墓場荘①
一乗寺という町がずっと怖かった。
一見、閑静な住宅街だが実はラーメン激戦区だ。そしてどこかが潰れると空き待ちをしていたかのようにすぐに新しい店がオープンする。どういう仕組みでそうなっているのかは知らないが、一乗寺はラーメン業界の1部リーグなんだと思っている。
店も店なら客も客だ。誰も彼もサポーターのような顔をして行列に並んでいるが、何かあったらフーリガンになる。いざとなればリアルファイトもSNSバトルも厭わない……欲望と市場原理に支配されているとしか思えない。
勿論、以上は全て僕の勝手なイメージだが。一緒に行く人間のいない僻みから生まれた想像を修正する機会がないままこんな歳になってしまったのだ。
しかし深村さんから指定された仕事先が一乗寺だった以上、逃げるわけにはいかない。
16時半、僕は叡電一乗寺駅に降り立った。
学生とラーメン屋の活気で満ちた通りを息を止めながら駆け抜ける。そして古本屋の前で深呼吸をすると、観光客が通らないような細い路地へと入っていく。その先で、目的地である赤葉荘あかばそうはまるで忘れ去られた時代の墓標のようにひっそりと佇んでいた。
赤葉荘は昔ながらの木造モルタル二階建てのアパートだった。しかしよく見ると外壁のモルタルは至る所で剥がれ落ち、ベランダの鉄柵は赤錆に蝕まれている。近所のマンションのせいで日当たりが悪く、建物自体がじっとりと湿っているように見えた。確実に築50年は超えているだろう。
猫も20歳を超えると化け物になり始めると言うが、築50年を超えた木造アパートも怪異の類だ。僕の住んでいる下鴨のアパートも大概古いと思っていたが、昭和レトロと言いつくろう余地があるだけ遥かにマシだった。
僕が呆然と赤葉荘を眺めていると、アパートの向かいにある一軒家から人の良さそうな初老の男が出てきた。
「君、バイトの子だよね? 魔美ちゃんから話は聞いてるよ」
「は、はい……神田です」
挙動不審気味に自己紹介をする。人生はファーストコンタクトでなるべく好印象を与えるゲームなのは解ってきたけど、僕はいつまで経っても上手くならない。
「ボクはここのオーナーの赤川。よろしくな」
標準語っぽいがイントネーションは京都弁だ。
「見ての通りのボロ家でね。近所の学生たちからは陰で墓場荘はかばそうって呼ばれてるんだ。失礼しちゃうよね」
オーナーはそう言って悪戯っぽく笑った。自慢のジョークなのかもしれないが、こういう時に笑って相手の気分を害したことは一度や二度ではない。
「……はあ」
僕は気の抜けた相槌を打つことしかできなかったが、その呼び名は的を射ていると思った。
オーナーは僕の反応が拍子抜けだったのか、軽く肩をすくめて話を再開した。
「でもね。こう見えても人気物件で、部屋はほとんど埋まってるんだ。家賃は1万5千円だけど、君もどう?」
確かに赤葉荘に住めば月の固定費は少し圧縮される。でも今の部屋だって3万円だ。仕送りを打ち切られて、えり好みできる立場でないのは承知しているが、1万5千円を惜しんで住む気にはなれなかった。
「冗談だよ冗談」
きっと僕は凄い形相をしていたのだろう。
「普通の人間は住まないよ。ほら、京都には古本屋が多いだろう? ああいう人たちが予備の倉庫として借りてくれる」
なるほど。保管庫として活用しているのか。
「それに……」
オーナーは赤葉荘に視線を向けながら意味深に付け加えた。
「まあ、事故物件になっちゃったからね」
「事故物件……」
その言葉に僕の背筋に冷たいものが走った。10万円が動くんだから、穏やかな仕事である筈がなかったのだ。
僕が黙り込んでいると、オーナーは気遣うように「怖がらせてしまったかな」と笑った。しかしその目は全く笑っていない。僕がこの仕事から降りると言い出さないか試しているように見えた。
一向に本題を切り出してくれないオーナーに僕は痺れを切らした。
「あの……今日の仕事は何を……」
