若々しさがある。少ない経験というのも全くの謙遜ではないのだろう。
「娘のことは……実はよく分からないんです。昔から」
 少しの沈黙の後、口をついて出たのは思ってもみない言葉だった。
 夫を殺した犯人よりも、娘の心情が計り知れないのか? 知りたいというのか?
由依を無意識の内に守ってきた、呆然自失のメッキが剥がれていく。
「聞いてもらえますか? 娘の……真中理央の、昔話を」

理央が中学二年生の時、クラスで虐めがあった。
 一人の女子生徒が恋愛関係のもつれからグループで仲間外れにされ、容姿について揶揄われたり、持ち物に悪戯されるようになったものと記憶している。
 理央に話を聞くと、私は当事者ではないとの一言。言葉選びが中学生離れしている点は置いておくとして、親としてまず安心する。
 その上で、顔も名前も知らない被害者を気の毒に思っていた。
「当校といたしましては、今回の事案を重く受け止めていましてね。クラスメイト全員と親御さんに、こうしてヒアリングを行うことにしたのです」
 淡々と説明するのは、学年主任である男性教師だった。
 虐めの発覚から間もなく、個別の聞き取り調査が実施される運びとなる。
 夫の口添えもあったのだと思う。娘のいるクラスで虐めがあってそれを放置していたと世に知れたら、県会議員の立場として何を言われるか分からない。
 それに経緯はどうあれ、学校内で起きた問題に外部の視点を入れる姿勢は望ましい。
「今クラスで起こっている虐めについて、何でもいいです。真中さんが思っていることを話してみてください」
 そう慎重に言葉を選ぶ、担任教師は若い女性だった。
 愛らしい顔立ちが台無しになるほどの気苦労が滲み出ている。仕事以上の感情が見えてこない学年主任とは異なり、被害者のいる状況に胸を痛めている様子だった。
「ここで話したことが、外部に公開される可能性は?」
「ここでは、えっと……」
「話を基に聴取を進めることはあっても、情報源については一切口外しないよ」
 担任教師が言い淀んでいると、学年主任が用意していた回答を述べる。
「それを聞いて安心しました」
 一言呟くと、理央が取り出したのは名詞サイズのマグネットの束だった。
 それぞれにクラスメイトの氏名が印字されている。授業中に板書する手間を省くための道具として、由依の学生時代にも見覚えのあるものだった。
「虐めというのは、シンプルに組み合わせの問題だと思うのですよ」
 理央は束の中から一つ取り出すと、ホワイトボードの外側に置く。それからパズルのようにマグネットを並べ始めた。中心には被害者とされる生徒と、加害者グループの中心人物とされる生徒たちが配置されていく。
「やはりこの配置がよくない。先生が若いからいい経験になるとでも言って、ヤンチャな男子サッカー部と女子バレー部の主要どころをまとめて面倒見させたのでしょう。虐めが発生した場合、男女混合グループによる性被害にすら発展しかねないのに」
 並べ終えたところで、黒のマーカーで矢印を描き生徒たちを繋ぐ。その横には互いの関係性を示す言葉が描き込まれる。「支配」や「従属」といった、およそ平穏な学校生活には馴染まない言葉の数々に、由依の胸がざわついた。
 でも、それよりも。
 由依の心を締め付けたのは、一つだけ外に置かれたままのマグネットだった。
 ホワイトボードには、クラスメイト40人中39人の名前が並んでいる。虐めの被害者でなくとも、今回のことで心を病んで不登校になってしまった生徒の名前もある。
 それなのに、「真中理央」の名前だけがどこにもなかった。
「大体こんな感じでしょうか。他の生徒の証言と照合してもらえれば」
「あの……真中さん、あなたはどこに?」
「私ですか? この中に特別な繋がりのある人間はいません」
「へ?」
 それだけ言うと、理央はクラスメイト39人をばっさりと切り捨てる。
 短い悲鳴を漏らした担任教師を、エメラルドの瞳が不思議そうに見つめていた。
「これまでのヒアリングで、一人でも私の名前を出した生徒はいましたか?」
「実は……複数の生徒から名前が上がっています。被害生徒と加害生徒、どちらに対してもさりげなくフォローをしていると」
「あら、そうなのですか」
「先生たちは、君がこの事態を解決するための鍵だと思っていてね」
「鍵ですか」
「どうだろう? ここで一つ、クラスを導いてはもらえないだろうか」
「ちょっと、待ってください!」
 端正な横顔に見惚れていると、看過できない状況に陥っていた。生徒同士のトラブルを無関係の娘に解決させるなど、それこそ夫に話したらどうなるか分からない。
「主任、いくらなんでもそれは……」
