SHARE

京都市民限定で求人が出ているとあるバイトについて|MF文庫J発売前4タイトル特別試し読み!

2025/11/14

第0話 蜘蛛の糸


 世界を憎みたい時、僕は全財産をポケットに入れて外に出る。

 下鴨の夜道はしんと静まり返っている。古い街灯が作る長い影、暗い路地の奥、乗り捨てられた自転車の陰。その全てが僕の財産を狙う敵の潜む場所に見える。
 思わず着古したダウンジャケットの上から内ポケットを押さえてしまう。中には10万円の入った封筒……落とせば素寒貧だと思うと中の羽毛にまで神経が通う気がする。
 刃物のような冷気が肺腑を刺し、吐いた息が真っ白な塊となって夜の闇に溶けていく。まるでHPの減少が可視化されたみたいだ、と他人事のように思う。
 そんな白い息を不意の突風が吹き散らす。二月の京都の風は頬を撫でるなんてものでなく、鼻と耳を削ぎ落としていくように吹く。僕はダウンジャケットのジッパーを喉元まで引き上げる。
 前方から楽しげな話し声が聞こえてくる。若い男女の二人連れだ。僕は彼らと目が合わないように男のポケットの不自然な膨らみや、女が持つショルダーバッグのストラップを握る指先の力みを凝視する。
 すれ違う瞬間、男がこちらを一瞥した。ただの好奇心か、獲物を見定める目か。僕の心臓が小さく早鐘を打つ。すれ違った後も背中を警戒する。
 僕は仕送りと単発のバイトで家計を賄っている。下鴨の家賃3万円の安アパートのお陰でなんとか生活費を圧縮できているが、月々の黒字分はタンス預金にしてしまっている。就活費用でかなり目減りしてしまったが、それでも虎の子の10万円なのだ。
 あの二人の気配はもう消えたが、自転車のホイールが軋む音が聞こえてきた。見れば学生らしい男が無灯火でこちらへ向かって来る。いや、襲撃を悟られまいとブラインドアタックを敢行しているのかもしれない。
 僕は襲撃に備え、咄嗟に身を固くする。だが学生はイヤホンから音漏れさせながら、すぐ横を猛スピードで駆け抜けていった。ほんの一瞬の出来事なのに背中にじっとり汗を掻いていた。
 たった三人とエンカウントしただけでこの様だ。以前、神経がすり減りすぎて玄関先でぶっ倒れたこともある。だけど、こうしている間だけは孤独が能動的な孤立へと変わる。
 世界は敵だらけ。誰もが隙あらば他人のものを奪おうと目を光らせている。こんな世界で誰かと繋がりたいなどと願うこと自体が愚かで致命的な間違いなのだ。
 ……こうとでも思わないと、京都で青春を送り損ねた悲しさに溺れそうになる。

 僕が生まれ育ったのはいわゆる田舎で、そこではあらゆる人間関係が何重にも閉じていた。「いずれあの閉鎖的なシステムに組み込まれてしまうのだろう」と絶望していた時に出会ったのだ。
 京都の学生生活を描いた作品群に。
 そこに描かれた数々の青春はありえないほど眩しく、そして暗い井戸の底から見上げた太陽のように僕の目を灼いた。そして京都に行けば救われると思った。
 やがては、歩くだけで様々な出来事を引き寄せる黒髪の乙女、口先で天才や殺人鬼たちと渡り合う本名不詳のイかれたあいつ、そして三十歳まで生きられないと宣告された名探偵……彼らの存在を夢想するようになった。
 そして京都に行けば会えると強く信じた。
 中高時代は学校で孤立していたが関係なかった。勉強する時間はいくらあっても足りなかったし、むしろ帰れる場所なんてない方が新天地へ跳ぶための弾みになるとさえ思っていた。空き時間はGoogleマップで京都を散歩し、自分の中の京都を育て続けた。
 そうして僕は全てと引き換えに京都に進学した。なのに四回生の冬になっても何の役も、何の縁も、何の物語も得られなかった。
 大学デビューをしなかったから、高校在学中にコミュニケーション能力を伸ばさなかったから、そしてコロナ禍で様々な出会いを喪失したから……今なら理由らしきものを並べられるが、全ては後の祭りだ。