すると、オーナーは待っていましたとばかりに、にこやかに頷いた。
「ああ、そうだね。仕事の話をしないとね。うん、簡単な仕事だよ」
彼は僕の目をじっと見つめて、ゆっくりと言葉を続けた。
「空き部屋の103号室でしばらく過ごしてほしいんだ」
「……過ごす、ですか?」
「そう。電気も水道も通ってない。おまけに共用のトイレはとうの昔に使用不能。でも食料と携帯用のトイレはこちらで用意するから。スマートフォンは使ってもらって構わない。ただ一つだけ条件がある。音は絶対に出さないでくれ」
オーナーは人差し指を口の前に立てて、静かに言った。
「幽霊は騒がしいのを嫌うからね」
幽霊。その単語があまりに自然に会話に紛れ込んできたので、僕の脳は一瞬、理解を拒否した。
「……どういうことでしょうか?」
僕がようやく絞り出した問いに、オーナーは心底楽しそうに、その皺の深い顔をほころばせた。
「君にお願いしたいのは息を潜めて、そこにいるのかいないのか分からないようにただ過ごすことさ」
「幽霊みたいに過ごせということでしょうか?」
「まさにそうだね。極力音を立てず、気配を殺して過ごすのが君の仕事だ」
彼は期待に満ちた声でこう締めくくった。
「そして……もしも幽霊と会えたなら、私に詳しく報告してほしいんだ」
⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩
「ちょっと先に入ってて。必要なもの持ってくるから」
そう言われてオーナーに渡された冷たい鉄の鍵。僕はそれを使って103号室のひびだらけのドアを開けた。
死んだ空気としか呼びようのないものが外に流れ出すが、我慢して入る。
部屋の内部は僕の想像を遥かに超えて、ひどい状態だった。
部屋の畳たたみはとうに寿命を迎えているのに、筵むしろのようにささくれ立っている。部屋の土壁はそこかしこにひびが走り、指でもほじくれそうだ。天井には巨大な地図のような黒い染みが広がっている。
ほどなくしてオーナーがいくつかのビニール袋と大きな板のようなものを持って入ってきた。
「これ、飲み物と食料と携帯トイレ。あとあったら便利だと思って折り畳み式のテーブルも持って来た」
なんとも準備のいい人だ。だが寝袋がないあたり、寝ずに過ごせと言われているようで少し怖かった。
オーナーは「じゃあ、よろしく頼むよ」とにこやかな笑顔のまま出て行った。
僕はオーナーが置いていったテーブルを部屋の中央に広げ、持参したリュックサックを置いた。そして唯一の娯楽であり、外界との繋がりでもあるスマートフォンを取り出す。時刻は17時を少し回ったところだった。オーナーがよほど早起きでない限りはここで半日以上過ごさなければならない。
一乗寺は京都市でも北の方だ。日が落ちるにつれて部屋の気温は急速に下がっていくが、ここには暖房などない。僕はダウンジャケットの前を閉めたが、床から這い上がってくるような冷気は容赦なく身体の芯を冷やしていく。
僕は窓を背にして着卓する。そして気を紛らわせるために、日課となっているソーシャルゲームのデイリーミッションでもこなすことにした。イベントクエストも溜まっているのでしばらく暇にはならないだろう。
⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩
持ち込んだモバイルバッテリーで充電しながら、僕はタスクをこなしていった。やればやるだけゲーム内リソースが貰える。そして待機時間の長い仕事は真面目にソシャゲをプレイしている僕にはぴったりだった。
「趣味はソーシャルゲーム」と胸を張って言えるぐらいには時間を使っているが、アクティブにプレイしているアプリの数を告げたら世間から笑われるだろうという自覚もあった。
そんなに沢山掛け持ちしてどうするの?
いつかサービス終了するものにマジになる意味あるの?
自分の人生を送ってないから暇潰しが必要なの?
