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京都市民限定で求人が出ているとあるバイトについて|MF文庫J発売前4タイトル特別試し読み!

2025/11/14

第1話 深村堂


 長年の習わしを断つとき、人は激しい心の軋みを感じるものだ。

 例えば僕はソーシャルゲームの期間限定イベントを完走し損ねた時、ショックで吐いた。好きでやってたゲームだからこそダメージは大きく、今でも完凸できなかった報酬キャラを見る度に軽い動悸がする。
 そんな僕が後期試験の答案を白紙で提出したらどうなるか……想像してみてほしい。授業は全て出て、予習復習も欠かさず、答案の上で手さえ動かせば確実に優は取れると解っている試験だ。そして何より……卒業要件に必要なラスト2単位の試験だ。
 教室を出る時、噛みしめた奥歯が割れそうだった。内臓ごと吐きそうになるのを堪えて帰った。帰宅して即、気絶するように眠った。そして寝床から起き上がれなくなった。
 高校時代、どうしても京都に進学したかった僕は鉄のリズムで勉強をこなすことを誓った。毎日何があろうと一定の課題をこなせるなら、試験でそこまでみっともない点数を取ることもないと思ったからだ。いつしかそれは目論見通り習慣化し、気づけば大学進学という目標を達成した後も続いていた。
 寝床から出られないなりに動いてみようと天井に向かって手を伸ばしてみるが、その手はまだ震えていた。
 答案を白紙で出した目的は留年して京都での生活を延長するためだ。留年なんて少し前の僕では考えられないことだったが、10万円を賽銭箱に入れたことで無謀な行動が癖になってしまったのかもしれない。

 実家からメールが来た。留年が確定したことはもう伝えてある。
 ……仕送り中止? 学費は自分で払え?
 あまりのことに僕は跳ね起きた。先ほどまで動けなかったのが嘘のようだ。
 金策で頭が一杯になり、思わずあの夜に着ていたダウンジャケットの内ポケットに手を突っ込む。全財産を賽銭箱に入れたつもりで一枚か二枚残してた可能性に賭けたくなる気持ちが解るだろうか?
 はたして指先に細長い紙の感触があった。「紙幣であってくれ」とつまんで引き抜いてみれば一枚の赤い短冊だった。流石に虫のいい願いだったなと反省しつつ、短冊を眺めるとそこにはこう書かれていた。

 お金が必要なら大事にしているものを深村堂に持ち込むが吉


 いつ入れられたのか皆目見当がつかないが、それがあの男の手によるものという確信があった。

 ネットで検索したところ、深村堂はそれなりに伝統のある古道具屋らしい。ならば今すぐ金に換えられそうな家財はただ一つ、四畳半の中央に鎮座する木製の丸いちゃぶ台だけだ。名残惜しいがこれを売るしかない。
 僕は断腸の思いでちゃぶ台を背負って外に出た。その姿はさながらファルネーゼのアトラス像のようだったと思う。
 深村堂は御所の近く、丸太町通を南に少し入ったところにあった。寺町通を延々と南下している途中で心が折れそうになったが、これで文字通り肩の荷を下ろせる。
 店の戸に手をかけると、からからと乾いた音を立てて開いた。
 店内は薄暗く、古い木と埃と心を落ち着かせる白檀の香りがした。所狭しと並ぶ古物が歴史の重みを吸い込んで影の中で息を潜めている。それら一つ一つが誰かの人生の断片を宿したまま、次の主を待っているかのようだった。
「ごめんください」
 そう呼びかけると奥の襖がするりと音もなく開く。現れた若い和装の女性の姿を見て、僕は息を呑んだ。
 艶やかな長い黒髪に、知性を感じさせる顔立ち。多分、10人見て10人が彼女を美しいと答えるだろうが、僕が打ち震えているのはそんなことではない。

 フィクションでしかお目にかかれないような、謎の女主人が実在した!