 収奪を警戒しつつ鴨川デルタに到達した僕は中州の南端にしゃがみ込み、流れていく川を眺めていた。黒々とした川面は街の光を鈍く反射し、賀茂大橋を人や車が往来する……こんな景色をかつて読んだ小説の登場人物たちも見ていたのだろうか。何の役割も得られないなら、せめて彼らの見る景色の一部としてここに佇んでいたいと思った。
 背後から学生のグループがやってくる気配があった。振り向くと連中の提げているコンビニ袋が見えた。ここで深夜まで酒盛りをするつもりなのだろう。目を合わせていなくても、どこかに行ってほしいという視線を感じる。
 僕は景色の一部にさえなれないんだ。
 僕は腰を上げて、帰るために北西の方角を目指す。あと数人とすれ違えば神経が限界を迎え、帰宅してすぐに失神できるだろう。
 こんなおかしな現実逃避もこれっきりにした方がいい。何より考えるべきこともやるべきことも山積みなのだ。
 それでもまっすぐ帰る気も起きず、小さな路地をあみだくじのように曲がり続ける。四年近く住むと、こんなことをしたってどうせ帰れてしまうという舐めが生まれるのだ。
 やがて僕は古ぼけた小さな神社の前に出た。ただ、あまり記憶にはない。下鴨に限らず、京都の街中には歯科医と同じぐらい小さな神社があるし、利用しない歯科医をいちいち記憶したりしない。
 何気なく境内に視線を向けると、長い髪を後ろで結んだ巫女のような人影を見たような気がした。
 反射的に目を擦る。こんな時間に巫女なんている筈がない。ましてやこの寒さで巫女装束なんて……でもその人影は消えなかった。それどころかこちらへ歩いてくる。
 目が慣れてくると自分の見間違いにも気づく。まず袴の色はお馴染みの赤ではなく、浅黄色だ。そして……おそらく巫女ではなく男性だ。
「そこのあなた……」
 「おそらく」とつけたのは女性と見間違うような顔立ちをしていたからだが、声で女性ではないことが理解できた。だが続く言葉に僕は撃ち抜かれた。

「胸に秘めたものがありますね?」

 「胸に秘めた」なんてあくまで慣用表現にすぎないし、大概の人間は胸に何か秘めている。でも全財産を胸に入れた僕に初撃を当てたのは事実だ。僕は何も言えずに黙り込む。男はすかさず二撃目を当ててきた。
「猫背で絶えず周囲への目配りを欠かさない……それは胸元に大事なものを入れている人の歩き方です」
 務めて無表情を装おう。でも男は僕の心を見透かしたようにこう囁く。

「……今あなたを襲ったら、コスパがいいんでしょうね」
 僕は人のことを決めつけて話しかけてくるノリが嫌いだし、自分で脚本を書いたコントに巻き込んでくるような奴も嫌いだ。
 なのに、僕の身体は喜びに打ち震えていた。
 全財産を奪われるかもしれないというのは僕の妄想だったが、この無意味な一人遊びがついにコミュニケーションとして成立してしまった。
 男は足音もなくゆっくりと距離を詰めてくる。死にたくはないし、素寒貧にもなりたくない。でも今この男に襲われて死んだら、無為の京都生活が昇華される気がする。
 どうせ殺すなら鮮やかに、劇的にやってくれ。
 僕が覚悟すると同時に、男は両手を挙げる。
「はは、冗談ですよ。学生さんの懐なんて知れてますからね」
 人生最大の覚悟が無駄になったと悟った時、羞恥と憤怒の波に襲われた。大切なものを捧げようとしたのに「要らない」と突き返され、尊厳を踏みにじられた思いだった。
「……何が、目的なんだ?」
 雰囲気のある場所で、ミステリアスな美形から好意的に話しかけられる……幾度となく夢想した展開だ。だからこそ、あまりにも僕に都合が良すぎる。目の前の男を狐狸とか妖怪とかのカテゴリに入れ、つっけんどんに接するべきだと判断した。
「あまり面白くない言葉ですね。初撃を疎かにしない方がいいですよ」
 数々の忌まわしい記憶が蘇る。実際つまらない奴と言われて育ったが、義務教育にお笑いが含まれるこの地では面白くないことが罪になる。失望されすぎて、ついには自分から人に話しかけるのが苦手になった。
「……面白くないのがそんなに悪いのか?」
「そんな顔しないで下さい。誤解があります」
 よほど沈痛な表情をしていたのだろう。男はフォローするように柔らかく笑う。
「私に言わせればね、面白くない人間なんていないんですよ」
 僕は恐ろしかった。こんな怪しい男の言葉にこれ以上耳を貸す必要もないのに、的確に欲しい言葉を投げてくる……。
「でも僕は面白くないと言われ続けて……この歳になってもひとりぼっちだ」
「それは出会った人たちがあなたの面白さに気づかなかっただけですよ」
 こういう時、心ある人間なら気休めでも慰めの言葉を口にしてくれるものだ。けれども四年分の躓きは僕を狷介な気持ちにさせるのには充分だった。
「だったら僕の面白さってなんだ?」
 食ってかかられても、男は僕から視線を切らない。僕を熊か何かだと思っているのかもしれない。
「大半の人間は自分の面白さに気づかずに生涯を終えます。仮に気づいたところで、それを他人に上手く伝えられる人間の方が珍しい……だからなるべく若い内に自分で見つけ、伝える努力をしないといけないわけです。まあ、これは面白さに限った話ではありませんけどね」
 その言葉はかえって僕を打ちのめした。難しくとも決まった答えのある入試なら知識を詰め込めばどうにかなる。でも男の提案は残りの人生をかけても達成できない気がした。
「何かに悩んでいるのは解りますよ。でも面白くないからって落ち込む必要はない」
「他人事だと思って……」
「ではあなたが面白かったら今抱えている問題は解決したんですか?」
「それは……」
 そう言われると困る。確かに僕が面白かったら誰かと関係を構築できた可能性は高い。だけど「この人と繋がっていたかったのに」という後悔は一度もなかった。
「もっとシンプルに考えましょう。あなたの求めるものは何か? そのために何が必要なのか……これに訊けば一発ですよ」
 男の指先にあったのは賽銭箱だった。暗くて気づかなかったが真っ黒だった。黒檀製かもしれないがこんな賽銭箱は二十二年生きてきて見たことがない。
「神様にお祈りしなさい」
 この男のお陰で今日だけで様々な感情を知ったけど、まさか殺意まで喚起してくれるとは思わなかった。
「……馬鹿にしてるのか?」
 男は殺意を受け流すようにゆっくりと首を横に振る。
「生き物である以上、誰にだって漫然とした欲望があります……ですが、それを言葉にできない人間のなんと多いこと。勿論、欲望が混沌としすぎて言葉でほどけない人もいますけどね」
 僕の欲望は京都に来る前から育ち始めた。お陰で今はもう欲求も解消法もよく解らなくなっている。
「お金がほしい、モテたい、有名になりたい……どんな愚か者だって参拝の時は自分の欲望を言葉にできるじゃないですか」
 この男の言葉には不思議な力がある。本当かどうかはともかく、信じたくなる言葉を吐く才能は確かだ。気がつけば僕は吸い寄せられるように賽銭箱の前に立っていた。
 強い信仰心なんてなくたって、人間は自分よりも遥かに上位の存在に対しては素直になれる。僕の凝り固まった心を解きほぐすのに神様を利用するのはアリかもしれない。 
「神様への祈りなんて所詮は自己暗示に過ぎないかもしれません。でもだからこそ真剣にやらないと効果がないです」
 真剣にやる……強く祈るとか? いや、それぐらいはみんな当たり前にやっている。当たり前では駄目だ。当たり前に生きてきたからこの様なんだ。
 なんでこんなことをしたのか上手く説明できない。男の言葉を一笑に付してこの場を去ってもよかったのに……僕は懐の10万円を賽銭箱に放り込んでいた。
 背後で男が驚く気配を感じながらも、僕は願いを口にする。
「どんな悪縁も受け入れます。だから僕に最後のチャンスを下さい」