「娘が報復の対象になるかもしれない。それを理解した上で言っているのですか?」
「いやね、私は今回の件をある種のチャンスだと思っているのです。生徒たちには、自分たちの力で問題を解決する経験を積んでいってもらいたい」
 この発言が事なかれ主義の極致によるものか、心の底からそう思っているのか由依には判断がつかなかった。後者であれば、教育者として極めて重症である。
「なるほど、お断りします」
「何故だ? 君ならあの子たちを導くのも容易だろう?」
「そうですね。マインドコントロールするのは造作もないと思います」
 理央がため息をつく。そこに苛立ちが混じっているのを由依は感じる。クラスメイトを支配対象としか見ていないことには、戦慄を覚えていた。
 だが今は、娘が当事者の一人となり得る状況を是正する必要がある。
「これまでも、人知れずクラスをフォローしてきたのだろう?」
「人としての最低限の良心に基づいた行動に過ぎません」
「は?」
「ほとんどの生徒が、その最低限にすら達していない現状を憂いるべきでは?」
「君ねぇ」
「いい加減にしてください! クラス全体の問題を娘一人に背負わせるなんて。これ以上続けるようでしたら、夫からも正式に抗議させていただきます」
「まぁまぁお母様、落ち着いて」
「理央ちゃん、あなたも先生やクラスのお友達に失礼でしょう?」
「確かに中学生相手に多くを求め過ぎましたね。お互い様のような気もしますが」
 まだあどけなさの残る笑顔が、由依たち大人をたおやかに射抜く。
 そういう呪いにでもかかったみたいに、瞳を吸い寄せられたまま目が離せない。
「ところで皆さんは、人間が持つエネルギーについてどうお考えですか」
「「「は?」」」
 中学生とは思えない発議に、大人たちが言葉を失う。期待した反応に満足した様子の理央が、瑞々しい唇を弾ませながら話を続けた。
「人ひとりに扱えるエネルギーの量って変わらないと思うのです」
「理央ちゃん……あなたは一体何を言っているの?」
 言っている意味がよく分からない。大人たちの困惑を糧にして、理央の薄い唇が潤いを増していく。演説が楽しくて仕方ないといった様子で饒舌になっていく。
「例えば、ネットで炎上した有名人が自殺した時、多くの人は「何でそんなことで?」と思うでしょう。それは、一人では耐えられない量のエネルギーを扱ったからです。自分の人生を生きるためのエネルギーが特定の個人に向けられる。一人ひとりの量は多くなくても、それが何千何万ともなれば、常人には耐えられないプレッシャーになる訳です」
「ネットのように、目に見えないものにもエネルギーがあるんですか?」
 しばらく口を挟む余裕もなかった担任教師が尋ねる。上目遣いで教えを請うような仕草を見ていると、どちらが先生なのか分からなくなってしまうが。
「私が言いたいのはもっと即物的な意味ですね。かけた時間そのものにエネルギーがあるといいますか」
 淀みなく答える様は、少なくとも常人の域にはなかった。仮に誹謗中傷を受けるような目に遭っても、理央がそれに耐えられなくなる姿は想像できない。
「それで、君は一体何を言いたいんだ?」
「分かりませんか?」
「要はその報復のエネルギーとやらが恐ろしいのだろう?」
「全然違います」
「理央ちゃん、いい加減にしなさい」
「先生方は、この状況における最大のリスクとは何だと思います?」
「だからそれは、加害生徒たちから報復を受けることじゃないのか?」
「彼女たちの存在など取るに足りません。自分の全存在を懸けて虐めを行っている訳ではありませんから。取り巻きたちにとっては一種の娯楽でしょうし」
「娯楽って……彼女たちにも、それぞれ事情があると聞いています」
「事情ってしょうもない恋愛トラブルのことですよね? 虐められているあの子、男の子ならみんな好きになってしまいますよ。庇護欲をくすぐる顔をしていますから」
「は?」
「それに虐めていたあの子、誰よりも親しいつもりなのでしょうけど、意中の男の子との脈はありません。その程度の現実、自分の中で適当に処理しておいてほしいものです」
 あの子とか、別のあの子とか、その程度の現実とか。
 加害者の事情などそれこそ取るに足らないと、傍から見たままを語る理央。大人たちの絶句を受け取り、分かりやすく息継ぎをして話を続けた。
「話を元に戻しましょう。仮に私が動くことで虐めが解消されれば、被害生徒の全存在が私に向けられることになります」
「まさか、君はそのエネルギーには耐えられないと言うのか?」
「真中さんなら、自分の存在を隠して立ち回ることもできるでしょう?」
「それは苦しいですよ。すでに私について言及している生徒がいるのですから。あなたがそう教えてくれたのですよ」
