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2025/11/14

第16話 書楼 祇陀林⑤


 翌朝、僕は温かい朝食を祇陀林といついさんと三人で食べた。祇陀林の僕へ質問攻めは相変わらずだったが、いついさんは昨夜のことなどおくびにも出さずに僕らの会話を聞いていた。
 食事を終え、いついさんが淹れてくれた熱いお茶をすすっていると祇陀林が目を細めて僕を見る。まるで鼠を眺める猫だ。
「さて、いつまでも保留はさせんぞ。早速こき使ってやろうかのう」
 僕は意を決して祇陀林の目から隠していた『洛東巷説顛末』を取り出した。
「実は目当ての本がもう手に入りましたので……お暇しようかと」
 僕がそう言うとそれまで機嫌が良さそうだった祇陀林の眉が、ぴくりと寄せられた。
「なんじゃ、お主いつの間に……」
 祇陀林は少し困ったようにいついさんに視線を送るが、望んでいたような助け船は得られなかった。
「もう好きにせい。じゃが忘れるな。これで深村家の貸しが減ったわけではないからな!」
 祇陀林は拗ねたようにそう言い放った。
 だけど僕はそんな彼女の目を見て、こう言う。
「あなたはとても優しい方ですね」
「……なんじゃと?」
 想定外の言葉をかけられて、祇陀林は改めて僕の顔を見る。
「昨日、あなたが何気なく口にした符帳を頼りに書庫を歩いてみたら、こんな僕でもちゃんと辿り着けました。あれは敢えて僕に聞かせてくれたんですね?」
「それは……」
 祇陀林にすればうっかりミスだろう。でも僕は知らないフリをする。
「何より、あなたが本の在処を正確に憶えていたお陰です」
 「五百年以上生きている祇陀林」という建前は壊さずに、その重責を担う彼女の心を少しでも軽くしたかったのだ。
「あなたは決して忘れっぽくなんかない……立派な祇陀林ですよ」
 そんな僕の言葉に祇陀林は何も言わない。ただ、その琥珀色の瞳がわずかに揺らいだ気がした。僕はさらに言葉を続けた。
「今回はどうしても外せない用事があるので、これで帰ります」
 僕は一度言葉を切り、祇陀林の目を真っ直ぐに見つめた。
「でももしこの先、あなた一人では手に負えないような大変なことがあったら……その時はいつでも僕を呼んで下さい。可能な限り、すぐに駆けつけますから」
 これは嘘偽りない言葉だった。
 祇陀林という途方もない使命をたった一人で背負わされている、この小さな少女に逃げ道を作ってやりたかったのだ。
 勿論、彼女がその使命を投げ出すつもりなどないことは解っている。だが「いざとなったら、誰かに頼ってもいい」と思えるのと全てを一人で抱え込むのとでは心の辛さがまるで違う筈だ。
 僕の申し出を聞いた祇陀林は目を見開いたまま、完全に固まっていた。その琥珀色の瞳がみるみるうちに潤んでいく。
 まずい、泣かせてしまった。
 僕が慌てていると彼女ははっとしたように顔を伏せ、数度咳払いをした。そして再び顔を上げた時にはもういつもの尊大な祇陀林に戻っていた。
「……ふん。小僧のくせに、生意気なことを言う」
 彼女は照れ隠しのように、そう吐き捨てる。そして少しだけ逡巡した後、まるで大変な恩恵でも与えるかのように、こう言ったのだ。
「まあよい。その心意気だけは認めてやる。特別にわしを『丙子へいし』と呼ぶことを許す」
「へいし、ですか?」
 聞き慣れない言葉に思わず問い返す。すると祇陀林は少しだけ誇らしげに、そしてはにかむようにこう答えた。
「わしの真名じゃ」