 こないだの神社の男といい、いるところにはちゃんといたのだ。単に僕には縁がなかっただけで。
「あら、おいでやす」
 鈴を転がすような、しかしどこか底冷えのする凛とした声だった。
 彼女は静かに僕の前まで歩を進める。その地を擦るような足運びは、能役者のように洗練され、年齢にそぐわない静謐さをまとっていた。
「買い取りですか?」
 僕は黙って肯く。
 美人は苦手だ。まず僕には相手が何を考えているか解らない。それに美人というのは若い頃から様々な人が寄ってくるから対人経験値が僕のような社会不適合者なんかとは段違いだ。きっとどう構えていても、彼女にとっていいように容易く転がされてしまうのだろう。
「お兄さん、男前やね」
 ほら。そして僕はこんなお世辞すらどうかわしていいのか解らないのだ。
「……このちゃぶ台をお願いします」
 僕は曖昧に笑って、抱えてきたちゃぶ台を床に置いた。彼女は僕とちゃぶ台を交互に一瞥すると、その不思議なほど落ち着いた瞳をすっと細めた。
「なんや、ええ雰囲気のちゃぶ台やね。そんで大事に使てたんも解る」
 彼女はくすりともせず、今度は天板に目を移した。
「この艶は……学生さんが磨いたん?」
「はい。部屋でやることがない時は磨いてました」
「せやろな。やらしい手つきで磨かんとこないにはならんやろし」
「え、いや、そんなつもりで磨いてたわけじゃ……」
「冗談や冗談」
 彼女が僕の肩を叩く。やっぱり美人は苦手だ。何よりこういう時、気の利いた返しができない。
 彼女はちゃぶ台から完全に目を切って、僕を見ていた。まるで僕まで鑑定されているようで居心地が悪かった。
「パッと見やと、その辺の量販店では売ってないちゃぶ台やなあ。それでいてどこかの流派の特徴が出てるわけでもない。強いて言えば無銘の良品やね」
 プロの古道具屋ともなれば目だけでそのぐらいは解るのか。
「念のため質問しとくけど、どこで買うたん?」
「新入生向けのリサイクル市です」
 3月は様々な理由で京都を出て行く人間がいる。家財道具を単に捨てるにも処分費がかかるし、だったらせめてこれから新生活を迎える人間に安くで譲ろう、というわけだ。冷蔵庫や掃除機なんかもあそこで揃えたが、まだよく働いてくれている。
「このちゃぶ台をどんな人が売っていたかまでは記憶をよく遡らないといけませんが……聞きますか?」
「いや、ええわ」
 そう言って彼女はゆっくりとちゃぶ台の前にかがみこんだ。その所作は茶道の点前のように流麗で一切の無駄がない。
「この先は手で利くから」
 白く陶器のように滑らかな指が天板をそっと撫でる。その指は商品を値踏みしているというより木目に刻まれた記憶のログを一つ一つ読み取っているように見えた。
「ふぅん……」
 やがて彼女は天板の中央にある瑕を指先でとん、と軽く叩いた。
「この瑕は学生さんがつけはったん?」
 僕は観念した表情で肯く。天板中央の大きな木目に沿ってついた瑕だから目立たないと思ったのに。
「ああ、誤解せんといて。瑕も立派な来歴やで」
 彼女は顔を上げ、丸眼鏡の奥から僕を真っ直ぐに射抜いた。
「だからどんな理由でついたのか……そこが知りたいねん」
 彼女にこの場凌ぎの嘘なんて通じない気がした。
「僕がちゃぶ台を買ったのは……すき焼きのためです」
 声が震えた。誰にも言ったことのない秘密を開示した。
「すき焼きなんてなんでもできるやろ?」
「四畳半の木造アパートですき焼きをやるなら、これじゃないと駄目だったんです」
 彼女が僕の返事に納得したかどうかは解らないが、なんとなく面白がっているらしい。僕は話をそのまま続けることにした。
「このちゃぶ台は輝かしく、阿呆で愉快な大学生活のための聖なる祭壇になる筈でした。悪友たちと鍋を突き、馬鹿話を肴に安酒を酌み交わす。時には可憐な黒髪の乙女なんぞを部屋に招き入れ……そんなことを本気で思っていたんです」
 彼女は瞬きもせずに僕の顔を見ている。苦笑していないことに安堵したが、内心はどうだろう。
「だからサークルかバイトで出会った仲間と四人で……肉や野菜を買い込んで……僕の部屋ですき焼きをするつもりでした。1回生の冬頃にでもできたらいいなと……でもコロナでそれどころではありませんでした」
 あの冬、世界はまだ閉ざされたままだった。そして僕には仲間と呼べる人間もできなかった。
「あの頃は大変やったからな……学生さんは運が悪かっただけや」
「でも諦めきれなくて……一人でエアすき焼き会をやりました」
「エア……すき焼き会?」
 彼女は眉をひそめる。
「四人分の材料を買ってきて、食器も準備して……三人の来客があったかのように振る舞ったんです」
「そんなこと……可能なんか?」
「ええ。会のホストとして、〆のうどんまで頑張りましたよ。でも片付けの途中で限界が来ました」
「限界?」
「こんなことやってた自分が馬鹿みたいに思えて……包丁でちゃぶ台を斬りつけました。ただ、その一撃で『ただのやつあたりだった』と正気に戻って、それからはちゃぶ台を大事に磨きました」
 今から思えばあそこで正気に戻って、また別の狂気に向かっていっただけかもしれない。
「……それからすき焼きは口にしていません」
 付け足しのようにそう語り終えると重い沈黙が落ちた。古時計の振り子の音だけがやけに大きく響く。ああ、もう駄目だ。恥ずかしすぎる身の上話を、洗いざらいぶちまけてしまった。
 だが彼女はゆっくりと立ち上がると、思いもよらない言葉を口にした。