「それは……」
「もっと言うと、直接手を下したかどうかはどうでもいいのです。私のおかげだと彼女に認識されてしまうことが、今回のケースにおいては最悪の結末となる」
「理央ちゃん!」
「最悪なんて……」
 被害者が救済されることの何が最悪なのかと訴える、担任教師の眼差し。慈悲を求める瞳は、宗教団体の教祖に縋る信者のようだった。
学習机二つ分隔てられた距離だけが、彼女が大人として終わる結末を留めている。
「人に期待してはいけない。人に依存してはいけない」
「真中さん………」
「この先、被害者は問題が生じる度に私を頼り、依存することになる」
「そうやって助け合うことの、何が悪いの?」
「そうやって期待や依存した結果、裏切られたら? 私を恨みますよね」
 恨み。この言葉を紡ぐ瞬間、僅かに語気が荒くなるのを聞き逃さなかった。
 助けたはずの相手に恨まれる。それが想定している最悪のシナリオだという。
「その時、私に向けられるエネルギーはそうですね……虐めどころじゃない。人を殺せるレベルになります」
 再び何も言えなくなった担任教師に、理央が追い討ちをかける。肩を震わせ呼吸を荒くしている様を、少しでも見られないよう俯くことしかできなくなっていた。
 目上の人間に対する最低限の配慮か単に興味を失ったのか、理央は窓の方を向いて担任教師を視界から外す。再び無音となった教室に、汗の滴る音だけが虚しく響いた。
「…………ハッ。人を殺せる?」
 疑問符には嘲笑が含まれていた。下を向いて動かなくなった担任教師に代わって、学年主任が呆れた表情で理央と向き合う。
「そんなことで人を殺していたら、世の中殺人犯だらけだ」
「でも、リスクは0じゃないですよね」
「ハァ」
 はっきりと、教室全体に響き渡るように学年主任がため息をつく。
 仮にも生徒を相手している時の態度とは思えない。募りに募った苛立ちを隠そうとすらしていなかった。
「私はリスクを限りなく0にしたいのです」
「優秀な生徒と聞いていたが、やはり子どもだな。社会に出れば他人と無関係でいることなんてできない」
「あくまで今回の事案においては不可抗力だと?」
「だから、自分の思うようにコントロールできないのが社会なんだよ!」
 突然大声をあげ、両手を机の上に叩き下ろす学年主任。
 内臓を震わす音に、由依は現実を思い知らされる。目の前の男が本気になれば、か弱い女たちでは束になっても敵わない。
 それでも、理央だけは真っ直ぐ目の前の事象を捉えていた。
 ゆっくりと手を伸ばすと、ホワイトボードから零れ落ちたマグネットを一つひとつ並べ直していく。栗色の瞳は最後まで、微塵の恐怖にも震えていなかった。
「……最後まで私がやってもいいですが、それだと成長できませんよね。先生、ちょっとお手を拝借してもよろしいですか?」
 学年主任が、怒りで赤くなったままの手を差し出そうとすると。
「いえ。壮年の男性の手に触れる趣味はありませんので……失礼します」
 白磁のような指が担任教師の手に触れ、項垂れていた身体がビクッと震える。
 由依には覚えがあった。理央に触れられると、心臓に直接手をかけられたような感覚に陥る。眼差しの柔らかさと、体温の低さによるギャップによるものかもしれない。
「先生……あなたには、何が見えますか?」
 理央は手を重ねたまま、ゆっくりと担任教師の後ろに回り込む。頬を近づけ、耳に息を吹きかけるようにして彼女に尋ねた。
 娘が年上の女性を悶えさせている場面なんて、まま見られるものではない。
「真中さん……わたし」
「先生が生徒のために一生懸命頑張ってきたこと、私は知っているから。どうすればいいのか分かるよね? 大丈夫。大丈夫……だよ」
 担任教師は頷くと、託されたマグネットを並べ始める。初めのうちは手を添えるようにしていた理央だったが、一度首をひねると、彼女の指から残りの何枚かを奪った。
 一体、何を見せられているのか。
「これは……何だ?」
 学年主任が、由依の抱えた疑問を代弁してくれる。完成した配置は、崩れる前とは全く違っていた。理央を除いた39人の生徒たちが、大きく3つの島に分けられている。
「もうすぐクラス替えの時期でしたね」
「何のつもりだ?」
「確かに私は子どもだったかもしれません。安全には相応のリスクが求められる」
 そう呟くと40個目、最後のマグネットをホワイトボードの上に置く。
 3つの島はクラスを表していて、被害生徒と加害生徒の主犯格、恋愛トラブルの原因となった男子生徒、主犯格の取り巻きとされる女子生徒2名をそれぞれ中心に構成されていた。理央が自らを配置したのは男子生徒のいる島である。