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「別に呼び出されんでも来ていいんじゃからな?」
 そう言った丙子とは玄関で別れ、僕はいついさんと並んで石段を降りていた。
「そういえば祇陀林と深村家の間の貸し借りは別に動かなかったんですかね」
「気にするな。貸しなどただの名目、別に取り立てるつもりもない」
「もしかして……深村さんを呼ぶことが本来の目的だったんですか?」
 いついさんは肯く。
「ただ歳の近い人間を呼べば丙子の気晴らしになると思っただけじゃ。それなら深村のとこの小娘で充分だったのだが……」
「すみません、僕がもう少し若ければよかったんですが……」
「まあ、結果的にはお主で良かったと思うぞ」
 社交辞令でもなんだかむず痒い。僕は話題を変えることにした。
「あの……祇陀林を終わらせることができなくても、形を変えることはできるんじゃないかと思うんです」
「ほう?」
「技術の進歩って凄いじゃないですか。データの管理なんてExcelでもできますし、最近はAIだって出てきました……祇陀林を変化させる種はそこかしこにある筈なんです。勿論、不躾なことを言ってるのは自覚してますけど……」
「……実はわしもそれに近いことを考えておった。十数年前からな」
「え?」
「でもなかなか思うようにはいかん。丙子も苦労して……」
 そこで丁度石段を降りきってしまった。話は気になったが、この先は石が転がる下り坂だ。行きに僕が蹴ってしまった石すら、目の見えないいついさんにとっては命取りになるかもしれない。
「あの、もうここで結構ですよ」
「心配は無用じゃ」
 いついさんはそう言って自らの顔に巻かれた白い布にゆっくりと手をかけた。その予想外の行動に僕は息を呑んだ。
 微かな衣擦れの音と共に目隠しが外されると、現れたのは琥珀色の瞳だった。しかも僕の姿を捉え、瞳孔が微かに収縮している。
「盲目じゃなかったんですね……」
「……思っていたより男前じゃな」
 いついさんは僕の顔をまじまじと見つめながら穏やかな笑みを浮かべた。
 白すぎる髪と口調から相当の高齢かと思い込んでいたが、おそらくは最初の想像よりもずっと若い。僕は長らく会っていない母親を思い出した。
「少し歩こうかの」
 僕が驚きのあまり何も言えずにただ歩調を合わせていると、いついさんは僕の疑問を先読みしたかのように静かに続けた。
「わしらみたいなのは目を開けておくだけで余計な記憶が増えるからのう」
 その言葉で僕は彼女たちが背負っているものの本当の重さを理解した。
 僕たちは忘れることができる。昨日食べた夕食も一週間前に聞いたニュースの内容も意識しなければ記憶の彼方へと消えていく。だが彼女たちは違う。見たもの聞いたもの全てが脳という蔵の中に蓄積されていくのだ。
「陳腐な表現ですが、想像を絶するストレスなんでしょうね」
「ああ。お陰でこんなに白くなってしまったのう」
 そう言いながら、いついさんは僕に鋭い視線を投げかけてきた。
「それにしても、お主は罪深い男じゃな」
「……なんのことですか?」
 唐突な言葉に戸惑っていると、いついさんは肩をすくめた。
「丙子はお主を気に入ってしまった。責任を取って顔をまた見せろ」
「そんな、まさか……僕は誰かに好かれたためしのない人間ですよ?」
 だがいついさんは僕の反論を、まるでそよ風のように受け流した。
「……わしが言うんじゃから間違いない」
 どういう意味だ?
 その真意を問い質そうとしたら坂道が終わり、少し先にあの黒服の男が待っていた。いついさんと過ごす時間もこれで終わりだ。
「また来い。もてなすぞ」
 再訪するという気持ちに嘘はないが、そこまで念を押されると少し怖い。
「解りました」
「ああ、それとな……」
 いついさんは僕の耳元であることを囁いた。
 その言葉は目隠しをされて、黒塗りの高級車に揺られている間も消えなかった。

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「うわ、早っ!」
 夕方、深村堂を訪れた僕を深村さんはそんな言葉で迎えた。
「なんですか、その信じられないって目は」
「……祟、まさかばっくれて来たんか?」
 疑り深くそう尋ねる深村さんに僕は『洛東巷説顛末』を渡す。深村さんは僕と本を交互に見比べながら受け取った。
「信じられへんけど本物やな」
「僕なりに頑張った成果です。まあ、一泊で済んだのはラッキーでしたが」
 成長した僕を自慢してみたが、深村さんは心ここにあらずという様子だ。
「……お金は本が売れてからでもええ? こんな早く戻ってくるとは思ってなくて」
 ああ、僕への支払いがすぐにできないことを気にしていたのか。
「別にいいですよ」
 深村さんからの仕事で当面の生活費はあるし、別にここで無理を言って彼女を困らせるつもりもない。
 それにささいなことではあっても、人に貸しを作るのは気分がいい。
 僕は近くの椅子に腰を下ろしながらこんなことを尋ねた。
「……深村さんは祇陀林の店主が五百歳以上って話を信じてますか?」
 祇陀林の真実に触れた優越感が言わせた台詞だった。
 だが深村さんの返事は意外なものだった。
「いや、祇陀林の内部で何かしらの引き継ぎが行われているのはみんな解ってる。でもその品揃えも知識も確かや……だから向こうがそう言い張る以上は、五百年歳以上生きとる店主として扱う。顔を立てんといかんからな」
 なんだ。
「五百年以上生きる人間なんていない」と看破したのは僕だけかと思ったのに……。
「でも『五百歳以上の店主がいる』とみんなして言うたら、それはもうおるんと同じことや。少なくともこの京都ではそういう論理が罷り通る」
「はあ……」
 じゃあ、真に受けた僕が馬鹿みたいではないか。
「とはいえ外からは何代目なのかは解らん。だから怖いんや。おまけに向こうはこっちの家のことを知ってるし……」
 書楼祇陀林が深村家から貸しを取り立てる気がないことは敢えて黙っておいた。この人にも少しは弱点があった方がいい。
「なあ祟、あの祇陀林のババアが何代目か知らん?」
「どうでしょうねえ」
 僕は生返事をしながらスマートフォンで「丙子」を調べる。Wikipediaには「干支の組み合わせの13番目で、前は乙亥、次は丁丑である」とある。
 乙亥という文字を見て、書楼祇陀林からの帰り際に囁かれた言葉を思い出した。

 「深村の小娘はいつかお前を裏切るぞ」

 それが一体どういう意味なのか……深村さんの顔を見ても解らなかった。

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