 そうか。僕は望んだような青春を送れなかったことではなく、勝負さえさせてもらえなかったことが悔しかったのだ。そして生まれ育った田舎にはいなかった魅力的な人物がこの土地にはいるということを信じたい。

「お願いします。狂おしいほど恋い焦がれた京都を……失望したまま去りたくないんです」

 願いを口に出していたことに今気づいたが構わない。全財産を投げ込み、自分の舌と喉で発さなければ絞り出せない願いがある。
 振り向くと男が興味津々という表情で僕を見ていた。
「なんで虎の子を投げ込んだんですか?」
 その理由なら答えられる。
「この一帯ではひっきりなしに神頼みが発生していると思った……だから忙しい神様が一瞬でも僕を見てくれるように全財産を入れた」
「ふふっ」
 男が笑った。愛想とかじゃなくて、心からの笑いだったと思う。
「私と神様しか見てなかったのが惜しいですね」
「今のが、面白かったのか?」
「ええ。あの瞬間、京都で一番面白かったことは保証しますよ。この面白ささえあればきっと誰かがあなたを見つけてくれますよ」
 方便でも救われる気がした。10万円を喪失した痛みは不思議とまだない……後から効いてくるのかもしれないけど。
「ところで、あなたの名前は?」
 男に訊ねられて少し困った。僕はあまり自分の名前が好きじゃない。名前のことを散々揶揄われて育ったし、何より神社で口にするには不吉すぎる。
「……神田祟。祟りの祟だ」
 それでも名乗ったのは何かの縁だと思ったからだ。
「なんだ、良い名前じゃないですか」
「どこが? 怨霊みたいな名前だろ」
 男はニッコリと笑って、こう言い放った。

「名前の中にカンダタが住んでます」

 僕は静かに感動していた。当意即妙にそんなことが言えるのは小説の中の人物だけだと思っていたからだ。
「だ、誰が盗賊だ」
 いかにも冴えない返しだ。口にした瞬間に後悔した。だが男は僕の失投もちゃんと受け止めてくれた。
「きっとお釈迦様が蜘蛛の糸を足らしてくれますよ」
 僕は突然敬虔な気持ちになり、賽銭箱の前で目を閉じて、また祈りを捧げた。
 早速こんな男と引き合わせてくれてありがとうございます。できればこんな縁をもっとお願いします……。
 10万円のご利益がこれっきりでも充分に元が取れたような気はしていたが、更なる欲が湧いてきたのだ。
 あ、そういや名前を聞いてなかった。
 僕は祈りを中断し、振り向きながら訊ねる。

「なあ、アンタの名前はなんていうんだ?」

 だが境内にはもう男の姿は影も形もなかった。

みんなにシェアしよう