 3つの島のどこかに入れられた他のクラスメイトたちも、それぞれの関係性が描かれた矢印によって結ばれていた。
「だから何のつもりだと聞いている!」
「来年度のクラス割です。この通りに配置すれば、虐めは消滅します」
 生徒どころか、教師の領分さえも軽々と飛び越えた越権行為。
「ちょっと、待ってください!」
 張り切る小学生のように挙手をする担任教師は、すでに教師の領分を逸脱していた。
「ご質問があればどうぞ」
「水谷さんと沢村さんを、同じクラスにするのですか?」
「二人が一緒の理由? 虐めっ子の水谷さんは……面倒くさいな、Aとしましょう。Aは一人では何もできません。だから取り巻きのBとCから離しました」
「だからって、わざわざ沢村さんと近づけなくても」
「分かっていませんね。虐められっ子の沢村さん……Xとしましょうか。AとXが同じ教室にいてもなお、虐めが発生しないという事実が重要なのです。それはXの自尊心を取り戻すための措置でもある」
「自尊心を取り戻すための、措置……?」
「先生方が日々の業務で手いっぱいなのはお察しします。ですが、表面上解決したように見せるだけでは何の意味もない。有能な教師を目指すのなら、生徒が真に大切にするべきもの、自尊心を丁寧に扱う必要があります」
「それなら、本上くんも同じクラスにしないのですか? 水谷さんが一人になればなおのこと、沢村さんのことを守ってくれるはず」
「今回の事案は、そもそもその男子生徒・Yが自分に向けられた矢印の対処を誤ったことに起因します。それどころか、Xにいいところを見せようと優しくして、Aの火に余計な油を注いでいる。AとXが対等な立場で、YがXに矢印を向けたらどうなります? Aのプライドは引き裂かれ、自分の全存在をかけた加害行為に出るでしょう」
「だから、二人から本上くんを取り除こうと言うの?」
「取り除くとはいいですね、先生。本当はYとCを同じクラスにするのが手っ取り早いのですよ。YはXと付き合えないのなら、Cとの交際を望んでいるようなので。Yは自分に対して従順な子を求めています。それが一見すると大人しい子とは似て非なるものと理解していないのが浅はかなところです。とはいえ、その組合せだとAの矛先がCに代わるだけ。だから、Yの矢印が今回の事案とは無関係な子に向くように隔離する。結局、可愛くて従順な子なら誰でもいいのですから」
 あらゆる疑問、懸念に、理央は先回りした答えを用意している。
「この配置で事態が解消されなければ、私が直接Aに働きかけましょう」
 クスリと笑う拍子に、黒曜石のように艶めく髪が揺れる。影に隠れていたエメラルドが露わとなって、約束の日など来るはずないことを示していた。
「自分たちの力で問題を解決する経験になりましたね。それでは失礼します」
 それだけ言い残すと、理央は教師たちの返事も聞かずに教室を後にする。
 その後、虐めに関する経過が報告されることはなかった。発表されたクラス編成を見て戦慄した記憶だけが残っている。
 理央の配置した通りになっていた。
 当の本人は気にも留めていない。リビングに来て昼食を取るついでに、学校で配られた名簿を置いていっただけのこと。
 ヒアリングの場では、あえて言質を取らず学年主任が判断する余地を残していた。続く生徒たちの話は、配置の有効性を裏付けながら理央自身の存在を薄めていっただろう。
 教師たちは傀儡となった自覚もないまま、すべて理央の言う通りにしていた。仮に虐めが続いたとしても、再び彼女を頼ることはないという暗黙の了解付きで。
 このクラス編成は、ヒアリング結果に基づいて学校側が決めたものなのだから。
 今となっては、加害者や被害者の名前が正しいのかさえ危うい。卒業式の直後、適当に処分しておいてと渡された卒業アルバム。その中に映っていたのは、誰一人として欠けることなく笑顔を並べた集合写真だった。
 真中理央だけが、それと似た表情でどこか遠くを見つめていた。

「すみません。何だかとりとめのない話になってしまって」
「いえ……娘さんのことがよく分かりました」
 話を聞き届けた祥子の頬には、ほのかに朱が混じっていた。似た色を由依は見たことがある。中学の担任教師が、理央に導かれるまま手を動かしていた時のものだった。
 それに気づかない振りをして、すっかり熱を失ったお茶に手を伸ばす。柔らかな香りが心を落ち着かせ、乾いた喉を潤してくれる。
 昔の話をしている間に、中継カメラは会見場とは別の現場を映していた。
「テレビ消しましょうか」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です」