「3万円でどない?」

「……え?」
 3千円の聞き間違いかと思った。リサイクル市ではその値段だったのだ。
「な、なぜ……そんなに高く?」
 狼狽する僕を見て、彼女は初めてほんの少しだけ口の端を緩めた。その笑みはまるで蕾がほころぶように、しかし目が離せない魅力があった。
「いつ誰が作ったかも大事やけど、ウチのお客さんには来歴を重視する人も多いから。誰かと過ごす筈だった時間で磨かれた木は艶が違います」
 彼女はそこで一度言葉を切り、僕の目を真っ直ぐに見つめて、続けた。
「何より、ええお話やないの」
「……お話?」
「四年を孤独に過ごした大学生が、来ぬ友を待ちながら、叶わなかったすき焼きの夢を乗せてたった一人で磨き続けたちゃぶ台……その物語に値打ちを感じるお人もおるやろうな」
 こんなことが……こんなことがあっていいのか。
 打ちのめされている僕の前に彼女は3万円を置いた。
「なあ、学生さん。そないに大事なちゃぶ台を手放さなアカンほどお金に困ってますんか?」
「ええ……ちょっと仕送りを打ち切られそうで」
「せやったら単発のバイトせえへん?」
 彼女は悪戯っぽく、しかしやはり解析不能な笑みを浮かべて人差し指を一本立てる。

「首尾よういったら10万出させてもらいます」

 10万円。その数字が僕の脳内で現実的なリソースとして認識されるまで、数秒を要した。
 月々の仕送りがなくなった今、この10万円さえあれば一息つける。何より賽銭箱に放り込んだのと同額ということに因果を感じてしまう。
 だが話がうますぎる。僕の本能が最高レベルの警告を発していた。それを見透かしたように彼女は付け加えた。
「ただし……ちいと変わったお仕事ですけどな。勿論、口外も禁止や」
「噂の闇バイトってやつじゃないですよね?」
「あんなゴロツキの使いっ走りと一緒にされたら困るわ。敢えて言うなら……黒バイトやね」
 その瞳はやはり笑っているようで、同時に僕の全てを試しているようにも見えた。
 3万円だけ貰って断るのが賢明な判断だろう。だが僕の直感はこう言っている。
 お前は京都で不思議な体験をしてみたかったんだろう? だったらこれが最初で最後のチャンスかもしれない。きっと地獄に垂れた雲の糸だ。
「……その話、やらせて下さい」
 僕の申し出に彼女はにっこり笑う。そこでようやく僕は彼女の名前を知らないことに気づいた。
「僕は神田祟といいますが……なんとお呼びしたら?」
「深村魔美や。よろしゅうな」
 深村さんが手を差し出してきたので思わず握り返す。白く、吸い付くようなしっとりとした手だ。縁を深めるお馴染みの儀式の筈なのに、何故だか僕は深村さんから鑑定されている気がした。

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