そんな被害妄想が僕を苛んだ。
青春を求めてやってきた京都。なのに何も思い通りいかなかった。
現実で厭なことがある度にアプリは増えた。レアリティの低いキャラにさえ物語があることが羨ましかった。捨てられないものを抱えながら行き止まりに辿り着いてしまったのが僕という人間だ。
やがて目が疲れたのもあって、スマートフォンを置く。時刻はまだ21時。朝までは絶望的なほど長い時間が残されている。
オーナーから差し入れられたおにぎりを適当に選ぶ。どうせ朝までに全部食べてしまうのだからと具も確認せずに開封したが、暗い中で食べると味が解らない。かろうじて具の歯応えから鮭フレークではないかと当たりをつけたが確信はない。
僕はここで朝まで過ごすということを甘く見ていた。
漫然と過ごすだけではネガティブなものに呑まれる……そう思った僕はこの仕事の根源について調べることにした。オーナーは「事故物件だ」と言っていたし、その痕跡がネットの海に残っているかもしれない。
僕はスマートフォンの検索窓に、『京都 一乗寺 赤葉荘 事故』と打ち込んだ。すると、すぐに『児島はてる』という事故物件の情報だけをまとめた、悪趣味なサイトがヒットした。
赤葉荘は確かに記載されていた。
『京都府京都市左京区一乗寺〇〇 赤葉荘104号室』
『心理的瑕疵 告知事項あり』
『20××年11月4日 室内にて縊死』
104号室……隣の部屋だ。
オーナーの冗談ではなかった。ほんの数年前、このアパートで誰かが自ら命を絶ったのだ。明るい時に確認しなかったが、土壁や天井にできている染みは誰かの顔に見えたりはしなかっただろうか。
オカルトなんて信じない。そう自分に言い聞かせても一度知ってしまった事実は、じわりと僕の理性を蝕んでいく。
寒さと孤独、そして新たに加わった死の気配。その中で僕の思考は更に暗い方へと沈んでいった。
こんな冷たくて暗い部屋で死んでいく。その絶望はどれほどのものだったのだろう。
ふと僕は見知らぬ死者の境遇に思いを馳せた。
僕はこの四年間、ずっと一人だった。誰にも理解されず、誰にも必要とされず、まるでいないかのように、この京都という街で息を潜めて生きてきた。もし僕がこの部屋で同じように命を絶ったとしたら……はたして僕は地縛霊になれるのだろうか。
地縛霊になれば僕という存在は京都という地に永遠に刻みつけられる。誰かが僕の気配を感じて、怖がってくれるかもしれない。忘れ去られて誰の記憶にも残らずに消えていくよりよほどマシではないか。
そこまで妄想して苦笑する。
きっと僕には地縛霊になる才能すらない。望んだ青春を送れなかったのも、仕送りを断たれて困っているのも、そして金欲しさにこんな仕事をしているのも、全て自業自得だと心のどこかで思っているからだ。
……ああ、こんな状況になってようやく解った。
僕は消極的でいすぎたんだ。機会なんていくらでも湧いてくると思っていた。みんなが必死で何かを掴もうとする中、 呑気に機会を見送り、更にえり好みしていた。
その結果がこの四年間だ。
……喉が渇いた。
僕は未開封のペットボトルのキャップを回し、喉の音が鳴らないように飲む……多分、麦茶だ。
暗闇でも味が解る。そんなことだけでセルフコントロールを取り戻せた気がする。
しかし反省は別にゴールではない。スタートに過ぎない。
今からこの仕事に積極的になるとして……どうすればいいのだろう?
仮に一晩過ごして、嘘でも「幽霊が出ました」と言えば依頼は達成したことになるだろう。でもだからなんだというのだ? 嘘をついて10万円貰ったところで、次に続くかどうかは解らない。
むしろ実際に幽霊が出なくても、積極的に幽霊を待った態度そのものの方が重要なのではないか。
でもどうやって待つ? 何をしたら出てくるんだ?
……いや、冷静に考えれば状況は整っている。
実際に幽霊は存在するかどうかともかく、オーナーは幽霊が存在すると堅く信じていそうだ。その前提なら……僕も信じることが大事なのではなかろうか。調子よくオーナーと話を合わせるんじゃなくて、まずは心から信じてみる。
ただ漫然と待つんじゃない。まずは幽霊はいると強く信じる。そして現れたら迎え撃つ……いや、可能ならコミュニケーションを取りたい。生きた人間と上手くやれなかった僕でも、孤独な幽霊となら会話できるかもしれない。
だから……もしも会えるなら教えてくれ。どんな気持ちでこの世を去ろうと思ったのか。今この世に縛られてどんな気持ちでいるのか。
それを聞けたら僕の抱える恐怖が和らぐかもしれない。
そんな救いのないことを考えた瞬間、空気が変わった。
いや、周波数が合ったというべきか。
それまで感じていたただの物理的な寒さとは違う、肌を粟立たせるような悪寒。
何かがいる。
そして壁の向こうからずっと僕を値踏みしている。
ずっとそこにいたのに知覚できなかった……そんな気さえしてきた。
気のせいだ。疲れているんだ。
そう自分に言い聞かせようとした、まさにその瞬間。
それは聞こえた。
左の壁……104号室の方から……。
空気が擦れるようにか細く、そしておよそ人のものとは思えない、歪んだ声が。
「タレカイルノ……」