 今は由依たちの警護に当たってくれているが、祥子の本来業務は犯罪捜査である。精神的苦痛を理由に、テレビで情報収集をするなとは言えない。
『……たくさんの生徒さんを見てきましたが、あの子ほど特別な才能を感じさせる子はいませんでした』
 忘却の彼方にある声を判別できたのは、今だったからかもしれない。
「この人……」
「ご存知の方ですか?」
「先ほどお話しした、学年主任の先生です」
 記者から取材を受けていたのは、理央の傀儡となることを選んだ男だった。
『彼女が中学二年生の時でしょうか。クラスでちょっとしたいじめがありましてね。私は事態を収拾するために、クラスメイト全員にヒアリングを行ったのです。他の生徒さんが自分は無関係だと訴えるのに終始する中、彼女だけは視点を別にしていました』
『視点とは、どういうものでしょうか?』
『次年度のクラス編成を作成して、私に提案してきたのです』
『一人の生徒が、学年全体をコントロールしようとしていたと?』
『およそ普通の学生からは出ない発想に、私は衝撃を受けました。しかし、他の生徒さんたちから証言を集めていくと、彼女の案こそ最適解だと思うようになったのです』
 一瞬、記者のポーカーフェイスが崩れかけたことを由依は見逃さなかった。悪意の芽に気づく才に恵まれた自分が嫌になる。誰の影響なのかは考えるまでもなかった。
 記者としては、理央の特殊性に話を持っていきたいのだろう。学年主任が武勇伝として語り始めたことも本意でないはず。プロとして塗り固めた笑顔と相槌も、すくすくと育つ虚栄心に水を与えるだけだった。
「フフ、特別か」
「理央さん」
 蕩けるような甘い声。音もなく後ろに立って、テレビを眺めていた理央が呟く。
「お母様から聞きました。あの先生のこと」
「どうです? 実際の印象は」
 背中を撫でる声が冷たくなる。その刺激は思考を活性化させ、由依に一つの仮説を導いていた。恋人との通話は終わっている。余韻は物憂げに変わっている。
 それでも色褪せないエメラルドの輝きは、祥子を特別と認めている証だった。
「立場上、あまり答えたくはないですね。話に聞いていた通りとしか」
「使えなくもないですが、悪目立ちされてはマイナスでしょうか」
 どうして? いつから? 中学時代の話も聞かれていた? 悪意に慣れたはずの思考は翻弄され、頭の中が真っ白になってしまう。
『教師と生徒が共に試練を乗り越えた時、本当に強くなれる。彼女との時間は、教育者としての私の理想を体現したものでした……』
 学年主任の自分語りが続く。根も葉もどころか土壌すらない戯言に対して、憤っていいはずなのに。
 使えなくもない。
 理央の下した評価はそれだけだった。この男が何を言っても、数直線の僅かな変動以外生じることはない。今すぐ教室に怒鳴り込んで、その現実を分からせたいと思うのは由依だけだった。
 多くの血を吸収して根付いた暴力性は、いとも容易く敵の破滅を願わせている。
「お母さん大丈夫? 顔怖いよ」
 その大丈夫? というのをやめて!
 叫びかった。実際に叫び出していたかもしれない。
 大丈夫なはずないだろう。夫を殺され、マスコミの餌食にされて、そして……。
「あなたは……どうして?」
 それでも、真中理央のように平常心を保っていられたら、頭がおかしい。
 縋るような問いへの答えに、言葉は必要なかった。相手を安心させるためにならされた目元。歪められた口元。
そこに光はない。特別な繋がりは、何もない。
「……ごめんなさい。今はあなたの顔を見たくないの」
「分かった。しばらくリオの家に泊めてもらうね」
 離れていく理央の足音から、後悔の念は聞こえてこない。
 特別で結ばれた祥子が、その背中を見守るように寄り添っていく。
 スタジオではコメンテーターたちが意見を交わしていた。理央を特別にしたい、時代の象徴に仕立て上げたいという意図を隠そうとすらしていない。
『議員はいじめの加害者ですからね。育て方に問題があったのではないでしょうか』
 芽吹き始めた殺意は、すでに行き場を失っていた。

【7月25日】

 会見から一週間。
由依たち母娘を繋ぐものは、書類のやり取りだけになっていた。
 保険の請求、葬儀費用の支払い、遺族年金の手続き。呆然自失となった由依の代わりに準備を進める理央が、署名・押印の上返送を求めてくる。
 まだ高校生の娘がこうして親の死に向き合っていることを思うと胸が苦しいが、冷静に対処するべき事案ぐらいにしか思っていないことを想うと心が張り裂けそうになる。
 祥子は、折に触れて様子を見に来てくれていた。
捜査状況を報告するためだと言うが、その実理央の差金だろうと由依は見ている。
「理央は……元気にしていますか?」
「私も何度か顔を合わせたぐらいで。由依さんをとても心配していましたよ」
 心配とは、私が何かをやらかす不安の間違いではないのか? 浮かんできた皮肉を内に留める。特別な存在である祥子は、理央と何度か顔を合わせている。
 特別だから、なんてことないみたいにそう言えるのだ。
「捜査に、何か進展は?」
「機密なのですが、協力者の存在も視野に入れて捜査を進めています」
「協力者? そんな人間がいるような印象は抱きませんでしたが」
「娘さんもそう言っています。ですが、それはあくまで犯行当時のものです」
「それは……どういう?」
「何者かが隅田を匿っている可能性が考えられます」
 その先は、最後まで言わなくても理解した。報道などで犯人の境遇を知り、逃亡の協力を申し出た人物がいる可能性。客観的に見ておかしな点はない。
 被害者の娘が、殺されても仕方ないと公言するぐらいなのだから。
「ここ数年、ネットを中心に犯罪者を英雄に仕立て上げる風潮がありますから」
 由依がテレビをつけると、まさに犯人についての特集が組まれていた。
『中学時代から、人生のピークを迎えた真中理人を殺すことを夢見ていた』
 マスコミ各社に送られてきた犯行声明には、そのように書かれていたという。

『幸せの絶頂であいつを殺そう!』

 犯人報道後、そんなスローガンが出回るまでに時間はかからなかった。現在虐めを受けている被害者たちが、SNSに未来の犯行声明を出して鼓舞し合っている。
 最初はイニシャルトークだったものが、過激性と共に実名性を帯びていく。拡散された生々しい痛みの記録は、人々を駆り立て具体的な行動を起こさせる。
加害者のSNSが晒されれば、誹謗中傷の集中砲火。職場や学校名が明かされれば電話回線をパンクさせるクレームの嵐となり、関係者をノイローゼに追い込んでいく。
 殺人犯・隅田良生は、この現象を巻き起こした開祖として崇められていた。
 それ以上に、何の声明も出さずに崇め奉られる存在がいて、それが真中理央だった。
 加害者の事情を鑑みて家族の犠牲を受け入れる姿勢は、生まれた環境に依らない生き方として、若者を中心に曲解されていった。
「この地獄が、娘の望んだものなのでしょうか」
「本当に、そう思いますか?」
 由依を試すような、もっと言うと非難するような眼差しを祥子が向けてくる。
 確かに、これまでの行動や言動を考えると理解し難い。クラスメイトとも全く関わろうとしてこなかった理央が、世間から注目される状況を望むはずがなかった。
『真中理央さんについては、同性愛をカミングアウトしたことも注目されています』
 キャスターの声は淡々としていて、真摯に扱うことを表明しているようだった。
 それ故に、同性愛やカミングアウトといった言葉の強さが際立つ。それらは由依の抱く娘像とは大きくかけ離れたものだった。
『私はね、彼女の存在は社会への挑戦と受け取っています。殺人は許されない。同性婚を認めることはできない。そうした法、あるいは価値観を破壊するため動いている』
『その動機は何でしょう?』
『人々から注目されたい。その一点に尽きるでしょうね。一昔前に世間を騒がせた迷惑系動画投稿者、彼らと同じですよ』
『そんな単純なものでしょうか?』
『多くの識者は勘違いしていますが、彼女は炎上で何かを得たいのではありません。炎上すること自体が目的で、快感を覚えている。我々には信じられないことですが』
『真中理央と、彼女の影響力に対し、どのように向き合うべきでしょう?』
『注目しないことです。こうして特集している時点で本末転倒ではありますが、注目すればするほど彼女の思う壺です。広告収入との関連も調べた方がいいかもしれませんね』
 このコメンテーターは少年法だか少年犯罪だかの専門家らしく、連日局を跨いでテレビ出演していた。成人男性が、別の成人男性を殺害した事件にもかかわらずだ。
 理央の会見以降、由依も亡き夫もその近親者という扱いになっていた。虐めの加害者やその近親者であったことを話題にする者はもういない。
「広告収入? 馬鹿が」
 祥子の声は冷たかった。捜査が進展しないことで、警察も世間から好き放題に言われていた。安全地帯から搾取しているだけの連中に、我慢できなかったのかもしれない。
「私が知る限り、理央はSNSを一切やっていませんでした」
「放っておいていいですよ。同性婚について気軽に触れたのは明らかな失言です。これは出演自粛になるでしょうね」
 発言は現実となり、翌日からこのコメンテーターをテレビで見ることはなくなった。
 というのはまた別の話。その後、彼が理央の崇拝者に襲撃されて、引退せざるを得ない重症を負ったこともさして語るほどの内容ではないだろう。
「ただいま」
 玄関から響く声は、とても絶縁中のものとは思えなかった。
 一週間ぶりに帰宅した理央は艶々としていた。新生活の充実振りが窺える。由依の前を通った香りはよその家庭のものだった。
「祥子さん! ちょうどいいところに」
「もうお暇するところです」
「えぇー残念」
 目の前のテレビが自分を陥れようとしていることへの感情はない。このコメンテーターが何を言っても、理央に作用することは叶わない。その現実に少しだけ救われる。
エメラルドの輝きは、少し伸びた前髪の影に隠れたままだった。
「では、私はこれで」
「お忙しい中ありがとうございました」
「玄関まで送ってくるね」
 もしかしたら、由依たち母娘に気を遣ってくれたのかもしれない。向かい合ったところで、もはや話すべき事柄もかけるべき言葉も見つからないが。
「あのコメンテーター、早速炎上している……どこかで使える駒かも」
 すぐに戻ってきた理央が、スマートフォンを片手に独り言のように述べる。
「……ちゃんと、ご飯食べているの?」
 不穏当な発言に被せるように、由依が当たり障りのない話題を提供する。一人暮らしを始めた大学生でもあるまいし、わざわざ聞くことでもなかった。
 恋人と、恋人の両親と囲む食卓には笑顔が広がっていることだろう。実の母親に見せることのなくなった笑顔が。想像すると、胃の中を握り締められたような痛みを覚える。
「食べているよ。お母さんは?」
「私は……」
 ここ数日間の食生活に言及しようとしたところで、言葉に詰まる。
 今朝食べたものがすでに思い出せない。夫を喪ってからというもの、記憶が欠落するような症状が続いていた。
「ボランティアに戻ったと聞いたけど、大丈夫?」
「大丈夫……大丈夫よ」
 そう口にすることで、由依は自分が極めて健全な状態であることを自覚していた。
夫の死を嘆き悲しんでいても、周りに気を遣われながら少しずつ日常を取り戻していく過程にあるのだと。
 自分が恵まれているという自覚はあった。
 地主の娘として生を受け、何不自由のない幼少期を過ごした。小学校から地元の名門と呼ばれる女子校に通って、箱入り娘として育てられてきた。
 思えば共学の国立大学を志望したことが、初めての我儘だったのかもしれない。
 夫とは、大学のサークルで出会った。彼は土地ではなく地盤を受け継ぐ県会議員の息子で、最初からシンパシーを感じていたと思う。
 由依にとって、初めての男性だった。唯一であり、最後になるかもしれない。夫の方は分からないが、そうだと信じたい。今となっては知る術もないが。
 夫は優しかった。他人に対し厳しい面はあったと思うが、少なくとも妻や娘にとっては良き夫であり父だった。
 娘は、特別だった。
 幼児期は甘えたがりだったが、物心がついてからは全く手がかからなかった。今にして思えば、最初から大人のような言葉遣いで話していた気がする。兄弟姉妹もいないので比較の仕様もないが、周りの親戚から見ても異様な存在だったと思う。
 エメラルドの瞳は不可思議でも、間違いなく由依たち夫婦の娘だった。
 夫には、由依の知らない顔があった。報道が事実であれば、中学時代に同じグループの男子生徒に虐めを加えていた。
 外見のことで揶揄ったり、持ち物に悪戯をしていたのだという。
 正直、それが殺意に結びつく意味が分からない。蝶よ花よと育てられた由依には、同級生への些細な悪意ですら見聞きした経験がなかった。
 世間の声が犯人への同情で溢れかえるとは、全くもって予想していなかった。
 今週に入り、由依はボランティアに復帰した。元々ボランティアを選んだのは、十分な世帯収入があってパートに出る必要がなかったからだ。
 活動内容は、デイサービス型の高齢者施設や障害者施設の支援。自分は恵まれた人生を送ってきたのだから、少しぐらい還元しなければという気持ちが多かった。
 ほんの少しだけ、県会議員である夫の支えになるかもしれないという打算もあった。
 復帰した由依に対し、同僚たちはなるべく気を遣わないように気を遣った。その配慮が痛み入るも、居心地はよくない。事件のことを何も理解していない、高齢者や障害のある人たちの相手をしている方が気楽だった。
 由依にとって、彼らは庇護対象でしかなかった。悪意を抱き、自分を脅かす存在になることはなかった。弱者に手を差し伸べることは重要だと夫は賛同してくれた。今となっては、そういう考え方自体が傲慢だったのかもしれない。
 夫は、二度殺された。
 安直な表現かもしれないが、被害者遺族としてはそう言うしかない。
 現職の議員殺害による言論弾圧に非難が浴びせられたのは事件当初だけで、犯人が声明を出した途端に世間は手のひらを返したように同情した。
 死んだ方がよかった、犯人は必要なことをしたという罵詈雑言。
 夫が議員として積み重ねたものはすべて無駄だと、ゴミだと吐き捨てられた。
 虐めの加害者は、その後の人生で何を成そうが罪人である。それが、少なくともネットの人々が突きつけてきた真実だった。
 過激なものほどよく残るというバイアスは抜きにしても、由依に対する同情は全くと言っていいほどなかった。死んだ方がよかった、犯人は必要なことをした。という罵詈雑言に加えて、議員が議員なら妻も妻だというものもあった。
 酷いものだと、妻と娘もまとめて死んだ方がよかったというものまであった。
 一人の夜、由依はネットの海に自分を探して彷徨う。夫の死後、毎夜のことだった。
 そこには、自分を傷つけるものしか存在しない。それなのに、どうして潜ってしまうのだろうか。怖いもの見たさだけで言い表せない、ある種の破滅衝動のようなものが脳にはプログラムされているとしか思えない。
 それでも、潜る度に少しずつ海底がきれいになっているのを感じていた。
 会見での理央の発言が、一夜の熱狂に留まらない新たな価値観を醸成したから。
 犯人の動機も被害者遺族の恨みも、世間がエネルギーを向けるものとしての印象を薄くしていったから。
「あなた…………まさか」
 それに気づいた瞬間、由依を制する者はいなかった。
 優しくも離さない強さで、理央の華奢な肩を抱く。キスできるぐらいの距離まで顔を近づけて、清流のように滑らかな黒髪の影にある、エメラルドの瞳を覗き見る。
 何一つ、特別なものを写していなかった。
 同性の恋人や、信頼する刑事に向けたものとは違う。彼女を利用し自らの株を上げようとする教師やコメンテーターらと同格であることを示す、感情のない色。
 だからこそ募る。なぜ? なぜ? なぜ?
 そんなに悲しい顔をしているのか。苦悩に顔を歪めているのか。
「私を……守ろうとしていたの?」
 つぶらな瞳が、初めての驚愕に見開かれる。正解に辿り着く可能性など、全く考慮していないようだった。驚きはあくまで驚きで、輝きをもたらすことはなかったが。
「守るよ。家族だから」
 それは慈愛であると同時に、由依に渡された確かな引導だった。由依の抱えている葛藤など、理央にとって世間一般にならされたものと変わらない。
 本当に大切なものは、盤上の外にある。
それでも手を尽くしてくれるのは、家族という生まれた時から存在する枷によるものでしかなかった。人を駒としか見ていない理央をもってしても、その楔を抜き去るのは容易なことではない。
「私は、そんなこと望んでな……」
 死体のように冷たい指先が、由依の口元に触れる。
エメラルドの輝きを向けられて、由依は思わず目を瞑った。
「言わないで。その先は聞きたくない」
 目を開けると、娘は一歩下がったところから笑顔に似た表情を浮かべていた。
 手を伸ばせば届きそうな距離が由依を試している。この話はもう終わりにしようという意思表示だった。
「お母さんは、大丈夫だよ」
 耳元で囁かれる、多くの女性を虜にしてきた声。
 同じ遺伝子を継いでいるとは思えない、甘い香りが頬を撫でる。硬直したままの由依に微笑みをくれると、理央は特別な人たちが待つ世界に足を踏み出す。
「理央ちゃん……待って」
「いってきます」
「理央っ!」
 次に再会した時、すべての脅威は消え去っていた。

【7月27日】

「これでひと段落ついたかな」
 新たに発生した事件の参考人として、理央が事情聴取を受けた帰り道。
 透き通るような声に、由依は周りの音が取り除かれる感覚を覚えていた。
「犯人が亡くなってしまったことは残念だけれど」
 ビル風が髪を揺らし、エメラルドの瞳が弧を描く。
 似たようなものではなく、紛れもない笑顔がそこにあった。
「しばらくは、哀れな被害者を演じないといけなくなっちゃった」
「理央、あなたって……」
「ん?」
「ごめんなさい。気持ち悪い」
「私は、私を受け入れてくれる人たちのところに帰るよ。だけど、忘れないで。あなたに危機が訪れたら、私は必ず駆けつける」
交差路で別れる後ろ姿に、迷いはない。
幼き日の記憶。由依が少しでも目を離すと、この世の終わりみたいな顔をして家中探し回っていた。作り物みたいに小さな手は、触れると幸せに涙が出そうになった。
 その面影が、重ならない。この先二度と、重なり合うことはない。
 だからいまは、祈りを捧げる。
 あなたの未来に、福音のあることを。

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